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前篇

あ、と僕はいった。

「どうしたの?」優子さんは僕のうえに跨っていたが、腰をあげると、ベットのうえに両脚を投げだした。

「なんでもありません」、と僕はいったがそれは偽りだった。僕は頭のなかで思い巡らしていた。

 あの娘はいま、なにをしているのかな、と。

 99番目の少女


 銀色の古びたポストを開けると、手紙が届いていた。優子さんからだった。

 その手紙は僕が山梨から東京に帰ってきてから、自棄になって、むちゃくちゃな生活を送っていた時期に届いた。

 僕はアパートの部屋に戻ると、ベットのうえですやすやと眠る、裸の女を叩き起こした。女は短い悲鳴をあげると、布団を抱え、顎を引き、不満げな目で僕を見た。

「頼むよ、今日はもう帰ってくれ」

「なんで?」といって女は傍らの目覚まし時計を手に取る。「まだこんな時間じゃない。お昼までゆっくりさせてよ」

 だめだよ、と僕がいうと女は声を張りあげた。

「あんたが私を誘ったんじゃない! そんなのって酷いと思わない?」

 僕はため息をついた。女の視線を感じたが、僕は目を合わせなかった。

「そう……。そういうつもりなら、でていくわよ。そのかわり、街やバーやカフェで会っても、もう声をかけないで」

「わるかった、と思ってる。でもしかたがないんだ。僕もいつまでもこんな生活を続けるわけにはいかないからね」

 女はベットに脇に畳んでおいた、紺色のスーツを着はじめた。素早い動作だ。まるで、彼女のまわりだけ時間の流れが早くなったかのようだった。

 スーツを身に着け、どこのブランドともしれない型の古いバックを持つと、女はいった。

「あんた、やっぱり他の女ともこういうことしてたんでしょう。なんとなくわかってたわよ」

「そう?」

「でもあんたは優しそうにみえた」

「僕は優しいよ。世間一般からすれば、だけど」

 女はフンっと鼻を鳴らして、小さく笑った。くたびれた笑顔だ。

「たしかにあんたは優しかったわね。まるで、死んだ海老みたいに。別れ際は酷いものだけれど」女は風刺たっぷりにそうにいって、玄関の方に歩いていく。

 僕は女に手を振った。ひらひらと。

 去り際に女はいった。

「あんたが寝てるとき、鞄を漁ってみたけど、お金もってないのね。」

 僕は一瞬、女のいっている意味が掴めなかった。

「僕の鞄を勝手にみたのか?」

「しかたないじゃない。でもお金がなかったとしても私のせいじゃないわよ。だって、それは、もともとなかったんだもの」

 なにがしかたないのか、僕にはさっぱり見当がつかなかったが、たしかにもともと、金は鞄のなかに入っていなかった。

「あんた成人式にいかなかったの?」女は玄関のドアを開いた。白っぽい朝日が差しこんできて、部屋の埃を浮かび上がらせた。女の顔は影に包まれて、黒っぽいシルエットになっていた。

「どうして?」

「鞄のなかに入ってた成人式の便り。びりびりに破いてあったから」女は僕の目をみた。「まあいいや。私とあんたはもう、他人だものね。成人式でなにがあろうがしったこっちゃないわ」

 ばたん、とドアの閉まる音がした。僕は彼女が去ってからもしばらく、玄関の辺りを眺めていた。

 僕はふう、とため息をつき、部屋の中央、ベットの横のカウチソファアに座った。ずいぶん昔に叔父にもらったものだから、パリパリに乾いて、鰐の背中に腰かけているかのような感触がする。

 これで、やっと手紙が読める。優子さんが僕にいったいなんの用だろう?


 これがそのときの手紙だ。


 ユウタ君、おひさしぶり。驚いたでしょう? あなたの住所は誰かさんから聞いたわ。

 このまえ、また一人でディズニーランドにいったの。そして帰りの電車のなかで思ったわ。私たちがはじめて出会ったのも電車のなかだったってね。


 

 その日は、『新宿の目』もかぴかぴに乾いて、しばしばと瞬きしてしまいそうなくらいに、冷やかな風が吹きすさんでいた。

 僕と優子さんがはじめてであったのは、新宿―甲府行の特急列車かいじの車内。

 座れる席はなかった。僕は電車の連結部に追いやられ、きゅるきゅると早送りされる東京の景色を眺めていた。席にあぶれたらしい人は僕の他にもいた。一人はみるからに体調の悪そうな(あるいは酒でも飲んでいたのかもしれない)OL風の女性で、ほかには中年の白人の夫婦らしき二人。それに僕はそのとき名前も知らなかった優子さんがいた。近くで優子さんをみると、その魅力に僕は関心した。美人といった顔立ちではないが、崩れてもおらず、ゆらゆらと立ち昇る蜃気楼のように、人の目を惑わす雰囲気があった。

 困ったことが起こったのは、特急電車が二、三駅かを足早に駆け抜けて、さあ、これから終点の甲府に向けて走り出すのだ、という頃合いだった。具合の悪そうなOL風の女性が、車内でおう吐したのだ。吐きだされたのは、水っぽいゲロで、床を津波のような勢いで広がっていった。すえた匂いがした。白人の夫婦は英語でなにやらいって、顔をしかめ、逃げだした。(男は白い顔を真っ赤にして、女は鼻をつまんでいた)僕はただ、ぼうっとして動けなかった。

 すると優子さんが女性のもとに駆け寄った。服にゲロが付くのも構わず。優子さんは僕に、誰か人を呼んでくるようにいった。わかりました、と僕はいった。

 職員を呼んでくると、車内のトイレの前で優子さんが待っていた。トイレのなかには先ほどの女性が入っているらしく、なにか吐く音がきこえた。優子さんは理路整然と、ことの顛末を職員に説明した。

 それから僕たちは職員と一緒になって、床に飛び散ったゲロを拭きとった。ティッシュ・ペーパーを通して伝わってくる感触は、気持ちのいいものではなかったけれど、自分はいま良いことをしているのだ、と思うと、悪い気はしなかった。

 その作業が終わるころには、電車のなかも空席ができてきた。僕は適当に空いてる席を探して、一息をついた。鞄のなかを探ると、成人式の便りがあった。僕はそのとき、真新しいスーツに身を包んで、母に買ってもらったばかりの、黒い先っぽのとんがった靴を履いていた。僕は成人式にでるために、山梨へ向かっていたのだ。

 僕が成人式の便りを眺めていると、隣に座ってもいい? と女性の声がした。どうぞ、といって顔をあげると、OL風の女性が倒れたとき、真っ先に助けの手を差し伸べた女の人だった。

 それから僕たちは甲府駅に着くまで二人で話した。彼女の名前は優子さんといって、大阪の出身らしいこと、山梨には仕事で通っていることなどを知った。

 僕たちが二人で話していると、先ほどのOL風の女性がやってきた。顔に血が通ったようで、化粧を直した様子だった。

「ごめいわくをおかけしてすみません。どうも、ありがとうございました。」女性は申し訳なさそうにいって、頭をさげた。

 いえ、かまいませんよ、と僕はいった。

「一緒に座って、車内販売の珈琲でもいかがです?」優子さんがいった。

 僕たちは珈琲を買って飲んだ。優子さんがおごってくれた。ありがとうございます、と僕がいうと、優子さんはいった。

「いいのよ。あなたが気にかけることじゃないわ。お金なんてのはね、沢山もってなくてもいいの。必要なときに、必要なだけ使えばいいのよ」

 優子さんはあっけらかんというので、僕はいっぺんに優子さんのことが好きになった。 

 何駅目かに停車したところで、OL風の女性は、僕たちに別れを告げ、電車から降りた。



 あのときはちょっと大変だったわね。でもいま、あなたはもっと大変なことになっているんじゃないかしら? つらいことがあったらいつでも相談に乗るわ。


 どう、頑張ってる? 私はいまも天国館で一生懸命働いています。

今回のお手紙はお店に来て欲しいとか、そういうことを頼みたくて書いたわけじゃないの。ただ、ああいうことがあった後は、なにか助けになれればいいな、と思ったのよ。

 ここだけの話、あの娘はまだあなたのことが好きなのよ。もちろん、すべてを決めるのはあなただけど。

 あの娘だけじゃないわ、実は私もあなたのファンなのよ。

 山梨に帰ってきたら、ぜひ一度お顔を見せてください。一緒にお酒でも飲みましょう。

 PS、追伸。

 今夜は三日月がでています。それに雲ひとつなくて、たくさんの星々がよく見えます。水色の浴衣から手を伸ばせば、届くんじゃないか、なんておもいました。とげとげした金平糖のような星たち。私たちが見ている光は、ずっと昔に放たれたものだったのですね。学校で習いました。なんだか、素敵ですね。そのときたぶん、初恋の人が私の隣の席だったんだけど、覚えてないだろうな。

 私はいま、稲穂が秋の風に揺られるのを、ベランダでジントニックを飲みながら眺めているところです。この手紙を傍らに置いて、さらさらと綴りながら、ちびちびと、ジントニックを飲んでいます。

あなたのおすすめの水色ジントニックでなら、もっとよかったのだけれど……。

 

 手紙はそこで終わった。



 成人式の便り

 

 成人式の便りは、長方形のプレゼント包装に入っていた。


 ・成人式は一月十二日。県民文化ホールにて行います。


 ・尚、同窓会は午後六時から、アピオセレモニーホールにて行います。参加費は各自、三千円になります。


 ・小瀬スポーツ公園にて、小学校の記念撮影会が行われます。教師の方々も集まって、タイムカプセルの開封もいたしますので、お時間の御都合がつくかたはぜひ参加してください。午前八時から開催となります。

 

 だいたいそんなことが書かれていた。正確な内容は思いだせない。

なにしろ99番目の少女のいったように、山梨から帰ってくる電車のなかで、僕は成人式の便りを、びりびりに引き裂いてしまったのだから。


 電車のなかで。優子さんと。

 

 僕たちは隣の席に座って、甲府駅につくまで話した。

「ねえ、私、ディズニーランドにいった帰りなの」優子さんはいった。

「彼氏とですか?」僕はそういった。なんとなくそう思ったのだ。

「彼氏なんていないわよ。一人でいったの」そういうと、優子さんは、ミッキーマウスのストラップのついた携帯電話を僕にみせた。

「可愛いですね」

「ありがとう。ねえ、オオモリ君の怖いものってなに?」

「怖いもの、ですか? 沢山ありますよ。数えきれないくらいに」

 僕は笑った。

 優子さんも微笑んだ。

「いくつか教えて。正直に」優子さんは囁くようにいった。

「怖いもの……。青、自然、街、虫、幽霊、博打、車、電車、飛行機、秘密、策略、政府、暗所、力、格差、金、それから……」

「それから?」

「女の人」

「そう。女の人が怖いの?」

「怖いというのとは違いますかね? ただ僕は女の人がいまいちわからないものですから」

「よくわからないものは怖い」優子さんは頷いた。「じゃあ、お酒は好き?」

「強くはないけれど、好きですよ。高校のときに甲府の場末のバーにいって、飲んだのがはじめてですね。僕を含めて五人の仲間でした。僕はよく男友達を誘って、そのバーに通いましたよ。『転がる岩』という名前のバーでしたね。ローリングストーンズを殆どそのまま日本語にしただけなんですけど。そのときの僕たちにはすごくお洒落な店にみえたんです。マスターはロックミュージックが好きで、いわゆるロック喫茶みたいな感じの店でしたね。

 あ、そうだ。優子さんはジントニック・ブルーって知ってますか?」

 なあにそれ、と優子さんはいった。飼い猫みたいに。

「バーなんかにいくと、ジントニックをだしてくれますよね? それで大体のバーにはブラックライトの照明がついていて、その光にジントニックを当てると、水色にみえるんです。プールの水みたいに。僕はそのグラスに注いだジントニックを通してみる景色が好きでした。僕の仲間は皆、水中を泳いでいるようで、手足をばたばたやって踊ってました。僕がそうやって、ジントニックをブラックライトにかざしていると、仲間の一人が僕の首に絡みついてきて、踊りの輪に僕を加えました。みんなお酒を飲んで陽気になっていて、音楽が鳴っていて、それは古いロックで。マシュー・スウィートってバンドの『ガールフレンド』という曲でしたね。踊るにはもってこいです。」

「水色ジントニック。高校時代の良い思い出ね」そういって優子さんは僕の肩に頭を乗せた。僕はなんだか落ち着かなかった。



 叔父と僕と母

 

 叔父は僕のよき理解者だった。母は僕を一番想ってくれていた。

 甲府駅に電車が着くと、僕は優子さんと別れ、駅のホームに降りた。やがて電車が走り去っていき、僕はその後ろ姿を追うようにみた。西の方の山々にはまだ雪が残っているようで、雪は遠くから見るとジグザグの形をしていた。それは白い刃の鋸を思わせた。

 改札口を抜けると、そこには叔父と母が僕を待っていて、僕は二人に手を振った。

 僕たちは駐車場に向かって歩いた。近くに車を停めてあるのだった。

「東京の生活はどう?」母がいう。

「山梨とあまり変わりはないよ。ただ、人が多くて、うんざりすることはあるけど」

「学校にはちゃんと通っているのか?」叔父は詰問するように話す。誰に対してもそうだ。叔父は警察官をしているからだと思う。

「だいじょうぶだよ。留年は避けられそうだ」

 そうか、と叔父はいって、あとは黙って歩いた。おしゃべりな母がぺちゃくちゃと、しきりに話しかけてきた。僕はその話を聞くともなく聞き、駅を後にした。


 

 都会の喧騒、自暴自棄な僕。共生動物。98番目の少女。


 夕方というにはすこし遅く、太陽はほとんど沈みかけていた。

 がやがやとざわつく、人の声がきこえる。ここは人が多すぎる。僕はゴッホのように、自分の耳をそぎ落としてしまいたい気分になった。(けれども、そんなことをしてもなんの解決にもならないことは分かっていた)騒音をまき散らす都バスが、バス停に並んで待っていた人々を乗せて走り去った。

 やがて太陽は、夜のなかに失われた。瞬きと瞬きのあいだに、太陽の光が点となって、筆先に水を含ませすぎた点描画の絵の具のようにボッと滲んで、消えた。群青色をしていた都会の空が深みを帯びて黒っぽくなった。高層ビルディングの整然とした立ち並びは、人口の光を主張しはじめた。その光は白銀色で、ずっとみていると眩暈がしてくる。

 一人でカフェに佇む女に声をかけ、夕食に誘ってそのあとは一緒に寝る。甲府から東京に帰ってきた僕は、毎日のようにそんなことをしていた。

 毎回違う女に声をかけた。顔もスタイルも名前もまるっきり違う女に。

 一度寝た相手とはそれっきりだった。

 いきなり声をかけられた彼女たちは、僕を警戒した。カフェでいきなり声をかけられるなどとは、思ってもいなかったのだろう。僕はそういう種類の女――みるからにくたびれた女――に声をかけていた。そのようなタイプの女は警戒心が強いが、なびきやすい。

 女がいる店というのはだいたい決まっていた。都会のまんなかにあって、常に客が少なくて、脱サラ風のマスターがいて、そのマスターがこだわりのエスプレッソコーヒーをだすような店だ。僕はそういう店をいくつか知っていた。エスプレッソは苦くて退屈な味だから、好きではないが。

 その日も、僕がかねてから目をつけていた、珈琲専門店にいった。店内に入ると、たっぷりと白い髭をたくわえたタキシード姿のマスターが、いらっしゃいと声をかけてきた。ヘミングウェイに似ているな、と思った。

 店内を見渡すと思った通り、客は少なかった。黒人の男二人組がカウンターに腰かけていた。その後ろの丸テーブルには女が一人で座って本を読んでいた。女はクンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んでいた。ほかに客の姿はなかった。

「ねえ、ニーチェはなんていったんだっけ?」

 僕はカウンターのまえを通って、女の隣に腰かけた。女は本から顔をあげずに僕の質問に答えた。

「永遠の回帰のこと?」

 女は投げやりないいかたをした。どうせ、わかるわけないんでしょ、とでもいいたそうだった。

「そう。永遠の回帰」僕は肯いた。「それって本当だと思う? いつかすべてが、かつて人が生きたのと同じように繰り返され、その繰り返し自体もさらに繰り返されるなんて」

 女は本から顔をあげると疑わしげに僕の顔を眺め、エスプレッソをすすった。

「それは、きっと、たぶん、うんざりするわね」女は切れの悪いスタッカートを打つようにぽつぽつといった。

「僕もそう思う。ずいぶんと酷い仕打ちだ」

 女は首をかしげた。

「なにか私に用事でもあるの?」


 夕食のあとにやることといったら一つしかなかった。

 僕は女と寝た。

 ただ、自分のために。

 女の顔はみたくなかった。それにベットの軋む音や、喘ぐ声も耳にしたくなかった。しかたなく僕は、行為の最中必ず部屋の電気を消した。そしてベートーヴェンの交響曲第九をフルヴォリュームで流した。アパートの薄い壁は震えていた。


 毎日がそんな繰り返しだった。

 最初のうちは楽しかった。エキサイティングな感触があった。けれども何日もそんなことをしていると、次第にうんざりとする瞬間が訪れることもあった。


 一方で、僕と彼女たちは案外うまくやっていたんじゃないか、とも思えた。僕と彼女たちは互いにある種の依存関係を保っていたのではないか? と。まるで共生動物だと思った。青い海に住む、クマノミとイソギンチャクのようだ。

 夕陽が沈んでしまってからも、僕はベランダで煙草を吸っていた。巻紙からでた煙はふよふよと空に浮かびあがり、あっという間もなく、ひゅるりという風に吹き消された。風が吹くと髪が目にかかった。僕は頭を左右に振り、前髪を垂らして、指先で真っ直ぐに伸ばした。ちょうど俯いた格好になった。

 すると足元になにか小石ほどの大きさのものが、転がっているのに気づいた。僕は腰をかがめてそれを拾った。

 それは蝉の抜け殻だった。

 気づいたら夏だったのだ。

 背中には脱皮のあとが残っていた。腹の辺りにも、虫に喰われたのか大きな穴が開いていた。

 僕は蝉の抜け殻の、背中から腹にあいた穴を通して、街を眺めた。視界は黄金色だった。アパートの上空をテレビ局のヘリコプターが飛んでいる。まるで巨大な蠅のようで、煩くて耳障りだ。側面に三本の太いラインが入っている。そのしたになにか文字が書いてあるようだが、よくみえない。

「なにかあったの? 事件でも……」

 僕はセミの抜け殻を放り投げ、部屋の暗がりのなかをのぞきこみ、そこにいるはずの女に問いかけた。女はなにも答えなかった。女は疲れはてて、ベットのうえで眠っているのだった。


 実家の窓から。ニアについて語る。


 夕食を終え、風呂からあがり、寝間着に着替え、二階の自室にあがった。久しぶりの自分の部屋はなんだか、埃っぽくて、若い男の匂いがした。僕は窓をあけるとそのまえにたち、部屋のあかりを落として、ジントニックを飲んだ。そして実家の窓からみえる景色を眺めた。

 静かな夜だった。東京にいるころに感じた、人々の動き回るようなざわついた音は聞こえなかったし、気配もしなかった。都会にいるときは、それが気になってしかたがなかった。遠くのほうから電車が橋を揺らす、くぐもったかすかな音が聞こえるばかりだった。田んぼの稲は十月ごろに収穫されて、すっきりとした雰囲気になっていた。その上空では蝙蝠が独特な動きで舞っていた。めったに車の通らない横断歩道の横には、古びた自動販売機が光っていた。夏になると蛾や蛙がその光に集まってくる。苺畑のビニールハウスは風に吹かれて、乾いた寂しい音をたてていた。苺畑の隣に空き地がある。昔そこには家がたっていて、僕は小学生のころよくそこに通い詰めていた。


 かつてそこにはニアという黒人女が住んでいた。


「吸ってみる?」

 若い黒人女はポケットからジャマイカ煙草をとりだした。彼は(それは僕が僕というには古すぎる記憶だから、これからは三人称で語ることにする)それを受け取って口に咥えた。女はマッチを擦ってそのオレンジ色の火を近づけた。

 ジャマイカ煙草の煙を吸い込むと、彼は肺がどきっとして、むせた。女はおかしそうに笑っていた。女は彼から煙草をとりあげると、おいしそうに吸った。根元まで吸いきると、アルミニウムの灰皿のうえに置いた。

「あなたにはまだ、はやかったかもね」

 サングラスを外してしばらく女は、オオモリ少年の顔をみていた。

「ねえ、前から思っていたことがあるんだけど、いってもいい?」

 彼はこくり、と小さく頷いた。

 女は真剣な顔をしていた。

「あなたはもしかして、女の人が怖いんじゃない?」

「ニアのことは怖くないよ」

「そうじゃない。わたしのことはどうでもいいの。わたしが気になっているのはつまり、女性一般のことよ。わたしや、あなたのお母さんを除いたとしたら?」

「そんなこと、どうでもいいよ」

 彼がそういうとニアは顔をしかめて、二本目のジャマイカ煙草に火をつけた。

「よくないわ」


 ニアは、彼が学校で、女の子とうまくいっていないことに気がついていたのだ。



 撮影会と、ヒロシと、諦め。


 僕は撮影会に参加すために、都市公園に歩いて向かった。道中、幾人かの新成人らしき人々の姿をみた。どの顔も幸せそうな笑みを口元に浮かべているようにみえた。彼のスーツは太陽に照り返し、その内に秘める筋肉の躍動を感じさせたし、彼女の桃色の振袖は一足早い春の訪れを思わせた。

 小瀬スポーツ公園の並木道を歩いていくと、大きな三十メートルほどの、青い四角柱を組み合わせた、ウォーター・オブジェがみえた。そのしたに大勢の人が集まっている。僕たちはその横の体育館の階段に並んで、集合写真を撮ることになっていた。僕はウォーター・オブジェのところまで歩いていった。

 大きなウォーター・オブジェを見上げていると、所々に排水管が剥き出しになっていて、ねじ曲がったり、塗装が剥げていたりした。

それは田舎特有の、洗練のされていなさ、をみる人に与えていた。僕がそうなふうにぼうっとしていると、かつての友人がやってきて、僕に話しかけた。ヒロシという男で、地元の高校を卒業して、地元の大学に通っている、甲斐の人だ。

「ひさしぶりじゃん。ユウタは東京の大学に通ってるんだっけ? 元気にしてた?」ヒロシは僕の肩に手を置いていった。

「もちろん、元気だよ。いまは東京に住んでいるんだ。甲府には久しぶりに帰ってきたよ」

「そうか。なら積もり積もる話もあるだろう。撮影会の開始まではまだ時間があるから、向こうで話そう」そういってヒロシは球戯場のまえの青いベンチを指さした。



 ベンチはひんやりとしていて、冬の寒さはここまで来ているのだな、と思った。

 みんな、すっかり変わっちまったよ、とヒロシがこぼした。

「どんな風に?」と僕はヒロシに訊いた。

「なんていうかな? 地元に残った奴らは、地元に残った奴ら同士で結婚してたりさ。ほら、十八にもなると、パチンコ店なんかに出入りするようになるだろ? それでなかには、そんなのにのめりこんじゃう奴がいてさ、話すことといったら、ギャンブルかバイクか女さ」

「なるほどね。まあ、東京でもそういう奴はいるよ。僕の大学にも、学生ローンを組んでまで、パチンコやってる奴がいるよ」

「でもさ、東京はそういう奴ばかりじゃないだろう? それでさ、東京に出てった奴らは、地元に残った奴よりも、色んな世界をみているような気がするんだ」

 そうかな? と僕はいった。

「そうさ」ヒロシは腕を組んでいった。「俺はそんな流れを感じているよ。それで外の世界に遅れないように、大学では沢山の本を読んでいるんだ」

 僕は頷いた。

「それでもやっぱり本だけじゃ限界はある。俺は大学をでたら東京で働くつもりだよ」

「僕は地元に帰るかもしれないな。入れ違いだね」僕はいった。

「お前が羨ましいよ」ヒロシはいった。

 ヒロシのいうことはまるで、ショー・ウィンドーの奥の、決して手の届かない、玩具に憧れる子供のいうことのようだった。けれども、多くの大人が気がつかない真実に気づくのは、いつだって子供の目なのかもしれなかった。


 やがて撮影会の時間になって、僕たちは体育館まえの階段で記念写真を撮った。百人近かっただろう。撮るときは男女に分かれた。カメラからみて左側が男、右側が女。僕の隣にはヒロシがいた。

 風が吹いていて、それは公園の木々を揺らした。カメラマンは写真を撮るタイミングをつかめなかったようだった。何度かシャッターの音がして、やっと満足のいくものができた、といったようすで、OKです、と親指を立てた。僕は、カメラマンもまた芸術家なのだ、と思った。

 後日その写真が、実家に届いて、母が東京の僕のアパートに送ってきた。僕は陽光に当てられたのか、しかめっ面で、不機嫌そうな顔をして写真に写っていた。

 撮影会が終わると、プラケースのタイムカプセルが開封された。教師がその持ち主の名前を読みあげ、祝辞とともに品物を手渡した。

持ち主たちは品物をみて、恥ずかしがったり、素っ頓狂な声をあげたり、切なげな目をして黙って列を離れたりしていた。僕とヒロシも女性の教師に名前を呼ばれた。先生には小学生の頃、よく僕の作文を褒められたから、僕は久しぶりの再会を喜んだ。

 お久しぶりです、とヒロシがいった。

 先生はお元気そうですね、と僕はいった。

「そりゃあ、お元気よ。ちびっこたちには毎日てんてこ舞いだけれどね。」先生はまいったな、という風にいった。

 僕とヒロシは頷いた。

「オオモリ君は小説とか好きだったよね? いまでもよく読むの?」

 最近は忙しくてあまり読めていないです、と僕はいった。

「そう、みんな大人になって忙しそうにしているね。色々と大変だとは思うけど、頑張って」

 僕が先生の顔を見下ろすと、先生の顔には皺が目立った。かつてはなかった皺だ。それでも普段、仕事では僕たちよりもさらに若い、小学生を相手にしているからか、その皺は暖かみを感じさせるような、優しい皺だった。

 僕は先生からタイムカプセルの品物を受け取った。それは赤い表紙のノートだった。開いてみると、拙い字で当時の板書が写し取られていた。ただそれだけだった。僕はなんだか拍子抜けしたような気分になったが、心のなかに引っかかるものを感じた。当時小学生だった僕は、二十歳になった僕になにか、メッセージのようなものを残しているのではないか、などと考えたのだ。けれども、引っかかりの正体はそのときの僕にはわからなかった。


 僕は撮影会の開場を見渡した。ヒロシは他の友人のところで会話をしていた。

 僕はいくつかのグループを渡り歩いて、話をした。

 同級生たちは過去の思い出や現在の境遇を語り合っていた。友人たちはお互いを傷つけたりすることのないようにと、慎重に言葉を選んで話している様子だった。まるで社会の風に吹かれて、他人行儀と社交辞令が染みついてしまったようだ。

 同じ小学校を卒業した僕たちではあるが、現在の境遇はそれぞれ異なっているようだった。

 僕たちはかつて無償の友情を分かちあった仲だった。しかしいま目の前にいる彼らと話をしても、昔のような懐かしい、陽だまりみたいな感覚に陥ることはなかった。

「オオモリ君はさ、あのときのこと覚えてる? あのときは最高だったよ」顔と名前の一致しない、女子が話しかけてきた。女の子の名前というのは、案外忘れてしまうものだ。それに同調して周りの男たちが笑う。君たちは本当に彼女のいうことを覚えているのか? 

 例外的に、昔話に花が咲くと、みんなかつてのような笑顔をした。

結局のところ僕たちの関係というのは、過去にしかないみたいだった。そうしたことは僕の勝手な思い込みであればよかったのだが、それは紛れもない事実のようだった。そんなことを考えていたら、なんだか、やりきれない気持ちになってしまった。

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