ずれていく思惑
アヤメはどれくらい眠っていたのだろうと薄明りの中、目をあける。風呂を使って、皮膚があかくなるほど無意識に体を洗った。そのあと、小鳥遊先輩が渡してくれた自分の服にきがえて……。
「あ、ごめん。まぶしかった?」
不意に声をかけられて、そちらを見る。顔はよくみえなかったけど、声であの人だと分かった。大丈夫だと抱きしめてくれた人。小鳥遊先輩が言っていた、比良坂夜見。
「あの……助けてくれてありがとうございます」
アヤメはベッドから身を起こして、丁寧にお辞儀した。夜見は偶然だからお礼なんていらないとつぶやく。
「それになんだか面白いことになりそうだし……あんたには悪いけどさ」
アヤメにはなぜかその口調が、本当に面白がっているようには思えなかった。
「あの、あたしの携帯しりませんか?」
「ああ、あれね。ここにはないんだ。岸崎に連絡とりたい?」
「あ……それは……」
自分でもよくわからなかった。あの男が言った言葉なんて信じたくない。だから、礼子に直接聞きたい。そう思うけれど、どこかで怖いと思っているのも確かだ。
「それよりさ。どうする?」
「何を……ですか?」
「あんたを襲った奴のことだよ。訴えるか?一応、理事長はあんたがやつを告訴したいっていうなら全面的に協力をおしまなしそうだよ」
アヤメはうつむく。
(そんなことわからない)
あの時の恐怖が体をこわばらせる。殴られて、体をまさぐられた気持ち悪さも未だにリアルに感覚として残っている。
「訴えるとしたら、準強姦罪ってことかな。ただ、あんたはあいつを自分で部屋に招き入れている。そこらへんがネックになって長期的な裁判になりかねないかもな。といっても少年法でどうなってるかは、あたしもよく知らないけど。なんなら、弁護士紹介しようか?」
夜見は淡々とそんなことを口にした。あの時の優しい声とは違う。現実を突きつけてアヤメを試しているような、どこか静かに怒っているような声。
「もう少し、考える時間がほしいです」
(そうだ。考えなきゃいけない。自分が本当にどうしたいのか……礼子ちゃんにも会って話さなきゃ……)
アヤメはベッドから出て夜見の近くに座った。
「ベッド占領しちゃってごめんあさい。あたし、自分の部屋にもどります。いろいろあがりがとうございました」
「あの部屋に帰って平気か?」
「それは……」
アヤメが言葉につまると、夜見はふっと優しい顔で微笑んだ。
「こっちで、勝手にいろいろ決めちゃって悪いんだけど。あんたの部屋の荷物は別の場所に移してるんだ。しばらく、そこであたしと生活することになるけど、学校には普通に行けるし。考える時間が欲しいならここでよりずっと快適だよ」
アヤメはポカンとする。この寮以外の場所といったら、もう一つの寮しか思い浮かばない。けれど、夜見が言っているのはそうじゃないということはわかった。
夜見は腕時計をみていた。
「ま、この時間なら人目につかずに移動できるか」
独り言のようにつぶやいて、携帯で誰かに連絡入れた。
「あの、移動って」
「ここから移る。服、そのままでいいか?迎えよこせっていったから、そのうち来るけど。着替える?」
「あ、いえ。大丈夫です」
「あとさ、敬語やめなよ。あたしはあんたと同じ一年だし……って、ああ、自己紹介忘れてた」
夜見は苦笑する。
「はじめまして、比良坂夜見です」
「あ、真田アヤメです」
つられてアヤメも頭をさげた。
「アヤメってさぁ。どんな字かくの?」
「カタカナでアヤメです」
「だから、敬語禁止。ふうん、花の名前だな。アヤメ、アヤメ、アヤメ…」
なんだかよくわからないが、夜見はアヤメの名前を連呼した。
「よし、覚えた。アヤメって呼ぶけど、いいよな」
「は、はあ…」
なんだかアヤメは、体から力が抜けるようだった。
「あたしのことは、好きに呼んでいいよ。ちなみに、ヨミってのは夜を見るって書くんだ」
夜を見る。不思議な名前だとアヤメは思った。
「夜見って呼んでもいいですか……じゃなくて、いい?」
夜見はもちろんと子供のように無邪気に笑った。
◆
礼子の思った通り、アヤメは欠席していた。礼子はアヤメを気遣うふりをして、どうしたのかしらと心配顔で一日をすごした。気のいい連中は、礼子を慰めるように先生の話だと具合が悪いのですって心配ねなどと声をかけてくる。そのたびに、心配だわといってうつむく。礼子は心の中で笑っていた。
今頃、アヤメがどんな顔をしているかと想像するだけで、気分がよかった。
(それにしても……佐久間からの連絡がないのが気になるわ)
アヤメは事情を知らず、いきなり襲われたのだから、多少の抵抗はしたはず。それともそういうものも、佐久間の嗜好を刺激したのだろうか。まさか、抵抗されたからと殺すというような度胸のある人間ではないと思うのだが……。
(ま、いずれにしても放課後、アヤメをたずねればいいだけのことだわ)
礼子は放課後、アヤメの部屋の前に立った。何度かチャイムをならすが、応答はない。一瞬、自殺未遂をしたあの子の顔が浮かぶ。何を今更と、胸に何か苦いものを感じながら、それを振り払うように、今度は扉を何度かたたいた。すると、隣の部屋から眠そうな背の高い女が、迷惑そうな顔でこちらを見た。
「あの、真田さんは……」
女はあくびをかみころしながら、首をかしげる。
「うーん、なんか昨日物音がして……たぶん、あれは警備だよな。黒服だったし。何があったか知らないけど、今は部屋にいないんじゃない?何かやらかしても、そのうちもどってくると思うし……あんた、友達なの?」
「ええ、岸崎礼子といいます」
女はふーんと言った。じっと礼子を観察するような目でみている。
「な、なんでしょう?」
「ああ、左肩にさ、エンブレムついてるからどっかのお嬢様なんだよなぁって……ま、どうでもいいけど。それで、携帯とかで連絡取れなかったの?」
「ええ……」
礼子は沈んだ顔をする。まさかとは思うが、アヤメは事の次第を警備隊に訴えたのだろうか。それなら、佐久間から連絡がないのも、アヤメと連絡がつかないのも納得がいくが。
礼子のうつむいた顔にかすかに笑みが浮かぶ。傷つて絶望しているアヤメの顔を見たかったが、仕方ない。たとえ、警備隊にどちらも正直に礼子の指図だと答えたところで、対して問題はない。アヤメの口座に金を振り込んだのは佐久間だし、アヤメは泣きながら、抱きしめてでもやれば礼子が佐久間を誘導したことなどすぐに払拭してしまうだろう。
「あの、もし真田さんがお戻りになったら、礼子が心配していたとだけ伝えてもらえますか?」
「ああ、会ったらね」
彼女はどこかそっけない返事で部屋に引っこんだ。礼子はその態度で、この女はアヤメ以上に一般生であることをひがんでいるように感じた。アヤメで遊べなくなったら、この女で遊んでみるのも面白そうだと腹の中で笑いながら、肩を落としたような元気のない姿のまま、一般生の寮を後にした。
(なるほどね……)
夜見は礼子の演技力に感心していた。確かにあれだけ、剣呑な雰囲気を隠しきれる人間も珍しい。夜見には、岸崎礼子は人を信じないことで自分を制御しているタイプのように見えた。
人間をおおざっぱに大別するならば、憎しみや恨みを糧として生きるタイプと憎しみや恨みを乗り越えて生きていくタイプがいる。礼子は前者。アヤメは後者。そう考えれば、今回の事件が二人の転機になるのかもしれないと夜見は思う。
(なにができて、なにができないか……)
夜見は自分に問いかける。少なくとも、アヤメは礼子に会って話したいと望んでいる。
「ふー。別にあたしが首突っ込む必要はないよな」
あくまでも、今回の事件は強姦未遂。アヤメの人間関係にまで踏み込む権利は、夜見にはない。それでも、彼女が冷静に礼子と向き合えるまでの時間とフォローが必要だと考えた。
(生徒会長の顔でも拝みにいってみるか……)
佐久間に対する処置についても気になっている。生徒に対して全権を有しているというのはある意味、警備隊よりたちが悪いかもしれない。何をしても隠し通せれば、勝ちという論理が働く可能性がゼロではないことは、夜見にもわかる。
佐久間になんらかの理由をつけて、学校外に放逐するなら警備隊が対応すればいい。それをあえて首を突っ込んできたというか、聖の話だとはじめから礼子に対して警戒していたということでもあった。
警備隊のブラックリストに載っていた佐久間は、彼らの監視下にあった。だが、要注意人物の礼子は監視対象にはならない。あくまでも、問題を起こした時点で監視下に置かれる可能性があるというだけだ。しかし、生徒会はその逆を行っている。夜見は深いため息をつく。
(いろいろ考えるのは性に合わないな。面倒だし……)
だからこそ、感覚だけで動いてしまうこともあり、母にはよく心配された。
『力というのは加減ができない人間がつかうものではないのよ。特に夜見みたいに人を殺す方法を知っている人間はね。まあ、私もあなたに説教できるほど人間ができてるわけじゃないけど。お願いだから、はずみでなんてくだらないことで人の命を奪うようなことはしないでね。死者は生き返らないし、同時にあなたの人生も死ぬのだから』
夜見はふっと笑う。似たようなことを祖父がいっていた。夜見の師匠であり、東雲流体術の伝承者。人体がどこにどんな衝撃をうけるかで、死に至ることも教えた人だ。東雲流はもともと暗殺術として伝えられていた体術だったが、銃や爆弾が中心となった近現代の戦場において、白兵戦は極めて稀だ。暗殺術は直系の中でもっとも力と感が強いもの一人に伝承される。それ以外は、護身術を教えている一般的な武術道場と大差ない。
ただ、たまに聖のようなセレブご用達のボディーガードを鍛えてほしいという依頼を受けることはあったし、母が経営しているセキュリティ会社の警備部門の人間に祖父が体術を教えることもあった。あくまでも、要人警護の盾という意味で、感覚を研ぎ澄まさせるための訓練にすぎなかったけれど。
そんな中でも柚木聖は、祖父にその身体能力の高さや人としての気質を気に入られた人間だった。そして、それは彼にとって幸か不幸か夜見にはわからないが、祖父の命令で聖は夜見専任の組手相手となった。
当時、聖は十八歳。夜見は八歳だった。そして、そのころの夜見は自分が人を殺せるほどの力をもっているとは思っていなかったが、初めての手合せであやうく聖を殺しかけて、祖父から学んできたものが使い方ひとつで人の命を奪えるのだと自覚した。以来、夜見は力をふるう時、急所を確実にはずし、かつ相手に最小限のダメージを与えることに気を配るようになった。そのおかげで、今も人殺しにはなっていない。【死神】などという忌み名をつけられるほどの、トラブルを起こしていても。
夜見はぐっと背伸びをした。とりあえず、一度着替えた制服をもう一度きなおし、生徒会室へ向かった。