第一話
――――ちりん
これから日付も変わろうか、とする真夜中。まとわりつくような熱気を孕む暗い山奥で、小さく、それでいてはっきりと、鈴の音が響いた。
――――ちりん
それはまるで、この不気味な山の闇を打ち払うように。
そこへ。
「なぁ、輝音。そろそろこんなつまらないことやめてさ、オレと一緒に楽しいことしようぜ?」
低く、甘い声が囁く。
輝音と呼ばれた彼女は、ちらりと声の主に目を向けて、それこそつまらなそうに切って捨てた。
「バカなこと言わないでよ、紅刻。あなたとする楽しいことより、この『仕事』の方がよっぽど有意義だわ」
そう言いながら、輝音は手にした鈴を鳴らす。
――――ちりん
軽やかな鈴が、再び夏の蒸し暑さと冷たい山の空気を震わせた。
現在、輝音と紅刻がいるのは、深い山奥の、何の特徴もない木の上。輝音がここにいるのは『仕事』のためだが、紅刻がいるのに意味はない。強いて理由をあげるなら、輝音がここにいるから、である。
「あーあ、退屈だなぁ」
ひゅう、と吹いた風が、輝音の夜闇に透ける黒髪と、紅刻の短い赤髪を弄ぶ。
「だったら帰ればいいでしょう? 別に、つき合ってくれなんて頼んだ覚えはないのだけど?」
そうだ。
自分は仕事だが、彼にそんなものは存在しない。
彼女の言う『仕事』、それは――――。
――――ちりん
がさ、と山の草木を踏む音に意識を向ける。
そこには、幼い少女が、ぼんやりと、危なげな足取りで歩いていた。
真っ暗な闇の中で、泣くことも喚くこともしない。気丈に振る舞っているわけでも、泣くのを堪えているわけでもない。魂が抜け出したような、という形容がぴったりと当てはまる異常な様子。
この少女を無事に山の麓まで導き、家に帰すのが輝音の仕事だ。
「こんな人間、オレたち妖が相手にすることないんだって。放っておいたってどうせ死ぬだけだろ? オレたちには損も得もないじゃん」
あまりに簡単に生死を語る紅刻に、輝音は微かに眉を寄せた。
――――妖。
彼女たちは、人間ではなかった。
輝音たちがいるこの山は、『隠し山』と呼ばれている。それは、この山が人を攫うと信じられていたからだ。今となっては、それを口にする人間も少なくなったが、その昔を知る人間は、今でも本気で信じているらしい。
その噂が減退していった裏には、輝音たちの活躍があった。
この隠し山の奥に建てられた、妖が通う学校。名もなきこの学校は、人を愛する山の神が建てた学校だった。
神に『神力』、妖に『妖力』、人間に『霊力』。そして、霊力は神力に感応しやすく引き寄せられやすい。
隠し山と呼ばれるこの山の神の、あまりに強い神気に当てられた人間は、無意識のうちに引き寄せられていまう。引き寄せられたとはいえ強い力は毒にしかならないし、山の中には人間を捕食する野生の妖も少なくない。
そのために、山の神は己の眷属に命じて、自分の山の中に学校を建てさせた。
暇を持て余している妖も、人間の真似事に興味を抱く妖も意外と多かった。もちろん、山の神にとってそれは建前でしかない。
本来の目的は、『迷い込んだ人間を家に帰すこと』。それに適性のある能力を持った者を、学校長、もしくは理事長の権限で無理やり『風紀委員』に任命して、こうして仕事をさせているわけだった。
存外、こういう能力持ちは、根っからの真面目な性格か、頼まれると断れない押しの弱い性格、どうでもいいという無気力な性格の妖が多い。ちなみに輝音が断らなかった理由は、三つ目だった。無気力なわけではないが、断る理由もなかったのだ。人間が好きなわけではないが、やってもいい、という感じだった。
そんなわけで、彼女は現在、仕事中だ。
――――ちりん、ちりん
輝音の持つ鈴が軽やかな清浄な音を奏でると、それに誘われるように少女は音の方へ歩いて行く。
山をいくつかの区画に区切り、山の麓まで導く者と、無事に家まで送り届ける者に役割が分かれていた。
木々の枝を伝い、輝音と紅刻は麓の方へ移動していく。
迷い込んできたのは少女で三人目。今日はそろそろ終わりだろうか。
――――ちりん
やがて、民家の見える場所まで下りてきたところで、彼女は鈴を鳴らしていた手を下げた。
この先の仕事は自分のものではない。人間を家に帰す、という誰にでもできるこの続きは、風紀委員をやりたいと買って出た物好きの仕事だ。
輝音は木の枝から飛び降り、少女の前で危なげなく着地する。そして、その低い位置にある手を取って、少女を山の外へと引っ張った。おぼつかない足取りで着いてきた少女は、今は夢の中にいるのだ。いうなれば、夢遊病の状態。知らない間に家を出て、知らない間に山へ入っていまうのだ。
そんな少女に哀れみの眼差しを向け、彼女はその小さな手のひらに鳴らしていた鈴を握らせた。もう二度と、山の神気に当てられないように。
霊的な呪具は所有者の守りとなる。
緩慢な動作でそれを手にした少女は、無機質で虚ろな眼差しを輝音に向けた。
そんな少女の両目を彼女が片手で覆うと、少女の身体が傾ぎ、その小さな身体は輝音の腕の中に倒れ込む。
山の中では、神の支配が強すぎて術が掛かりにくいのだ。妖がそれぞれで保有する個人的な能力や呪術なら別だが、妖なら誰でも使うような簡単な術は、山の中では使えない。それも、学校内は除外されるが。
輝音が少女を誘うために用いた鈴の音は、彼女自身の持つ能力の一つだ。
輝音は眠った少女を『家まで送る係』である妖に任せ、身を翻す。そこに、彼女を追って木から降りていた紅刻が出迎えた。輝音は頭一つ分以上高い長身の彼を見上げる。その顔には作り物めいた笑みが張りつけてあり、何かを含んでいるように思えた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい。聞くだけなら聞いてあげるわよ」
高圧的な物言いに気を悪くする様子もなく、紅刻は「別に」と笑う。
彼のこの、人をバカにしているような胡散臭い笑顔が、輝音は好きではなかった。
整っている容貌だとは思う。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。細身ではあるが、筋肉質な身体。
実際、人間を惑わすためなのかどうかは知らないが、妖の容姿は美しい者と醜い者と、極端に分かれていた。どちらにも当てはまらない場合は、狐や狸などの動物系の物の怪や化生の類いだ。
彼女も例に違わず、綺麗な外見をしていた。夜を切り取ったような黒い瞳と、それと同じ色の豊かな長い髪には鈴を結わえている。肌は白く滑らかで、細い身体にすらりと四肢が伸びる。
二人とも、街中にいれば思わず人目を引く、そんな容姿をしていた。
「ただ、どうしてキミは、迷ってきただけの人間に鈴を渡すのかなって思ったのさ」
予想していなかった問いに彼女は面食らった。思わず目を丸くする輝音に、紅刻は続ける。
「同じ風紀の連中にも聞いたけど、誰もそんなことしてるヤツなんていなかったぜ?」
わざわざ確認したのか、とは思わなかった。それを気にするだけの余裕がなかった、と言いかえてもいい。
彼は何となく聞いてみた風を装っているが、無駄に背が高いせいか、妙な迫力があった。それも、彼女から落ち着きを奪っている要因の一つとなっている。
いや、そう感じるのは、隠したいものが自分の中にあるからもしれない。
人間が、好きではない……けれど、嫌いではなかった。
本当は嫌いになりたいのに、そうできない。
これが彼女の人間に対する本心。輝音は『絶対に』人間を嫌いになれない。彼女の魂に根づいた本質が、それを許さなかった。
だが、彼女はそれを認めたくはなかった。
だからこそ、そんな自分の本心を見透かされた気がして、彼女は内心で動揺していた。
それに気づかれないよう平静を装いながら、輝音はつい、と視線を反らす。
「別に理由なんてないわ。仕事を増やされたくないだけよ。それ以外に渡す理由なんてないでしょ」
呪具が守りになることは、妖でなくとも、その筋の人間であれば知っていることだ。
特に、彼女の持つものならなおさら。
なぜなら、輝音はただの妖ではない。
この国でも、数自体は減っているが、少なくない種族。
「ふぅん。……でも、オレとしては、あんまり気に入らないな」
「あなたに気に入られる必要は感じないわね」
わずかに身を屈めて低く囁く紅刻を押しやって、輝音は山へ入る。
そこへ、山中にチャイムの音が高らかに鳴り響いた。
普通の人間には聞こえない、真夜中のチャイム。
それは、妖のみが耳にすることができる音。
時刻は午前十二時。
ここからは、人でない者の時間帯だ。
妖怪なので、少し凝った名前を採用しています。名字はありません。
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