第七話
紅刻くん大暴れの回。流血シーンがありますので、読んでいて不快に感じた方は、すぐにご退出ください。
酷い目に遭った。
そんなことを考えながら、輝音は予定通り、三限目の授業をサボることにした。
目蓋が重くなり、そろそろ限界だと感じた彼女は、校舎裏を歩いている。下生えを踏む音がやけに耳についた。
月光が降り注ぐ校舎裏。何の変哲もない一本の杉の下で、彼女は足を止める。そこは、月光が一番降り注ぐ場所だった。
ここならよく眠れそうだ。
ちりん、と鈴の音が鳴る。同時に自分とは違う足音が二つ近づき、それに彼女は内心で舌打ちをした。
ほどなくして、二人の男が現れる。一人は金髪、一人は茶髪で、二人とも耳には大量のピアスをつけ、手や首には厳ついアクセサリー。制服をだらしなく着た姿は、とても真面目には見えない。ただ二人とも、顔だけは整っていた。
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら近づく二人に、輝音は校舎の壁に追い詰められていた。
「あれ、輝音じゃん? なに? アンタもサボり?」
しかし、壁に手をついて逃げ場を塞いだ金髪の男を、輝音は怯える様子もなく静かに見据える。
「まぁね。眠いのよ、退いてくれないかしら?」
「眠いんだって。どうする? 弟よ」
後ろに目を向けた金髪の言葉に、輝音は改めて二人に目を向ける。よく見てみると、二人の面差しはとてもよく似ていた。おそらく、兄弟なのだろう。金髪が兄、茶髪が弟。なんと分かりやすい名で呼ぶものだ。
「そんなのつまらないよ。せっかくだし、少し遊んでもらおうぜ。兄貴もこの女には目ぇつけてたじゃん?」
いったい何の話をしているのかは分からなかった。
眉を寄せる輝音に金髪は顔を近づける。顔に息がかかるほどに接近されて、彼女は彼の肩を押しやった。
何が面白いのか、相変わらずにやにやと笑う二人に、彼女は呆れて何も言えない。
「おい、弟」
「はいよ、兄貴」
しゃんっ、といつにも増して鈴が響いた。視界が反転し、視界いっぱいに満天の星と存在感のある月の見事な景色が広がる。一拍遅れて、地面に押し倒されたと理解した。茶髪の弟が、彼女の頭の上で腕を交差させて押さえつけている。
「何の真似?」
「さぁ? 何だろうね?」
「くっくっ……」
腕に力を入れるが、まるでビクともしなかった。
しかし、攻撃的な術を使おうにも彼女は弱すぎた。学校に通っている生徒は全部で五〇〇人弱。その中で、彼女の妖力の強さは上中下をさらに三段階に分けた場合、下の上。そして、目の前の二人は少なくとも自分より強い。それは二人からにじみ出る妖気で分かった。
逃げられない。
それでも、悲鳴を上げることも怯むこともせず、彼女はただ毅然と二人を見据える。そんな二人の目に嗜虐的な色が宿ったことに、輝音は気がつかなかった。
金髪の男の大きな手のひらが胸に触れ、輝音の背筋に悪寒が走る。制服のボタンを外され、そこから侵入してくる夜風に身体が震えた。
この男たちに遭遇してしまったことへの運のなさと、殴り飛ばして逃げるだけの力がないことへの無力さに腹を立てながらも、どうしようもできないと諦観して彼女は目を閉じた。
制服の隙間から男の無遠慮な手が入り、彼女の柔らかな素肌に触れた。
そこへ。
「楽しそうだね? オレも混ぜてよ」
突如上から降ってきた声に、彼らは動きを止める。顔を上げて声の主を確かめた二人の顔がさっと青ざめた。
「あ、紅蜘蛛……っ」
「兄貴、ヤバい! 早く逃げねぇとっ……‼」
良くも悪くも、紅刻の悪名とその由来は学校中に広まっている。この学校で彼の名を知らないものはいない。
「逃がさないよ」
窓から飛び降りた紅刻の手から白い蜘蛛の糸が伸びる。そして、逃げようとした二人の足を絡め取りあっという間に全身を拘束した。
「まさか、オレの女に触って、ただで済むとは思ってないよね?」
「いつから私は、あなたの女になったのか、そこから教えてもらえないかしら?」
「せっかく助けに来てあげたのに、その言い草はないんじゃない?」
冷静にツッコむ彼女の態度に気を悪くした様子はないが、輝音はうっと言葉に詰まる。とても不本意だが、彼が来ていなかったら、何をされていたのか分からなかったのだ。
「…………ありが、とう……」
渋々と言った風ではあるが、礼を口にしないという選択肢は、彼女の性格上ありえなかった。
「どういたしまして。……さて」
得意げにそう返すと、彼は金髪と茶髪の二人に視線を戻し、手から伸びる白い糸を引き絞った。大きな蜘蛛の巣を作り、そこに二人を張りつけにする。鋼鉄化された糸が、二人の身体にきつく食い込んだ。ギリギリ…と骨が軋む音すら聞こえる。暗い夜の中を照らす月の光が、彼らの制服から滲む鮮血に紅く染まった蜘蛛の糸を映し出す。それこそが、紅刻が『紅蜘蛛』と呼ばれる所以だが、これは序の口でしかない。
「どうしよっか? やっぱ、殺すのが一番かな……?」
「だ、ダメよ! そんなこと許さない‼」
普段から聞き慣れてしまっていて、思わず聞き逃してしまいそうな小さな独り言に、はだけた胸元を整えていた輝音は声を張り上げた。
瞬間、紅刻の左腕が彼女の通り過ぎ、すぐ横の壁を思い切り叩いた。衝撃に耐えられず、校舎の壁に小さな亀裂が走る。
「どうして? 悪いけどオレ、今すげぇ機嫌悪いんだよね」
「…………」
あぁ、そうだろう。紅刻が先ほどから殺気を隠すことなく放っているせいで、空気がピリピリと震えていた。
「ねぇ、知ってる? オレはこれでも、普段からけっこう我慢してるんだよ。ホントなら、こいつらも雪女もサトリも、キミを取り巻くオレ以外のモノは、みんな消えればいいって思ってる」
そんなことをしたら、何も残らないではないか。
いつものように返事をすればいいのだが、それをうちにできる雰囲気ではなかった。
普段通りのはずの学校で、見飽きたはずの校舎の裏で、落ち着くはずの静かな夜で、輝音は嫌いなはずの男の顔に息を呑む。
「……でも、キミは殺生を嫌うから、いつもは我慢してあげてるんだよ」
恩着せがましく言いながら、紅刻は後ろ手に右手から繋がっている蜘蛛の糸を、まるで琴の弦を爪弾くように弾いた。その振動が伝わって、捕らわれた二人の身体から、赤い血が飛び散り、二人分の呻き声が上がる。
「ぐ……っ」
「うぁっ!」
下手をすれば死んでもおかしくないような衝撃と出血量。その上、人間ではない故に意識を手放せず、より深く蓄積するダメージ。
「でも、この二人はさすがにやり過ぎだよね? いくら心の広いオレにも、許せないことってあるんだよ」
「少し触られただけよ。被害を受けた私が“構わない”と言っているの。今すぐ二人を放しなさい」
正直、今にも声が震えそうだった。
ここへ来て、この学校に通い始めて二年。
そして、この男に出会って、二年。
つき合いは短いが、それなりに紅刻のことを理解しているつもりだった。
少なくとも、胡散臭そうな笑い方が嫌いだ、と感じる程度には。
退屈は嫌いなのだろう、と思う程度には。
いつも絡んできて面倒だ、と感じる程度には。
本気と冗談の区別がつきにくい、と思う程度には。
たった二年では、相手を理解することはできないのだろうか。
分からない、けれど……。
こんなに冷たい眼差しを向けられたのは、初めてだった。
尖った刃物を首筋に据えられているような錯覚を感じる。少しでも動けば死んでしまいそうなほどに強烈な殺気は、紅刻の糸に捕らわれた二人にだけ向けられているものではなかった。
「キミはお人好しだね。本当にムカつくよ。そんなに二人を死なせたくないなら、キミが代わりに死ぬ?」
金髪と茶髪を拘束していた糸が消え失せ、同時に捕えていた蜘蛛の巣も消失する。
動けない二人に目をくれることもなく、彼は左手で今度は輝音の両腕を素早く拘束し、自由になった右手でその細い首を締め上げた。
「あ、ぅ……っ」
酸素の補給ができなくなり、息苦しさと強い圧迫に声を上げることもできなかった。
なぜ自分が首を絞められなければならないのか、その理由が分からない。
「そうだね。案外オレにとって良いこと尽くめかもしれないな。好きな人を殺して、永遠に自分だけのモノにする。オレには理解できないと思ってたけど、こうなってみると、分からなくもないかも? だって今、キミはオレのことしか見えてないし、オレのこと以外考えられないだろ? このまま殺してしまえば、オレはキミの関心を独り占めにできるわけだ」
どういうわけだ、と聞きたい。だいたい、この状況で別のことを考えられるのなんて、どんな超人かお目にかかってみたいものだ……と、言いたいが苦しくてそれどころではない。
「あ、なた……頭、おかし……んじゃ、ないのっ……?」
精一杯の憎まれ口を叩きながら、それでも、輝音は目が反抗の光を失うことはなかった。酸素が足りず頭はぼやけていたが、考えることは止めない。
「そうだね。キミがオレをおかしくするんだ」
切なげに目を細めた紅刻に言葉を失う。耳元で蠱惑的に囁かれた言葉に背筋がゾクッとしたが、それは耳に息が掛かったせいだ、と自分に言い聞かせた。
気が変わったのか、紅刻は突然両手を開き、彼女を解放した。
「かは……っ。はぁ……っ、はぁ……」
大きく、貪るように肺に酸素を送り込み、生理的に目尻に溜まった涙を拭って、輝音は紅刻を睨みつけた。
「あなたの頭の異常さを、私のせいにしないで……っ」
まくし立てて、彼女は未だ息が整わず、肩を大きく上下させる。
「嫌だなぁ。本当にキミのせいなんだって」
そんなわけがないだろう。
今まで自分を殺そうとした人物とは思えないあっけらかんとした態度に、輝音は腹が立って仕方がなかった。
しばらく無視してやろうかとも考えたが、後々が面倒なので止めることにする。嫌がらせの度に殺されかかったのでは、命がいくつあっても足りない。
「キミは知らないだろ? どうして、オレたちみたいなヤツらが、キミに惹かれるのか」
再び壁に手をついて逃げ場を塞ぎ、紅刻は顔を近づけてくる。息が掛かるほど接近されて、彼女は顔をそむけた。
「そんなことに、理由があるわけ?」
平常心を装いながらも、輝音の心臓はあり得ないほどに早くなっている。それを確かめるように心臓に添えられた彼の手を、なぜか払うことができなかった。
火照った頬を、夜の冷たい風が撫でる。
「……っ」
ビクッと身を竦ませたのは、ぬめった紅刻の舌が、首筋を這ったからだ。
畳みかけるように歯を立てられ、柔らかな皮膚がプツッと突き破られる。
「……ぃたっ」
反射的に両手で思い切り突き飛ばそうとしたが、予期していたらしい紅刻はそれを軽やかに避けて立ち上がった。
「無防備すぎだよ。だからつけ入られるんだ」
「さっきの会話とかみ合ってないのだけど」
首筋からは血が流れている。少し噛みつかれただけで大した血の量ではないが、柔らかくぬめった舌の感触が残っていて落ち着かない。
「あぁ、アレ? それはね……」
ざわざわと揺れる木々に合わせて、輝音の鈴が音を奏でる。
ちりんちりん、と。
「……――――――…………」
彼の紡いだ答えに、彼女は絶句した。
わなわなと手が震え、それを抑えるために、湿った地面に爪を立てる。
夜の静寂に、彼女の沈黙が広がる。
何も言いたくなかったし、何も聞きたくなかった。
静かな中で、たまに授業をしているらしい校舎から微かに声が聞こえて、今が授業中だということを思い出させる。
無為に時間が過ぎていく。それは、彼女が毎朝夜明けを待っている気配に似ていたが、やはりそれとは全くの別物だった。
目の前に紅刻がいるというのも、その原因の一つだろう。
「今度の週末、近くの神社で祭りがあるだろ?」
「……は?」
不意に紅刻がそんなことを言い出して、彼女はすぐに思考が追いつかず、やや間の抜けた声を出す。
「去年も行ったじゃん。あの時は、雪女とサトリが一緒だったけど」
意識しているのかいないのか、普段はへらへらと「ちゃん」をつけて呼ぶ純羽と詠の名が呼び捨てになっている。詠にいたっては「サトコ」と自分でつけたあだ名を完全に無視していた。
「今年は二人で行きたいな。そしたらあの二人、許してあげてもいいよ?」
被害者は自分だ、と言う気力ももう残っていなかった。
紅刻がちらり、と見たその後ろでは、未だダメージから回復しきれない二人が横たわっている。力の強い妖から受けた傷は治りにくい。そのせいで、二人の傷口からはまだ赤い血が流れていた。
「もし、キミが雪女たちを連れて来たら、オレ、何するか分からないよ? もしかしたら、祭りに来てるヤツら全員殺しちゃうかもね?」
「たまたま純羽たちに会ったら? お祭りには妖だって大勢来ているわ」
「さぁ? どうしようかな?」
答えをはぐらかす彼に、輝音は奥歯を噛みしめる。
もうこれ以上、何を話しても無駄だと思った。
立ち上がって背を向けた彼女に、紅刻が言葉を投げかける。
「どこ行くの?」
「……どこでもいいでしょう」
素っ気なく一言だけ返して、校舎の角を曲がった輝音は、そのまま駆け出した。
行先など全く考えてなかったが、今はとにかく、紅刻から距離を取りたかった。
自分が好かれやすい性質だとは思っていなかった。どれだけ人間と比べて容姿が優れていても、妖の中では平凡で、それだけなら純羽のほうがよほど美人だ。性格も決していいとは言えない。
けれど、十人十色の好みがあるように、自分を好ましいと思う悪趣味なヤツがいてもおかしくないという理解はある。それがたまたま紅刻や純羽のような、容姿の優れた強い妖だったとしても、別に文句をつけようとは思わない。好みは人それぞれ。妖だろうとそれぞれだ。
けれど。
――――キミが弱いからだよ。
手のひらを強く握り締める。そこから血が滲んだことに、彼女は気づかないふりをした。
力が弱いのは知っている。
自分の妖力の強さは、紅刻や純羽と比べれば天と地ほどの差がある。二人は校内でも十指に入る実力者。比べることすら間違っている。心を読めるだけの詠と同等か、もしくはわずかに上か下。
けれど、紅刻が言っていたのはそのことではない。
嘲笑う彼の顔がちらついた。
あの『弱さ』の言葉が差していたのは、妖力のことではなかった。
「そんなわけ……」
ない、と口で言いながらも、なぜこんなにも悔しいと感じているのか、自分では分かっていた。
見透かされたと、感じたからだ。
何も知らない。
紅刻と出会ったこの二年。自分は彼のことをまるで知れていなかったのに。
あの男は、自分でも理解したくないと思っている心の内を知っている。
逃げたから、弱いのか。
己の弱さを知っているから、弱いのか。
たかだか小さな神社に祀られた、ただの付喪神。
輝音が神として持っている力は、人に憑いた『悪鬼』や『邪悪』を『切り伏せる』ことと、『病魔』や『災厄』などの『邪気』を『浄化』すること。
息を切らして、彼女は立ち止り、空を見上げた。
ちりん、と鈴が音を奏でたのは、自分の心が乱れているから。
夜の空は高く、星が散りばめられ、自分の髪に結われた鈴を浮かべたような月が、静かに輝いていた。
どれだけ歳月が経とうと、この景色だけは変わらない。
百年経とうと、二百年経とうと、五百年経とうと。
たったそれだけの歳月で変わるのは、人間だけだ。
人間は生まれて、瞬きの間に大人になり、百年も経たないうちに死ぬ。
そして、それは妖の世界にはなく、神にすら触れることのできない人間の理。
当然だ。神だって万能ではないのだ。
実際、病を祓う力も、寿命から来るものを祓うことはできない。
人間の近くにいれば、まざまざとそれを見せつけられる己の無力さ。
神社に手を合わせて願いに来る人間の顔をどれだけ覚えても、その願いを叶えてやっても、しょせん死んでいくのだ。
それに無力感を、一抹の寂しさを覚える方がどうかしている。
「……本当に、どうかしているわ」
頑固で、自我が強くて、欲深で。
ゆえに純粋で、一途で、己を顧みない。
脆く壊れやすい身体を投げ打って。
たかだか百年も生きられない命を、他人のためにすり減らす。
そんな人間が嫌いだ。だってそれは人間の弱さだから。
嫌いになったから、逃げたのだ。
違う、逃げたのではない。
見放したのだ、見捨てたのだ、弱い人間を。
その、はずだ。
耳の奥で木霊する、紅刻の言葉。
低く、甘いあの声が耳に張りついて、それがたまらなく疎ましい。
不意に、首筋の傷が疼く。
噛みつかれた傷からはまだ出血している。それが襟元から胸元まで流れ、制服を赤く染め上げていた。
実力に差があれば、治癒するまでの時間も掛かる。紅刻と自分の妖力の差を考えると、当分治りそうにはなかった。
這わされた舌の感触を思い出して火照った身体に、夜の冷たい風が吹きつける。
あの冷たい彼の眼差しが、あの切ない眼差しが、目に焼きついて離れなかった。
――――キミを取り巻くオレ以外のモノは、みんな消えればいいって思ってる。
愚かな男だ。
そんな理由で消される妖も人間も、とんだとばっちりではないか。
どうかしている。
そう、心の中で繰り返す。
あんな男に振り回されている自分も。
あの男の言葉を思い出して、胸を熱くしている自分も。
そもそもの事の発端である眠気は飛ばされ、それでも授業を受ける気分でもなく。
ただただ時間を持て余しながら、夜の静寂の中、不変の月を眺める彼女の、その月と同じ輝きを放つ鈴が、小さく音を奏でた。
金髪と茶髪の兄弟。完全なやられ役でしたね。
二人は典型的な不良をイメージしています。
種族までは出てきませんでしたが、そこはご想像にお任せしますということで。




