十二話
あれから二週間が経った。その間、輝音は退屈な時間を過ごしていた。
その日を境に、純羽は滅多なことがない限り、触れるどころか、言葉を掛けてくることすらしなくなった。彼女にとってあの日の出来事は決別の意味を持っていたのかもしれない。
詠がどこかよそよそしくなってしまったのは、輝音の心の内を察したからだろう。紅刻と何があったのか知って、声を掛けづらくなったのかもしれない。もしくは、純羽の心情を慮った結果か。
そして、紅刻は一度も学校には来ていない。
そのことに、輝音は内心で腹を立てていた。
どうして?
この日も、風紀委員の仕事を終えた彼女は教室の扉を開けた。軽く室内を見渡すが、あの派手な赤茶色の髪色は見当たらない。
「紅刻なら来ていませんわよ」
腕を組んで話しかけてきた純羽に、輝音は素っ気なく返した。
「……どうでもいいわ」
短く返して、彼女は席へ着く。
結局、自分は彼にとってその程度の存在だったのだ。
応えてしまったから、終わった。紅刻にとっては、ゲームのようなものだったのかもしれない。落としたら勝ち。落ちたら負け。そんなゲーム。
――――嘘つき。
心のどこかで声がした。
恨めしそうに、あの男へ呪いの言葉を吐いている自分の声が。
違う。好きでではない。
過ちだ。雰囲気に呑まれて、少し間違ってしまっただけ。
命を蔑ろにするようなあの男に、陥落されたわけではない。
――――嘘つき。
同じ言葉が繰り返される。
それは誰に向けられたものだろう。
好きだと言ったのに。あんなに、焦がれるように名を呼んだのは、あなたじゃない。
耳元には、まだあの日の彼の声が残っていた。低く甘く囁く、愛の言葉。
間違っていた。流されるべきではなかった。
でも、もう遅い。
彼女の心が紅刻を求めているのは、紛れもなく真実だった。
暗い山の中で、彼女はため息を吐いた。
何の特徴もない木の上。そこで、神気に誘われる人間を帰すべく、彼女は合図を待っている。
一度神気に当てられれば耐性がつき、およそ十年は山に迷い込まない。しかし輝音の場合、迷ってきた人間に呪具として鈴を与え続けているせいか、彼女の担当する区画は、迷ってくる人間が比較的少なかった。呪具さえ身につけていれば、二度と森には迷い込まない。
――ちりん
鈴が鳴った。彼女はその音に耳を澄ます。そして、より音がする方へ木々の枝を伝って移動した。
しかし、移動しながら、妙な違和感を抱く。何かが違う。そんな奇妙な感覚。
――ちりん、ちりん
別の方向で鈴の音が聞こえた。それは、別に迷ってきた人間がいることを表す。
こんなこと、最近ではなかったのに。
彼女の一日の仕事量は、平均で三人から五人。これは、風紀委員の中でもかなり少ない。他では十人から二十人はざらにいる。新しく迷ってくる人間、戻ってくる人間が入り混じっているからだ。だが、彼女の区画に訪れるのは、新しく迷い込んでくる人間だけ。だから、同じ時間に山に入る人間は最近ではほとんどなかったのだ。
だが、こんな日もあると彼女は納得した。今まで全くなかったことではない。
しかし、迷い込んできた人間を見て、彼女は目を見開いた。
「……!」
見覚えのある、人間だった。
ちりん、と鈴の音が響く。それは、先ほどとは全く違う、新たな来訪者を告げる音。さらにまた、鈴が鳴った。
――ちりん、ちりん、ちりん
「どうなっているの?」
後から後から鳴る鈴に、輝音は首を巡らせる。深い山の森を虚ろな目で彷徨う人間の顔を確かめ、息を呑む。みんな、見覚えのある顔だ。少年も少女も。男も女も。青年も老人も。彼らはこの二年の間で、彼女が森から連れ出し、守りにと鈴を与え、帰した人間ばかり。
「どうして……」
そこにまた、鈴が鳴り、彼女は振り返った。そして。
「翔太⁉」
切り揃えられた髪を揺らしながら、少年は周りと同じように、虚ろな目で山の中を彷徨っていた。
彼女は反射的に飛び降り、少年の前に膝をつく。
「翔太、しっかりして! 目を覚まして!」
だが、いつもの明るい表情は消え、身体を揺する彼女にされるがままになっている。
「……翔太」
輝音は少年の手首を見た。寝るときも外さないと言っていた鈴は、そこにはない。
落としたのだろうか? そんなまさか。自分が助けた人間が一斉に守りを落とすなんて、そんな偶然があるわけがない。
あるわけがないが、ならばなぜ今、こんな事態になっている?
そう考えている間も、彼らは意味もなく歩き続けている。
仕事だ。
どれだけの人間が迷いこんでいるのか把握できていないが、やることに変わりはない。
彼女は大きく手を開いた。
夜の闇を照らす月のような柔らかな光の中から、一振りの刀が現れる。その柄からは真紅の紐が伸び、その先には大ぶりの鈴がついていた。
これが、彼女の本体だ。輝音は刀の付喪神だった。
こんな長い紐と鈴をつけていては戦いに支障をきたすが、生憎、この刀は儀式用の物で、戦闘を前提に打たれたものではない。
意識をして妖力を込めると、刀が形を変える。彼女はそれを頭上に掲げた。
やがて光は大きくなり、巨大な鈴がそこに現れた。まるで月が顕現したような輝きに、迷い込んできた人間は虚ろな目を向ける。彼らは与えられる刺激に敏感だ。
――――シャランッ
大きな鈴の音が、夜の山の冷たい空気を震わせた。
大量の鈴を束ねて打ち鳴らしたような音は、耳を突き破るようなそれではなく、澄んだ清浄な音色だった。
山の麓で待っていたパートナーは、いつもとは違う事態に気づき、増援を寄越した。バタバタと彼らを麓まで運び、一人一人家に帰していると、時間は瞬く間に過ぎ、気づけば夜は明けようとしていた。
そろそろ起承転結でいうところの「転」までやって来ています。早いような遅いような……。皆さんのご期待に沿えるように精進したいと思っています。




