犬っ子モカと、柊なゆた。
【2015年、春。柊なゆた】
耳奥を掻き毟るように風切り音がざわめいている。
街灯の明かりを頼りに一歩、また一歩。足を引きずるように歩く。数歩先、明滅を繰り返す電灯。そこから伸びる明かりを頼りに私はおもむろに辺りを見渡してみる。
……誰も居ない。
風だけが悲鳴を上げるように闇へと紛れていく。吹きゆける風音に心筋が収縮する。胸がざわめきを露わにする。吹き付ける風が冷気を伴って体を舐めるものだから私はたまらず身震いをしてしまった。
私は最近カットしたばかりのセミショートヘアを揺らしながら、飾り気とは全く無縁な市の指定ゴミ袋(緑)を引きずり歩く。白い息が目前を駆け上がる。恐る恐る辺りを窺いながら歩を進めていく。
時刻は深夜2時を回っただろうか。この時刻は旧暦で丑三つ。寝る間を惜しんでか、ただ眠るのに慣れていないのか、幽霊さんや呪いを掛ける物騒な人、そんな方たちが闊歩する時間帯でもある。
そもそも彼らは何故こんな時間を指定して事を起こしているのだろうか? 心気臭いったら無いし、こんな夜中に怖くないのであろうか? 翌朝眠くなって起きられなくはならないのだろうか?
客観的に悩みつつも、足だけは立派な志を持っているようで、前へ淡々と進んでいく。
そんなゴミ捨てに街を徘徊する少女、私、柊なゆたが願うのは、ただ一つ。
『物騒な何かに出くわしませんように!』って、そんな一念なのだ。
「怖いものは怖いもんね。うん、私おかしくない!」
自分自身へ呟いて闇夜に蠢く自分の影を威嚇してみた。
「……ってゆか、早く終わらせて帰ろっ」
脇を流れる一陣の風が足を止めた私をせわしくも物悲しい響きを上げ追い立てる。
……人生立ち止まってばかりではいけないのだよ? そう言いたげな春風なのかもしれない。
そもそもだ。何故深夜のこんな時間に、薄暗く寒い路地裏を、燃えるゴミを片手に、高校生になろうとしている女の子が、年頃の女性である私が、独り寂しく闊歩しているのか?
……事の始まりは数刻前にさかのぼるのだ。
※※※
ごく普通のコンビニに、ごく普通に売っている、定価118円のポテチの哀れ極まる断末魔の叫びが薄暗い自室へ木霊する。寂しげな悲鳴、……もといポテチの破砕音は私が立てているものだ。
机に備え付けられた弱々しいライトの下、デストロイヤー(破壊者)たる私は装丁華やかな本と睨み合っている。
指先で次のページを捲っていく。挿絵には、片腕の無い、けれど凛々しい青年の絵が描かれていた。
私、柊なゆたは自分でいうのもなんだけど、至って平凡な女の子だ。生まれて此の方、不思議な体験をしたことは特に無い。日々安寧気ままに過ごしている。つまりは今日も趣味の読書に勤しんでいるわけなのだ。
中学卒業間近に肝を震わせてくれた高校受験という行事。それには数日前から徹夜を繰り返す位には必死になった。
つまりアレだ。受験に掛ける一点のみが不思議な体験、云わば事件だったと思うわけだ。
なんて、今の今まで私は考えていた。
『……ある特定の人物を除いて考えれば、』という条件付きではあるのだけど……。
3日後に高校入学を控えた現在は、中学人生の基盤だった暑苦しい部活生活からも解き放たれ、本の世界の住人とお話をする日々が続いている。まさに平凡人生万歳、といったところである。
今日も今日とて3ヶ月前から発売を楽しみにしていたハードカバーの一冊を机の灯りを頼りに読み進めていたところ。夕飯を終えてからずっと手に腰を落ち着かせていた本。その空想とも、時代が一歩進めば起こりえるともとれる世界に私はどっぷりと浸っていた。そんな本の世界に住む魅惑的な住人達とポテト菓子を摘まみながら会話していたのだ。
本書の主人公『ジョーカス・オリファー』が剣を鞘に収めたところで一旦目を離す。着込んだピンクのパジャマを引き伸ばすよう大きく背伸び。髪を払って長く一息。喉は知らぬ間に渇いていた。
「――ゃ~ん」
階下から、ぼやけた音色が微かに且つ悩ましげに響いたような、そんな気もする。しかし今はそれどころではなかった。
再び動きゆく物語にふと、紅茶のカップへ伸ばした指先が止まる。
書の中の英雄、麗しの騎士『ジョーカー様』、その掴む剣の先で刻む定めの影を示し一言囁く。
《――「ボクはここに残す者を、悲しむ人々を、……これ以上創る気は無い!」――》
頬が徐々に熱を帯びていくのが自分自身で分かった。隻腕の騎士ジョーカー様は囁くように声を漏らすと、その剣の切っ先へ光を翳していく。
「――ゃ~ん、聞こえないのぉ? ねぇね、ねぇってば、なゆちゃ~~ん」
闇の衣を纏った夜盗、その1人が吐いた罵倒の声を合図に、ジョーカスの前にその影が次々と宙を舞う。
《「……これもヒトの世の一縷の綻び、なのだろうか」》
一瞬の間を置き、肉塊の落ちる音が6つ。
ジョーカス・オリファーは剣を背の鞘に収めるとそれ以上は口にせず立ち去った。倒れ伏す黒き群れには一筋の血の色さえ見受けられない。在ったのは吐き出しかけの呪詛、漏れた吐息の欠片のみ……。
「――ちゃん。なゆちゃんってば、……あっ、こんなところにチーズケーキがあります」
《チーズケーキ》
それは新手の敵、その陰湿な武具の呼び名であっただろうか? い、否!
ワンワードを引き金に私の脳がその言葉の意味するところを求めた。夢のようなひと時が現実へ移り変わっていく。
そうだ! チーズケーキ(あの子)は確か、冷蔵庫の奥、3段目の右隅に仕舞って置いたはず。明日の午前、朝食の後に優雅にしかし極秘裏に嗜もう。そんな甘い思惑をもとにそっと取って置いた品ではないか!
「わっ! ま、待ってよっ! 今行くから、それは、それだけは食べちゃ嫌だよ!」
本を片手に叫んだ。おやつの危機に、慌ててジョーカスの住まう世界へ栞をはさむ。勢い任せに叩きつけ腰を上げ椅子を跳ね飛ばす。
「ジョーカー様ごめんなさい! 後でまた、必ずお会いしましょうねっ!」
走りざまに両手を合わせた。私は今、囚われの姫を救うべく果て無き階下を目指さねばならない!
スリッパへ足を半端に通しながら、雪崩るように階段を駆け下りる。愛しきものを守るため、息急きつんのめるようにキッチンへと足を踏み入れた。
顔を突っぱねるように突き出した先には、緑の袋を胸の前へ構えた私の母、柊真衣の姿。私はすぐさまその指先を確認。母の口元を凝視。どうしたものか、姫の姿は影も形も無い。
「なゆちゃん。今日の朝、ゴミを捨てるのを忘れてしまいました。……どうしましょう」
お団子に纏めた髪の下で細い肩を垂れ下げ、母親が上目づかいで私を見つめている。
私はそれを無視。小走りに薄水色の冷蔵庫を開け放ち、中を確認。その奥から目的たる姫の救出を行うと、私はその甘酸っぱい芳香に安堵し、ただただ力が抜けてしまった。冷たき箱へ愛すべき姫を仕舞いなおす。
私は疲弊し頭を垂れてしまった。悔しいかな。姫チーズケーキの無事が確認出来た今、夢の世界を遮られた事が遥か昔の出来事のように懐かしい。
「そ、そんなことだったの? 明日にでもすればいいじゃない」
力無く言葉を吐いた私の前、悪しき魔王、では無く実の母親が己気ままに、
『……はぁ、』とため息を漏らしている。眠たげな眼をぽそぽそとしばたたかせ、不満に歪んだ私の眼差しを見つめて、こう仰るのだ。
「町内会のお約束なんです。明日じゃ、4時に起きなきゃ間に合わないの。お母さん明日はお休みだから起きられないかも……。どうしましょう、なゆちゃん」
腰が崩れフローリングへと落ちてしまった。唸るようにため息を吐き出す。これは、そう。例えようも無い脱力感だ。理不尽というか不条理というか、そんなどこか欠陥を持った感情なのだろう。
お尻を床に付けたまましばし思案。心地よいお尻の冷たさはどうでもいいとして、実は私自身も朝が苦手だったりする。
血圧が低いから、朝、頭に血が回らない。起きられないのはきっとその低血圧が原因。そしてそれはこの母親譲り、遺伝が影響しているに違いない。……少なくとも私はそう考えている。
部屋の時計を見上げると日付は次の日へと移り変わり、その後長針が2度目の回転を終えようとしていた。
「ぅ、う~~ん。私、今から捨ててくるよ。すぐ帰ってくるから、お母さんは寝て待ってて!」
すぐさま階段を駆け上がり、パジャマの上からコートを羽織る。
「にゃぁぁ」
真夜中の騒動に、この家の住人の1人、気ままな寝床を信条とする、シマ猫の『しまちゃん』が異議を唱えた。私はペコリ、心の中でそっと謝る。
「ごめんねぇ、なゆちゃん」
階下へ降りると、申し訳なさそうに俯く母の姿。実年齢より若く見える彼女が、旋毛の中央を自分の娘に覗かせている。
「なゆちゃんにお任せなのだ! あとでお小遣い頂戴ね」
片手を掲げ私は母に応えた。携帯サイズの懐中電灯をポケットにねじ込むと、威勢よく玄関の扉を開け放ち外の世界、春の夜空へと飛び出したのだ。
※※※
風が猛々しくいなないている。
未だ冬の面影を残す寒風に私の体は追い立てられ、その寂しげで音の無い町並みに火照った心が急速に怖気づいた。今何かの間違いで、日常では滅多にお目にかからない危ない『ナニカ』に襲われてしまったらどうなるのだろう。絶対に無いとは限らない。それこそ、柊なゆたという生物は恰好の得物なのではなかろうか。
「こ、こんなことなら防犯ブザーでも持ってくればよかったかな……、キャッ!!」
闇から広がるくぐもった音。
「……ナァーー」
暗い路地から迷い出たナニカの咆哮に、腰は早々と力を失い崩れ落ちた。足は力を伝達することを拒み、私の体はアスファルトの大地にへたり込んでしまう。情けない。そう思う余裕も無い。地面の冷たさに身が凍り付く。
震えつつも、恐る恐る上目づかいで前方を覗いてみる。そこには路地裏へ意気揚々と足を運ぶ黒猫の姿が在った。
「はぁ。び、ビックリしたぁ」
数秒間、その場で息を整えた。冷えたお尻を払い震える腕に力を込めて腰を持ち上げる。視界を左右前後にすばやく移動させ足元を確認、再び歩を進めた。
「あ、あと200メートル。な、なにも出ませんよう……、にゃッッ!!」
猫のような声を上げてしまった。怖々と空に混じる電線を見上げると、心の防波堤を乗り越えるように野太い声でカラスが鳴いている。闇の中、黒い尾羽が艶やかに煌めいていた。
鈍色の羽ばたき。その後、空へと溶けていくかのように闇の中をカラスが飛び去っていく。
2度、3度の凶事に私の心は完全に脅えてしまった。
先ほど姫を果敢に救い出した勇者は実は勇者などではなく、一平民。ただの“自称”勇者だったのではなかろうか?
粟立つ体が必死に、さめざめと訴えている。
『……引き返せるのなら今すぐにでも引き返せ! どうだ、帰りたいのだろ? 自分に正直になれ、なゆちゃん!』
無数のハウリングを伴い、この胸に木霊する。
「も、もぅ嫌だよ~っ!! さっきから何なのよぉ」
闇の重圧に堪え切れず、私は走りだしてしまった。強く引きずって袋が破れてしまうかもしれない。そんな悩みよりも得体の知れない漆黒の存在、寝静まった町に突如として響く狂音に、私の脳が脅えていた。正常な機能を果たすことを深層意識が拒んでいる。
自宅からおよそ400メートル。荒く息を吐き出しながらも狭い路地に立つ電柱の下、こぢんまりとしたゴミ収集場へ、やっとの想いで辿りついた。
『やったねなゆちゃん!』
自分への歓声も疎かに、私は及び腰でゴミを早々に放り出す。そして振りぬくようにきびすを返した、のだけれど……、
……この町のゴミ置き場には珍しい、青のポリバケツが私の目に留まった。
意識した理由ははっきりとは分からない。感覚的なものだった。
至って普通と云えば普通。しかし、街灯に照らし出されたその容器の下部。そこにあった1行の書置きに目が吸い寄せられた。プラスチックの板が1枚、街灯に照らし出されている。
【拾ってください】
……捨て犬だろうか。捨て猫だろうか。どちらにしても私はこの手のことを見過ごすことが出来ない。そんな人種だった。
人の都合で飼い始め人の都合で捨ててしまう。そんな人たちの行いは、私が小さな頃から思う1つの『悪』の形であったから。
世話が出来なくて捨てる。なら初めから飼わないで欲しい。そうせざるを得ないなら、次の飼い主を見つけるなりペットショップに相談するなり方法はあるはずだ。
「……猫さんなら私の家で飼えるかも。みぃちゃん達のお友達になってもらおう。
犬くんなら、う~~ん、お家の仲間はいっぱいなんだよなぁ。
……明日、いや新学期が始まってから友達に頼んでみようかな。なゆちゃん的には猫ちゃん希望っ!」
街灯に照らし出されたポリバケツの中からは物音1つしない。無垢な生命が己の現状を知らずに、深く寝入っているのかもしれない。
私の経験その1つから考えて、騒がしくない場合中に居るのは複数より1匹の可能性が高い。それなら一緒の家族になれるかもしれない。
一時の間、私の脳裏から漆黒の恐怖は飛び去っていく。新しく出来る家族への期待は桃色の傘のように、恐れを伴う心の雨を弾いていた。
「猫(吉)と出るか。犬(凶)と出るか?」
私は蓋を持ち上げバケツの中を覗き込む。猫ちゃんかな? それとも犬くん? 心が高鳴る。
「お出でませっ!」
果たして、吉だったのか、凶だったのか。その中で可愛くうずくまって居たのは、
…………1人の女の子だったわけで……。
「お、女の子を捨てるなぁ!!」
な、なんでやねん! 私は思わず叫んでしまった。深夜、人々が寝静まった時間帯であるにも関わらず、だ。落ち着いたばかりの心へ再び激しい動悸が沸き起こる。心臓に起爆スイッチを仕掛けられたような想いだった。どうかナニカの間違いであって欲しい。そう願いたい!
深く息を吸い込み、心を無理やり落ち着かせてみる。そして『すうすう』と寝息を立てる女の子の肩を揺すった。その頭部にふさふさとした耳飾りが見受けられたけど、それも今の私には小さな問題に思えた。
《ゴミ捨て場で女の子を発見! 捨て子か?》
地方新聞の朝刊、その1面に堂々と広がる見出しが頭を過ぎった。
《今期の新高校1年生、捨て子を放棄? 未だ逃亡中》
頭の中を更なる怖い文面が流れたのでその1文を慌てて削除する。そういうのは物語限定のお話で願いたい。
「ね、ねぇ起きて。大丈夫?」
ポリバケツの中で、犬耳、すすけたパンツルックのその子が体を揺らした。
「ぅ、……うやぁ」
電灯の下、彼女はちんまりとした口を大きく広げ、息を吐く。眉に当てた指先をもぞもぞと動かすと、狭い空間の中から私の顔を仰ぐように見上げてきた。その瞳が私をおぼろげに捉える。
……視線が絡み合った。
眼差しの先、そこに居たのはとっても可愛い女の子。今は見惚れている場合ではないのだけれど、その子の顔は目を奪われる程可愛く整っていて、知らず知らずに私は魅入ってしまった。
「き。キミは誰?」
ぷにぷにとしたほっぺ。くりっとした茶の瞳。ウエーブ掛かった栗色のショートヘア。ファンタジー小説の妖精を思わせるその容貌で、その子は薄ピンクの唇を開く。
「ボクでしゅか?」
「う、ぅん。キミの名前は? お家は何処なのかな?」
彼女は瞳を閉じ、長いまつ毛を垂らす。そして再びその瞳を広げた時、頭部の耳飾りをピンと伸ばして朗らかにこう宣ったのだ。
「ボクは『モカ』でしゅ。お家は、……まだ無いのでしゅ」
私の心の中で、……時間と空間が固定された。目が硬直。上手く言葉に表せない。
「お、お家はまだ無い、……って。」
辺りはまだ暗い闇に覆われている。だけどその子の周りだけは、闇から切り取られたように暖かな空気が感じられた。私の眼前で彼女だけが零れるような笑みを見せている。
首を大きく振り乱した。寒さを忘れた体温が私の背中をねっとりとした汗で湿している。
そう、そこに居たのは猫でも犬でも無く、身元不明で捨て子の女の子なのだ。
深く息を吐き頭上を見上げる。視界を窮屈な大地から大空へ解き放つ。
電灯の光から移り行くように一面の星空、煌々と明滅を繰り返す輝きを眺め、私は再び息を吐いた。
今時、いや柊なゆたの一生の中でも2度は在りえないであろう捨て子の言い分。犬耳を付けた少女のワンフレーズ。
「あ、あはは……、は、」
ふと頭がふらつき意識が飛びそうになる。あの徳川様の犬将軍もお顔真っ青かも、なんて考えてしまって。
現状を否定しつつも、私は自分を見上げる視線をむず痒く感じていた。感じながらも底冷えする身体をぎゅっと抱きしめる。
頬を強く捻ってみた。
……悲しいかな、そこはとても痛い。
「ジョーカー様。この不条理な現実をその名高き勝利の剣で切り裂いてくれませんか? 柊なゆた、初めてのお願いですっ!」
己が慕う英雄に願った。真摯に、でも半ば諦めを以って。頭上で強く手を組み合わせるそんな私に応える英雄の甘い囁きは、やはりというか当然というか、どこからも在りはしない。
「わん、なのでしゅ!」
瞳を現、青いポリバケツの中へと戻してゆく。その狭い器の中で、“住所不定、犬耳着用”の女の子が空を求めるようにその細い腕を差し伸ばしていた。
それは遥か銀河の星々を求めていたかのようにも見えた。
ただ確かだったのはその愛くるしい眼差し、その輝きは間違いなく私を選んでいたということ。
彼女は、……私だけを見ていた。
「ボクを、拾ってくだしゃいますか?」
その子の指が私の裾を強く掴んだ。寒いのだろうか、その指が……震えているようにも感じた。
――これが、謎の犬っ子『モカ』と平凡な地球人『柊なゆた』の第1次遭遇だったのだ。
※※※
目蓋の奥へ差し込むよう朝の日差しが身を責める。小鳥のさえずりが耳にこそばゆい。日の匂いが籠もる毛布を私は優しく抱きとめた。……とても心地良い。
汗ばんだ素足が熱を帯びていない箇所を求め彷徨う。冷たい場所を発見し自然と頬が緩んだ。
小鳥の鳴き声に窓を叩く音が交差する。――……いい国作ろう? 鎌倉幕府?
脳内を虚ろに、年号と武士の一団が奔走している。
……あれ~、鎌倉幕府、滅亡してるよぉ。
「――もしも~し」
「……ぅ、ぁは~~ぃ。どなた様ですかぁ」
温もりを残すベッドから寒々と足を降ろし、もやの掛かった目蓋を擦る。千鳥足で窓際へと向かった。背後では女の子の穏やかな寝息が流れている。……今思えば鎌倉幕府は良かったよなぁ。
部屋と外界を仕切るカーテンを開け放つ。光を遮る黒い影が其処には在った。
「朝早くに申し訳御座いません。ワタクシ、こういう者です」
窓辺から黒服覆面の男性が名刺を差し出す。すべりが悪い窓をぎこちなく開け、私は胸元に提示された名刺を受け取る。
……徳川幕府は、鎌倉には劣るよね。渋みとか、そういうの。
脳内で戦を拡げる鎧甲冑、その合戦を春の外気が吹き飛ばしていく。名刺を前に室内へ突風が舞った。
《DDD団執行部長。サトウ タカシ》
「……」
「誠に恐縮です。出会いの演出も考えてはいたのですが回りくどいのも如何なものかと思いまして。
プランとしては、登校中パンをくわえたワタクシが非常識にも、
『遅刻、遅刻~っ』と叫んで、なゆたさんにぶつかるというものもあったのですが、ワタクシとしましてもそれは、」
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
叫んだ。窓を力いっぱい、叩くように引き締める。脳が一気に覚醒した。虚ろだった意識は全開。瞳孔がカチリと開ききる。パジャマの前、首元の襟を両手で包みこんだ。手のひらを脅え高鳴る胸へ押し当てる。な、なに? いったい、なに?
気がついた時、その時にはすでに朝になっていたよね。それで、スズメ?のさえずりを聞きながら、ノックの音がして、……私は窓を開け放ったんだ。
一つ一つ自分の行いを指折り振り返る。
「あの~。宜しいですか?」
そうしたら覆面の……。……校倉? あぜくら、って何だっけ?
「ワタクシ、用事が……」
「ちょっと黙っててくださいっ!」
「はい、す、すみません」
自称、DDD団のサトウタカシさんが居た。ちなみに私の部屋は“2階”の南側に面している。
…………。
うん、分かんない。全然分かんない。無理がありすぎる試行錯誤を私は早々に放棄した。
「ぅんん。……ふやぁぁあ」
背後には目元を擦るこれまた謎の女の子。
「なぅ~。どうしたでしゅか」
否、数時間前に私が拾ってきた子だ。彼女は猫のように顔をぬぐい目を擦っている。
――覆面長身の男性。――栗毛犬耳の女の子。両者の間に立って私は交互に見渡してみる。
確認事項。ここはこの春、2日後の式を経て無事高校生となる女の子、茨城にあるこの町、柊家に極々普通に住まう一人娘、柊なゆたの寝室だ。
…………なんだ、これ?
眼前のやり取りではこうだ。サトウと名乗る人物が名刺を片手に頭を下げる。住所不定犬耳の女の子が、
「ご丁寧に、ありがとでしゅ」
おぼつかない足取りで布団から抜け出て一言。ぺこりとこれまた頭を下げ短い茶のウェーブを前方へ揺らしている。出会った時のパンツルックそのままで窓際までふらふらと歩いていくと、ごく普通にその紙切れを受け取っていた。
「えっと、ダダダ団の方でしゅね。新聞は要らないでしゅよ?」
……なるほど。新聞屋さんだったのか……。
私は視線を左方向、朝日の差し込む窓辺へと走らせる。サトウさんが顔の前で手をふるふると扇いでいる。
「って、どう見ても違うでしょ。こんな覆面の新聞屋さん、この日本に居るわけないでしょ! サトウさん、あなたも他人事みたいに頷かないのー!」
サトウさん、覆面から覗く緑色の瞳をゆっくり閉じる。両腕を絡ませ細い顎を重々しく一振り。その一連の動作が早送りで巻き戻される。
「そ、そうでした! わ、ワタクシとしたことが……。我らは」
マイペースな男性? 自称執行部長のサトウさん、はその人差し指を青い空へと掲げた。
「DAれかの為に」
両手を、構えた頭上から花を咲かせるような動作で左右へ広げていく。
「DOんな事でも」
背筋を伸ばす。窓の外、1階の屋根の真ん中、敷き詰めた瓦の上で直立の姿勢を取る。不遜気に右の拳を胸に押し当てる。
「DOんと来い! な団体。略してDDD団です。以後お見知り置きを」
……。上手い言葉が出なかった。
「よくここが分かったでしゅね! なぅは渡さないでしゅよっ!」
犬耳少女は威勢よく啖呵を切ると胸の前で編むように指を組んでいく。右腕を高く掴むように空へ掲げていく。
「時間、空間における凍結開始でしゅ。レディー、ふぃーしぃ!」
【Yes,master!】
少女の叫びにフリーシーと呼ばれたワンパクそうな少年の声が、私の脳、そして辺りの空間へと走り抜ける。遥か空からそのリズミカルな英音が部屋の中に木霊する。目に映る世界が色あせて(?)いくように、……全てが灰色になっていく。
少女の手には、いつしか一振りの青い刀剣が握られていた。柄には紅い輝石があった。
【ready?】
空から剣の柄に移ったのだろうか、その石の中からフリーシーと呼ばれた軽快な英音が響いている。
「三種の神器が一、時を硬化し子供の世界を守る武具、紅狗『フリーシー』。やはり貴女が持っていましたか」
サトウさんは女の子の青い刀身を前にあごを上下させる。しかしその後に続いたのは、何故か疑問を含む問いかけだった。
「しかし、なゆたさんを渡す? 何のことです。真紅の狩人、事情はつかめませんが邪魔をするなら貴女もただでは済みませんよ?
どんな時も。どんな時でも。ど根性ぉ。お出でなさい、鋼の眷属『DONDONアント』」
少女が作った映り往く全てが虚像の世界、その全てが息を止めた世界にあぶくの様に一体の蟻型ロボットが現れた。
しかし、その蟻という表現は形だけのことだ。大きさは私の家、その軽く4倍はあるだろう。
覆面を纏った黒服の彼は、異常とも思える跳躍力で屋根伝いに移動、蟻型ロボット、その上方中央部分に入り込む。巨大ロボットの足という足、その触覚を含む全身が唸るように、でも軽快な機動音を立てていく。
「……私どうしちゃったんだろ。夢でも見てるのかなぁ?」
目を擦り己の脇へと視線を移動させる。
……いつの間に着替えたのだろう。そこには、真っ赤なリボン、白銀の胸あて、緋色の篭手、身体の各所を鋼の煌きで覆った、少女モカ、その姿が在った。
身体の錆を払うよう彼女は腕を振るう。その頭上に輝くは、紅き犬耳。
「ドンドンタイプなら」
少女は赤茶の耳を揺らすと華奢な指で指し示した。その細い指先は、……偉大な天を指していた。
「コンマ1秒でしゅ」
「ワタクシも簡単にはやられませんよ。し、……しかし、」
対するサトウさんは犬耳の戦士に指を突きつけ、……されど即座に踵を返し蟻型兵器の機内を漁っている。
「しかしワタクシ、狩人のコンマ宣言を初めて聞きました! 感激です!! 頑張れ真紅っ! えるおーぶいいー、ラブリー真紅っ!」
そしてサトウさん、先ほどまでの強気な意思も忘れてしまったのか、コクピットの窓から白旗を振っていた。どうにも展開が、というか彼の思考が読めない。
真紅の狩人と呼ばれたモカちゃん。その瞳、長いまつ毛が伏せられていく。
「りみっと5、あふたぁばーすと。」
【Limit5,afterburst!】
モカちゃんの後にフリーシーの声が続く。彼女は、眼前に刀剣を構えていく。長いまつ毛が跳ねあがった。
「GO!」
モカちゃんが言葉を吐いた次の瞬間だった。彼女が二階の窓枠から空に飛び込む姿、それを私の瞳孔が捉えた。それが最初。そして最後でもあった。
その影を地に映す間すら無かった。認識出来たのは空を斜めに奔る蒼い太刀筋。爆発を巻き起こす蟻んこ機械。
炎上する残骸の先で、長剣を構えるモカちゃんの体躯だけが黒抜きの色で映えていた。
何が起こったのか? 私には未だ理解出来ない。ただ、燃え上がる残骸とその先の蒼い太刀筋ばかりがこの意識を魅了していた。
【3、2、1、】
フリーシーの流麗な声が時をカウントする。
「バースト。……砕け散れ、虚像」
それは灰色の世界の終焉だったのだろうか? 灰色から変わった、全てが炎上したのかと思わせる紅の空間で少女が呟く。
【0.Afterburst!】
灰色の後に広がった緋色の世界。その世界は蒼い剣から届くフリーシーの声、そのゼロの宣言と共に再び掻き消えていく。
戦いの経緯、そこで経過したのはおよそ5分程度であろうか。モカちゃんの姿も出会ったばかりの時に着ていたパンツルックに戻っている。
壊れたものなんて何も無かった。蟻型ロボットの残骸も消えている。何もかもが有りの儘。何一つ変わらない色鮮やかな日常(世界)がそこには在った。
「やっほ~。なぅ~!」
視界の先の街路樹から笑顔で手を振る彼女に、私は隻腕の騎士、物語の中でしか生きることが出来ない戦士の姿を、憧れの英雄その勇壮な体躯を重ね合わせていた。
一瞬。獲物を狩る一瞬だけ世界を駆けた紅き少女の姿。それは正しく、
……真紅の狩人。
「なゆちゃ~~ん。朝御飯出来ましたよぉ~~」
階下から何も知らない母親の呑気な呼び声が聞こえてくる。朝日が部屋に斜光を注ぐ。光と闇、淡い世界を2つに分けようとその足を伸ばしていた。
「そういえばサトウさん。……何でこの犬っ子さんを応援してたんだろ?」
(正常だと思う)私の意識をただ置いて、モカちゃん、彼女の瞳は私のパジャマ姿を追っていた。その髪は眩い太陽を映し、小柄な体躯は大地を軽やかに駆けていた。
「……疑問は疑問を生み成長を続ける。山のような謎は朝食の時間へと持ち越されるのであった」
なんて物語なことを、他人事のように私は呟く。
でも、眼前で起きた真実に比べれば私の妄想なんて可愛らしいことだったんだ。
そもそも、私にはどれが真実で、何を以って現実とするのか分からないのだ。今の私にとって“現実”という言葉ほど信憑性に欠けるものは無かったんだよ。
※※※
ふわふわとした甘い香りが起きたばかり鼻をくすぐる。色とりどりの料理がダイニングルームのテーブルを賑わしていた。私の向かいの席には目を見開き卓の隅々を眺め回す少女の姿。その瞳は眩しそうに時折瞬きを行っている。
「まいたん! これ、この緑のお野菜食べていいでしゅか?」
「いいですよぉ。どんどん食べて下さいね」
少女は私の母親に確認をとると、ほうれん草の御浸しを口いっぱいに含んだ。もぎゅもぎゅとおもむろに咀嚼している。
「うややぁぁ! 美味しいでしゅ~!」
瞳を閉じて、ほころび波打つ口元を夢中で押さえる少女。その頭部には赤茶の犬耳。それがぴくぴくと室内へ風を送っていた。
「あ、あのさ、モカちゃん」
お食事の邪魔しちゃうかな。そうも思ったけれど言葉を投げかけた。
「んぎゅんぎゅ。なんでしゅか、なぅ」
口の中を整理した女の子、モカちゃんは顔を上げて満面の笑みで私に答える。覗いた八重歯にはほうれん草の緑色が張り付いていた。
「……なんで、そんなに普通なの?」
極めて一般的な意見を問うてみた。夜更けから朝方未明にかけての出会い、今朝起きたこと諸々を、である。
「?」
しかし、当の彼女は何を指して『普通なの?』と訊かれているのか分からないらしい。まつ毛を瞬かせ、きょとんと私を見ている。
「……お母さん」
右斜め上の席、己の母親である柊真衣へと相手を変える。
「な~に、なゆちゃん?」
お母さんは口元、私から見て唇の左端に米粒を数個飾り付けている。しかし、それに気付く事その素振りさえ見せずににこやかな笑顔で己の娘を振り返る。
「なんで、驚かないの?! 捨て子だよ! 住所不定の女の子だよ! でっかいロボットも一撃なんだよっ!!」
「?」
呼称『まいたん』もまた、何を以って『驚かないの?』と訊ねられたのか理解出来ていないらしい。モカちゃん同様、顔を傾け不思議そうな目で私を見ている。
「そういう難しいのはお母さん苦手なのぉ。
それよりなゆちゃん、モカちゃん、まだまだご飯ありますよぉ。いっぱい、い~~っぱい食べて大きくなってねぇ!」
まいたんはこの事件を全く気にすることなく、満面の笑みで私達を見渡している。両手にはおかずの乗った大皿が燦然と輝いている。
……もしかして、
この2人が実の親子で、ここに居る柊なゆたが部外者なのではなかろうか。そしてこの2人の考えが世間一般に置ける正常で、己が異常なのではなかろうか。
ご飯茶碗を手に視界を閉ざす。テーブルの一角で1人考え込んでしまった。
今更な説明かもしれないけれど、私は今日未明の出会い、今朝の特撮番組宛らな殺陣を、階下に降りてすぐ、キッチンで鼻歌を歌っていた母親、柊真衣に説明してある。
左手側壁中央に鎮座するテレビ、その新型デジタルに映る朝のニュースは、今日は全国的に晴れの天気になるであろう。と報じている。
極々普通。日常の1コマである。
そんな大して変化の無い世の中を映し出す画面と、目の前、犬耳戦士と母親の他愛もない朝食事情を照らし合わせていると、どこから来たのか、私の身体へ頭痛と目眩が襲ってきた。辛うじて吐き気は襲って来ない。
気持ちを切り替えたい。そういうわけではないのだけど、天気予報を延々と凝視する気にもなれず手持ちのリモコンでチャンネルを切り替える。
【アイドルグループ、ムーンラビッツの星乃巧。深夜の熱愛か?】
巷で人気のアイドル、その醜聞映像が流れた。しかし私はこの手の話も画面上のアイドル、その自称『甘いマスク』も好きではない。画面上のアイドルが記者の回すカメラを隠すように手を伸ばした時点でウンザリした。素早くリモコンのスイッチを押しつぶす。
【傲慢戦隊ヘタレンジャー! 今日も大事なナニカをキープオフッ!!】
画面に戦隊アニメ、その前振りが流れた。口に含んだ卵焼きのトロミをそのままに、慌てて部屋の壁に固定された時計を確認する。
【7:28】
あと2分で1週間の中で1番楽しみにしている番組が始まってしまう!
「っわわっ!! ヘタレンジャー始まる時間だよっ! お母さん、食事中だけど見てもいいかなっ!」
胸の前で手を合わせ食事も途中にテレビへと意識を集中した。目の前の映像に赤と緑、それぞれのタイツ姿が映えている。
《――な、何をするんだ、ヘタレグリーンっ!! 脇の染みは擦ってもなかなか落ちないんだぞ。まさか貴様、この俺が臭うって言うのか、この卑しきミドリムシめ!!》
話の前振り。山の頂でお決まりのポーズ、そして服の清潔感を熱くアピールするヘタレレッド。そんな彼の前にフレームイン、指先をワキワキと振るわせながらアップで迫る、ミドリムシことヘタレグリーン。
《もういい! 怪人より寧ろお前を倒す! そこの通りすがりの執事ヤムチョさん、一緒にヤツを倒そう!》
ヘタレッド、(何故か山頂を)通りがかった人を(何故か)執事と見破り勧誘する。
《はい坊ちゃま。グランバ○アを立て直す為、このサンチョ、専心誠意で頑張る所存です》
通行人、ボケているのか熱く応える。
《おう! いくぞ! 愛と悲しみと、にわかに出来た主従関係のおぉおぉぉ、爆熱、シャ~~イニングフィ……ぃぁぁぁぁぁぁ……。》
超必殺技を放とうとしたレッドが、番組開始3分で、背後に回ったグリーンに脇を撫でられ谷の下へと落ちていった。レッドの悲痛な叫びと共に画面へ赤枠の文字『傲慢戦隊ヘタレンジャー』。
オープニングソングを背景に谷底へ落ちてゆくレッド。その後の特撮特有、大げさな爆発シーンに、私は腹を抱えて笑った。
「うやぁぁ! なぅ~、まいたん! このトマト甘くて美味しいでしゅ~!!」
「あらあら。良かったわねぇ~、モカちゃん」
向かい側の少女、モカちゃんは真っ赤なトマトの半円を口へ運んでもぎゅもぎゅ。実に満足そうである。
その隣のまいたんは「あらあら」と自分の口に付いた米粒に未だ気付くことなく、娘の友人だと信じて疑わない女の子、その口の端をティッシュで拭うのだ。
結論。
《実に世界は平和である》