第八話~Side 純羽
純羽さんのショッキングな過去回。
不快に感じた方は退出を。
声が、聞こえる。
自分を呼ぶ、あの子の声。
柔らかな声が、「姉さま」と。
妖が生まれるには二つの方法がある。親から生まれる場合と、人間の心から生まれる場合。
彼女は深い雪山で生まれた。人間の恐怖が彼女たちを生むのだ。
そもそも輝音のように、人間の愛情や善の心から妖が生まれるのは稀で、恐怖や嫉妬、憎悪、悲嘆が生んだ妖の方が圧倒的に多い。
彼女の生まれた雪山には、多くの姉妹がいた。しかし、互いの顔や名前など知らず、どれだけの姉がいて、どれだけの妹がいるのかも把握できていない。
それでも、仲の良い妹がいた。
同じ銀色の髪、柔らかな声音、美しいというよりは可愛らしい顔立ち。素直で、妖とは思えないほど無垢で無邪気な子だった。
彼女にとって最愛の妹は、目に入れても痛くないほど大切な存在だった。
「輝音……っ!」
沈む夕日に照らされる赤い町並み。そこに消えて行った二人を睨みつけながら、純羽は足に纏わりつく紅刻の蜘蛛の糸を解いていた。そこから汚染されていくようで、できることならそこから下の足を切り落としてしまいたかった。
すぐに追いかけなければ、と思うのだが、焦り過ぎて手が上手く動かない。
「純羽ちゃん、もうやめるのです。紅刻くんは本当に輝音ちゃんが好きなのです」
「だから何ですの?」
きつい物言いになってしまっているのが自分でも分かった。それに詠が「ひっ」と声を上げたのに、少しだけ頭が冷える。
落ちついてみると、足の糸はあっさりと解けた。
「……わたくしは別に、紅刻の気持ちを疑っているわけではありませんわ。ただ、あれだけの彼の想いを輝音が受け止められると思いまして? いずれ殺されてしまうに決まっていますわ」
決めつけではない。事実、絶対、必ず、そうなる。
あの時だって、結局そうだった。
子どもを生まずとも、人間さえ絶えることがなければ妖は増え続けるし、妖の命は永遠に近い。そのため、妖に子どもを生まなければという責任感も、種族を残さなければという本能もない。いき遅れ、という概念もないため、妹が男とつき合おうが、結婚しようが、劣等感のようなものも感じない。
人間の男を好きになった、と告白された。すでに求婚され、それを受けるつもりだと。
そんな妹に「今すぐに断りなさい」と言った。
理屈と正論を並べて。思い留まるように、妹を説得した。いつも自分の後ろを追いかけ、自分の言うことには何でも従ってきた妹だ。自分がいなければ何もできない子なのだ。
そもそも、妖と人間。妖の方はよくても、人間の方がその事実を受け入れられるわけがない。たとえそれが可能だったとしても、心優しい妹が必ず訪れる惚れた男の死に耐えられるわけがない。
――――姉さまなんて、大キライ!
その言葉は、彼女の心を抉るのには十分なセリフだった。ショックを受け、動けずにただ茫然とする姉を置いて、妹は愛する人間の男のもとへ行ってしまった。
どうせすぐに戻ってくる。うまくいってもいかなくても。うまくいけば五十年足らず、うまくいかなければすぐにでも。
自分は傷ついた妹を慰めて、「わたくしの言った通りでしたでしょう?」と言ってやればいいのだ。
しかし、帰ってきた妹の様子は彼女の予想を遥かに上回っていた。
ボロボロに傷ついた心を抱えた妹は、姉のどんな言葉も受け入れなかった。
妹は自分の言った通り、愛した男に裏切られたのだとすぐに理解できた。
気にすることはない。人間と妖が結ばれることはない、と証明されただけだ。これからは自分の傍にいればそれでいい。
だが、そんな理屈で妹の心の傷が癒えるはずもなく。どれだけ言葉を尽くしても、妹の心は晴れなかった。
どうすればいいのか分からず途方に暮れ、かといって妹を見放すことは論外で。
そんなある日、さらなる悲劇が訪れた。妹が、いなくなったのだ。
ありえない。妹に行く宛てなんてないのだ。それも、ほとんど放心状態の妹が、いったいどこに行くというのだ。
必死で探した。朝も昼も夜も、寝る間も惜しんで。凍える雪山を駆け、名前も知らない姉妹に聞いて回り、また走る。
誰かが、見かけない妖と一緒にいたと言った。
嫌な予感がした。顔は不安に歪み、美しい銀色の髪は乱れてしまっていたが、そんなものを気にする余裕などなかった。
やがて、やっと見つけた妹は、見るも無残な姿に変わり果てていた。ピクリとも動かない、力なく投げ出された四肢。虚空を見上げる瞳に光はなく、その目尻には長く泣き腫らしていたせいで赤くなり、涙の跡が残っていた。
妹のその姿は、自分の無力さと無思慮さの証。
そうだ、もっと強く引き止めるべきだった。妹が傷ついて帰ってきたときに、その心を慰められるだけの言葉を見つけていられれば、こんなことにはならなかった。全部、自分が至らなかったせいだ。
良くも悪くも、妹を殺した妖はすぐに見つかった。その妖は大事な妹をたぶらかした人間と同じ男で、軽薄な笑みを浮かべていて。こんな男に妹は殺されたのかと思うと、力を制御することなどできなかった。
その日、彼女は生まれ育った雪山を消した。
「純羽ちゃん。……純羽ちゃんは、いつになったら、本当の名前に戻れるのですか?」
詠の言葉に、追想していた意識が呼び戻される。
純羽。
それは、自分の戒めのためにつけた、最愛の妹の名。
永遠に近い人生の中で、あの日の後悔を忘れないために。
もう二度と、大切なものを失わないように……。
だから。
「昔の名はあの日に捨てましたの。もう忘れてしまいましたわ」
「ウソなのです。ホントは、ちゃんと覚えているのです」
小さな身体を大きく動かしながら、少女が精一杯励ましてくれているのが分かって、穏やかな気持ちが戻ってくる。
「……純羽ちゃん。輝音ちゃんは、純羽ちゃんの妹さんとは違うのです。似てるかもしれないけど、でも違うのです。紅刻くんだって、妹さんを殺した妖とは違うのです」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
そう。輝音は妹と似ていた。顔立ちや性格はまるで違うが、心根が、よく似ていると思った。だから傍にいたのだ。妹と同じ目に遭わせないように。
そしてそれ以上に問題だったのが、紅刻。よりにもよって、輝音に好意を寄せている男は、あの日殺してやった妖とよく似ていた。あの笑みも、しゃべり方も。違うところといえば、妖力の強さだけ。全力を出しても殺せないかもしれない、というところだけだった。
「同じですわ。……男なんてみんな同じ。妖も人間も。みんな、わたくしの大切なものを奪っていく……」
しかし、この足では満足に戦えない。こうした痛みや傷が、僅差の実力に大きく影響してくる。傷の深さと妖力の差を考えれば二、三日で治るだろうが。
「詠。正直に答えて下さい。輝音は……あの子は……」
「…………」
全てを言い切る前に察した詠が視線を逸らして無言を返す。
それだけで、十分だった。
また、失うのか。
いや、そんなことはさせない。
今日は負けてしまった。
けれど、今度はそうはいかない。
解いた蜘蛛の糸を握り締める。凍りついた糸は小さく音を立てて砕け、空気に溶けて消えた。
次回、祭りデート回。
もう後に引けなくなった感じがします。




