三章:赤い花(3)
ベルカの口から飛び出した、「これを逃したら会えない」という言葉。言ってしまったという後悔の念が心を支配し、思わず眉間に皺が寄る。目の前で不審な目をしてこちらを見据え質問してくる青年の視線が痛い。
数秒の間をおいて。覚悟を決めた。ジェシーにすら言わなかった秘密を、話す機会は今しかないのだ。そして、話さなければ、外出を認められないのだ。そう、自身に言いきかせるしかなかった。
「コール……私には、娘がいるの」
※
六年前。ベルカが20歳の時、その娘は生まれた。父親は、いない。誰にも言えず、一人で抱えて生きてきた。捜査官ベルカ・ラグライアンの唯一の忌まわしき過去。それは、強姦。
捜査官になる為に必死で勉学に励んでいたベルカに、一人の男が声を掛けたのは、蒸し暑い夏の夜だった。その頃のベルカは今の様な男らしい髪型もしておらず、化粧もしていた。本当に女性らしい女性だったのだ。しかし、その美しい容姿が、彼女を地獄へと引きづり込もうとは。
強姦をした犯人は既に逮捕され、塀の中にいる。たった一回のその事件で、ベルカは心に深い傷を負い、身体に一つの命を宿した。妊娠が判明してから、両親にすぐに卸せと言われ、一度はそう決めた。だが、できなかった。
――この子に、罪はない。
そう、思ったから。
「……生んだんですね。犯人の子供でも、その子に罪はないから」
目の前に座り、顔の前で両手を絡めて小さく呟く青年の顔が。申し訳なさそうに歪んでいる。後悔しているのだ。聞いてしまったことを。
「良いの。こうやって話せる様になったんだと、改めて実感できた。それに、話せて良かった。今後、私は娘に会えなくなるから。覚悟ができたわ」
表情を見てそう言う。そうするしかない。じゃないと、この関係が壊れてしまうのではないかと恐怖があったから。
「会えなくなるって……どうして会えなくなるんですか? ベルカさんの娘さんは、今どこに。今まで、一切知らなかったうえに見た事もないですが」
「娘は、養子に出てるのよ」
「養子。って、どうして一緒に暮さないんですか」
「あの時、私には余裕がなかった。だから、養子に出したの。私といるより、その方があの子にとって幸せだから」
「……」
青年は言葉に詰まる。今まで気丈に振舞ってきた女性のまさかの過去を聞いて、瞬時に言葉がでるはずもない。それを見て、話しているとうの本人はというと。苦笑していた。何でもいいから表情を貼り付けていないと、崩れてしまいそうだったから。
娘の話しをするといつもそうだ。心が悲鳴をあげて崩れそうになる。それだけ、今のベルカにとって娘はかけがえのない愛おしい存在でありながら、大きな悲しみの種でもあった。
「でもどうして、会えなくなるんですか。今まで会えてたんですよね?」
「そろそろ他人にならないといけないの。今は、向こうが母親と父親だから。私は、あの子の人生にもう入れない」
頬が引き攣る。言葉が上手く紡げない。
「どうして。その子の母親は、ベルカさん、貴方一人なんですよ」
「知ったような事言わないで」
「あ……すみません」
また、重い沈黙。どちらか片方が身体を動かすたび、服の擦れる音だけが耳に入り。その静寂を引き立せる。そして、先にその空気に終止符を打ったのは。
「分かりました。明日、俺も同行します。それなら許可できますから、よろしいですか?」
コールだった。
朝が来た。コールの承諾が降りて、その後すぐにどちらからともなくベッドに潜ると、泥の様に深く眠り、軽くなった身体で早朝のひんやりとした風を受けて、頭を起こす。今日で最後、そう言いきかせる様に、自身の頬を両手で軽く叩いた。笑顔で去ろう。覚悟はできた。
隣に眠っている青年の肩を軽く摩って身体を揺り動してみた。すぐさま目が開き、だるそうに両手で開ききらない両目を覆って大きな欠伸をしている。ここに来てずっと、自身と青年は一つのベッドで眠っていた。もう、照れる事はほとんどない。相手の身体の温かさを感じて眠る事に慣れて、自堕落な姿を見せる事にも気を使わなくなった。少しの進歩だ、そう、心中で小さく呟いてみると。少しづつ、コールとの関係がジェシーと似てきていると気づく事になる。――また、仲良しごっこで。これ以上先の関係にはいけない。
「はぁ……馬鹿らしい」
思わず、喉から滑るように言葉が出た。
「え……どうしました?」
寝ぼけた顔でこちらを見据えている青年の顔が妙に幼く見える。
「なんでもない。ほら、寝坊してるから早く着替えて。約束の時間に間に合わないから、朝食は買うわよ」
ごまかして自身のペースに無理やり引きづり込む。一番楽だからだ
「寝坊って……まだ5時ですよ」
「約束の時間は6時なの。私の娘は早起きで、朝から一日中一緒にいたいからだって」
「早いですね……」
「そうよ。だから早く」
無理やり起こして服を着替えさせると、コールはいつもと同じようにスーツに着替えた。休みだというのに。理由を聞くと、区別する為だとあっさりと答えてみせた。自身は、優しさで許可しているのではない、これも一つの仕事として見ているのだ。そう、自分に言い聞かせる為なのだと。
思わず、笑ってしまった。これがジェシーなら、間違いなく私服で来ていただろうと思って。その時のコールの表情はとても幼稚で、困り果てた子供の様に引き攣っていたのを覚えている。とても、若かった。
過ぎていく街並みを眺めながら、ふと、此間のジェシーとの会話を思い出した。背中に感じる古めかしい助手席の皮の堅さと、伝わってくる振動。コールの車はとても小さく、四人乗りの軽自動車だ。音楽を掛けるわけでもなく、唯無言で運転をする彼の隣で、自身は右手に野菜のサンドイッチ、左手に紙パックのコーヒーを持って、静かに外を見据えている。頭の中で、ジェシーとの会話を思い出しては、サンドイッチを齧って気を紛らわせた。
結婚を嬉しそうに話していたジェシー。頭の中で、今でも笑っている。
「コール、食べる?」
「え。あ、はい」
隣で運転をしているコールの方に身体を軽く乗り出し、口元にサンドイッチを持っていく。コールは前方を気にしながら一口器用に齧ると、首でう頷いて笑みを浮かべた。今は、この青年が隣にいる。そう、内心ほっとした様に、思わず力が抜けるのを感じる。いない人物を思うのは、もう、沢山だ。
「ここですよね、ピリーズ通りって」
「そう。ここが娘が住んでいる場所」
ピリーズ通りは、有名な金持ち等が多く住む通りだ。治安もよく、子供を育てるのには最適な場所だと雑誌に掲載されるほど、綺麗に整えられた家々が建ち並ぶ。
そんな通りの一角に、娘の住む家はあった。養子に出して六年。娘は裕福な家庭の一人娘としてすくすくと育った。週に一度会う事が許される土曜日、少しづつ大きくなる娘が、愛おしい判明、辛く。自身を追い込んだ。その事は、誰にも言っていない。今も、言わない。
「あ、もしかして、あの子ですか?」
目的の場所を目指して歩いていると、突然コールがそう口にした。視線の先に目をやると、公園の入り口前に、薄いブロンドを肩まで伸ばし黄色い花柄のワンピース着て、白い靴を履いた少女が立っている。あれだ。背中に、まるで電気が走ったようになり、身体が強張る。これで会うのは最後。そう、改めて実感する。そして思わず、走り出していた。
抱きしめたい。唯その一心で、少女の元に駆け寄った。
「マリー!」
名前を叫ぶ。気づいた少女は満面の笑みを浮かべ、大きく両手を振る。そして。
「遅いよ!ベルカおばちゃん!」
コールは絶句した。マリーと呼ばれた少女は、母であるベルカを、母とは言わなかった。ベルカの感じる悲しみの大きさを今理解したのだ。自身が生んだ娘に、母と呼ばれない母親。その苦しみと悲しみを想像しただけで。自然と、拳を強く握りしめていた。