第十七話
再び沈黙が場を支配した。
「…………翔太の呪いを解いて」
ピクッと、この時初めて紅刻の表情が崩れた。しかし、彼はそれを取り繕うこともせず挑発的な笑みを浮かべた。
「どうして?」
問いに対する答える言葉を見つけられず、輝音は言葉を繰り返そうとした。だが、そうしようとした輝音の細い腕を、紅刻が力の限り掴む。
「いった……っ」
骨が軋み、罅が入ったように思えた。
だが、彼女の上げた悲鳴に彼は取り合うことをしなかった。
「……まだそんなことが言えるんだ?」
一段と低くなった紅刻の声に、輝音は身体をこわばらせる。
「そんなに、あの人間が大事?」
脳裏に初めて自分の姿を捉えた青年の姿が過る。翔太の面差しは、かつての彼と似ていた。年齢や背格好はまるで違うが、二人の持つ雰囲気は酷似していた。
「…………」
「ねぇ、キミはオレのことが好きなんじゃないの?」
「……違う、わ」
紅刻の強い眼差しに、彼女は視線を逸らした。
「違わないよ。キミはオレのことが好きだ」
「違う」
「キミは好きでもない男とあんなことできる性格じゃないよね」
「……そ、れは……」
あんなこと、が何を指しているのかは容易に理解できた。
けれど、ここで頷くことはできない。
「違う」
「違わない」
「違う」
「違わない」
「違う。私はあなたのこと…………」
好きではない、そう続けようとした。だが。
「――――違わない‼」
ダンッ、と彼女は押し倒された。叩きつけられた肩が痛みに悲鳴を上げている。叩かれた衝撃で、彼女の真横の床に亀裂が走った。
「言えよ、オレが好きだって。言ってくれよ……」
見上げた彼の瞳が悲愴に揺れている。今にも泣き出しそうに思えたが、紅刻の目から涙が降ることはなかった。
胸を締め上げるこの気持ちは何?
甘くて、切なくて、苦しくて――――。
紅刻の首がのろのろと動いて、彼女の肩口に顔を埋めた。
「……苦しい」
呻きながら、彼は彼女の首に手を掛ける。
「キミは、オレのことが好き?」
どこからともなく蜘蛛の糸が紅刻の背後に現れた。鋭く尖った切っ先が輝音に向けられた。
「好きじゃないなら、もういらないよ」
「うっ……」
くっ、と手に力が込められる。
「でも、キミが誰かのモノになるのなんて……イヤだなぁ」
絶対、そんなこと、許さないよ。
独り言のような呟きは、彼女に聞かせるための台詞ではないのだろう。
虚ろな目。それは、彼女を見ているようで見えていないようだった。
「なら、ここで殺してしまおうか……」
「う……っ、くっ……、か、は……っ」
息が、できない。苦しい。
紅刻の大きな手が、彼女の細い首を絞め、頸動脈を圧迫する。
「苦しいかい? 苦しいよね? いいよ。だったら、ラクに殺してあげる」
虚ろな瞳のまま紅刻の口が弧を描き、彼の力がわずかに緩められる。
「は、ぁ……」
「最後に言い残すことはあるかい?」
貪るように息を吸うが、紅刻の指が声帯部分を押した。
「……ある、わ……」
紅刻の触れている指が、声帯を震わせていることが分かる。
「何だい?」
「誰も、殺さないで……」
目を丸くする紅刻に、輝音は苦悶の表情を浮かべたまま続けた。
「私を殺した手で、誰も殺さないで。あなたがそれを守ってくれるなら……約束をしてくれるなら。あなたになら殺されてもいいわ」
どれだけ苦しめられても、彼女の瞳から光は失われていない。
一拍の間を置いて、彼は声を押し殺して笑い出した。
「ははっ。それであの人間たちを助けるつもりかい?」
図星を指されて、彼女は言葉に詰まった。
そう、彼に山へ誘い込まれた人間は皆家へ帰した。そして、もう一度鈴を渡したのだ。
鈴は言わば輝音との縁。
彼女の力で紅刻の呪いを解くことはできなかった。しかし、命を失うときに限り発生する爆発的な生命エネルギーを使えば、解けるかもしれないと思った。弱い神力から発生する生命エネルギーなどたかが知れているが、紅刻の呪いくらいなら解けるはず。
彼女は妖であると同時に神だ。清浄な神の命ならば、紅刻の施した呪いを解けるだろう。それが目的でのこのこと罠に掛かりに来たのだ。輝音の生命エネルギーは、縁である鈴を伝って、翔太たちの許へ行くだろう。
だが、それを見抜かれてしまうなんて。
無理かもしれない、と思ったが、彼の瞳が怪しく光った。
「いいよ。そんなに助けたいなら助けさせてあげる」
「…………」
聞き間違いだろうか。
「助けさせてあげるから、オレのために死んで」
聞き間違いなどではなかった。
そのことに、彼女は安心する。
「約束は?」
「何のこと?」
「私を殺した後、誰も殺さないって話よ」
あぁ、と思い出したように彼が相槌を打つ。
「キミ、頭いいね。それを守るためには、あの人間たちの呪いを解かないといけないわけだろ?」
もちろん、そのつもりでの提案だ。
「死んだ後のことなんて、キミには分からないよね?」
確かに、その通りだ。
死んだ後、紅刻がどこでどう生きているのかなんて分からない。
約束通り誰も殺していないかもしれないし、約束など最初から守る気なんてないのかもしれない。
しかし、彼女はそれに不安を抱いていなかった。
「あなたは約束を守るわ。だって、私のことが好きなんでしょう?」
普段偽物の金を使っているのに、彼女が受け取らないからと本物を使って髪飾りを買ってくれたことを思い出す。
そんな彼なら、約束を守ってくれるような気がした。
「酷いな。そんな言い方されたら、守らなくちゃいけなくなるじゃん」
嘘か本当か分からない、軽薄な笑み。
殺されるわけだから、彼が呪いを解く必要はなくなるわけだが。
「大丈夫。一思いに心臓を貫いてあげるよ。痛いのなんて一瞬だけさ」
できれば一瞬でも痛みを感じたくはない。
その言葉を彼女は呑み込んだ。
「キミの死体はオレが全部喰べてあげるよ。髪の一筋、肉の一欠けら、血の一滴も残さず。誰もキミをオレから奪うことなんてできないように」
ゾッとしたが、輝音は平静を装うことに成功した。できれば聞きたくはなかったが、彼ならそれをやりかねない。自分が死んだ後の話であることが幸いだった。
「最後に一つだけ聞かせてよ」
彼の問いかけに、彼女は黙って先を促す。
「さっきキミは、オレになら殺されてもいい、って言ったよね? あれはどういう意味?」
含んだいい方に対する指摘。
『あなたになら殺されてもいいわ』
普通なら、あなたに殺されてもいい、という言い方をする。あなたになら、というのはとても限定的な言い方だ。
輝音はその言葉を意識して使った。気づかれないように、さりげなく使ったつもりだった。
余計なことに気がつく男。
彼女はこんな状況にもかかわらず、内心でため息を吐いた。
覆い被さってくる紅刻を見上げて、口を開いた。
「どうって、そのままよ。意味も訳も存在しないわ」
「それじゃあ納得できないよ」
今度こそ、彼女は本当にため息を吐く。
「知らないわよ。でも、相手があなたでなかったなら、もっと他の方法を考えたわ。簡単に殺されるようなんて思わない。私は、相手があなただったから、迷うことなくここに来て、こうして殺されてあげようとしている」
そうだ。方法なんてどうとでもなる。
相手が紅刻でなかったなら。紅刻や純羽に着いてきてもらえば大抵のことは片をつけられるだろう。
今回のことにしても、純羽に一緒に来てもらえば、わざわざ死んでやる必要もなかったかもしれない。
それでも、現に彼女はこうして組み伏せられ、殺されようとしている。
否、殺されてあげようとしている。
それは。
「それは、少なくともあなたのことを……」
言おうか言うまいか、一瞬悩んで答えを出す。
「少なくともあなたのことを、嫌っていないからかもしれないわね」
許容範囲だ、と自分の中で納得させる。
それを聞いた紅刻は目を丸くし、しばらくして唇を三日月の形に変える。
「へぇ……そっか」
それだけ、呟く。
「やるなら早くしなさい」
その言葉通り、蜘蛛の糸が白く煌めく。
走馬灯なんてものは見えないし、心の中にはさざ波一つ立っていなかった。
ただ、紅刻の整った顔。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。
それらを目に焼きつけるように目を開いていた。瞬きもせず、息すら忘れて見入っていた。
やがて、眼前に迫る白刃に彼女はゆっくり目を閉じる。
一瞬、自分の死んだ後の死体について思った。
しかし、それも相手が紅刻であるのなら。
髪だろうと肉だろうと血だろうと。
くれてやってもいいわ。
そう思うのは異常だろうか?
身体に衝撃が走る。焼きつくような熱と同時に痛みを感じる。
白い蜘蛛の糸が、彼の紅蜘蛛の異名に従って赤く染まった。




