第十三話
さらり、と揃えられた黒髪が揺れた。澄んだ色の瞳が、本来なら常人に見えないはずの彼女を捉え、そして微笑んだ。
『君が我らの神かい?』
輝音は迷い込んできた人間に再び守りの鈴を与え、それぞれを家に帰す手伝いをしたが、翔太だけは自ら家へ送った。
術を使って電気もついていない部屋に入った彼女は、小さな少年の身体を柔らかなベッドへ寝かせた。
顔にかかった髪を払ってやる。それはあの日の彼を彷彿とさせる。
「…………」
輝音は力の弱い神であった。妖としての妖力も、神としての神力も。
輝音が神として持っている力は、邪悪を祓うことと、病魔などの邪気を浄化すること。
それゆえ、訪れる参拝客もそういった悩みを抱える人間だった。特に、身内や友人などの怪我や病気を治して欲しいといった願いは多く――――。
神社には、それが叶わなかった参拝客からの憤りが相次いでいた。
そして彼女はそれを、黙って見つめる。なぜなら、彼らに自分は見えないから。ただ一人を除いて。
『神も万能ではないのです。我らの神は、決してあなた方を見捨てたのではありません。力が及ばなかったことを、我らの神も嘆いているのです』
もちろん、そんな言葉で彼らの憤りが収まるはずもない。それでも彼は、彼女の代わりに彼らの行き場のない怒りを、悲しみを、憎しみを、そして嘆きを受けた。
情けなかった。己の役目すら果たせぬ自分が。
悔しかった。次々と指の間から命が零れていく。
分からなかった。弱い自分など捨てて、新たな、力のある神を迎えればいいのに。
毎日顔を合わせた。言葉を交わした。
どんなに理不尽な罵詈雑言を浴びせられても、彼の態度は少しも変わらない。
慰めの言葉を掛けてくれた。泣かないで、と言ってくれた。泣いてなどいないのに。
泣いてなどいない。
人間など死ぬ生き物だ。三十年生きようと五十年生きようと、百年生きようと、行きつく先は死。
だから悲しくなどない。悲しくなどないのだ。
――――たとえ、彼が死んだことも。
『――――……っ!』
彼の死に耐えられなかったから、去ったのではない。
彼の死を受け入れたくなかったから、逃げたのではない。
ほら、やっぱりそうだ。
人間は死ぬ。
だから嫌いだ。
人間は弱い。
けれど、あんなに強い。
消えゆく命を前に、必死で祈り、願う。
まるで自分の命をすり減らし、相手に与えるように。
命は脆い。
でも、それはとても尊い。
だって、失われた命のために、あれほどの嘆きが生まれるのだから。
人間は死ぬ。
妖も死ぬ。
違うのは人生の長さ。
そして、命の価値。
不意に、翔太の服にきらりと光るものを見つけ、彼女は追想していた意識を戻した。
白く細く光るもの。糸屑だろうかと思い、それを手に取った彼女は息を呑んだ。
「これ……」
糸屑などではない。それは、蜘蛛の糸だ。
まさか。では、これは全て紅刻の仕業だというのか。否定したいが、蜘蛛の糸に込められている妖力は、紅刻のものであることを告げていた。
守りである彼女の鈴を奪って、山に人間を誘い込む。
そんなことをして、彼に何のメリットが?
そこまで考えて、輝音の思考が止まる。
意味が分からない。そもそも、あの男の考えなど、理解できるはずがない。
「う……」
翔太のうめき声が上がり、彼女は少年の枕元に膝を折った。
「翔太? どうしたの?」
寝苦しいのだろうか。
だが、翔太の声はそんな生易しいものではない。胸を抑え、だんだんと呼吸が荒くなっている。
「まさか……っ」
心の中で軽く謝罪し、輝音は少年の寝巻のボタンを外して前を開いた。
「…………っ」
今度こそ、言葉を失くした。
まるで心臓を絡め取るように、毒々しい蜘蛛の巣が、その身体に刻まれていた。
一目見れば分かる。これは呪いだ。
「早く、解かないと……!」
熱を発する少年の身体に触れ、自分の中にある浄化の力を込める。しかし、弱い彼女の力では紅刻の呪いを解くことはできなかった。
浸食の具合から見て、今日の日没にはこの呪いは少年の命を呑み込むだろう。
翔太だけではない。
鈴の守りを奪われ山に誘い込まれた人間、その全てがこの呪いを掛けられたことは容易に想像がつく。
誘っているのだ、彼は。自分を。
たったそれだけのために、彼らを危険にさらしている。
それが許せなかった。
命を奪ってはいけない。
脳裏に、大切な人を失った人間の嘆きが蘇った。
まるでこの世の終わりを目の当たりにしたような、そんな悲しみが。
人間は嫌いだ。
でも、彼女は人間を見捨てられない。
だって、知っているから。
彼らの優しさを。強さを。情の深さを。
あの人も、そんな人間だった。
手がかりはこの手の中に――――。
輝音は細い蜘蛛の糸を握りしめ、屋根の上へ移動した。
そのとき。
「ダメですわ!」
蜘蛛の糸から妖気を辿ろうとした輝音を、凛とした声が阻んだ。




