三章:赤い花(2)
※ そして三日が経ち。ベルカはコールの家に居続け、コールが持ち帰る書類に目を通している。
ここ最近の署に出入りしている人間、ジェシーと自身をよく知る人物の履歴、行動、全てをコールは仕事の合間に調べて持ち帰ってくるのだ。自分の仕事もあるだろうに
コールはよく働く。頭の回転が速いのもあるだろうが、それ以外に、コールはよく人に好かれている。元々、人当たりの良い性格である彼は、どの部署の人間とも面識があった。行動を調べるのも「捜査の練習なんです。内緒にしてください」と言えば簡単に情報が手に入る。
ベルカだったら、そうはいくまい。調べればすぐに知れ渡り、上司に文句を言われるのが関の山だ。つくづく情けない。
夜、青年は毎日11時に帰ってくる。鞄に沢山の書類を詰め、空いている手で白ワインを一本とチーズを持って。
意外だと良く言われると、本人は苦笑交じり話していた。何を隠そう、コールはかなりの酒豪である。どんなに飲んでも殆ど酔わない。それを彼は、若干疎ましく思っているらしく、偶にストローで酒を飲む。酔いがまわり易いと聞いたのだ。
辛い時や悲しい時に、酒を飲み、忘れたくても酔う事ができず。苦い思いをしてきたらしい。そして、コールは毎日酒を飲む。一本を飲まないと落ち着かないのか眠れないのだというが、実際は、軽いアルコール中毒だ。本人は、多少の酒は健康に良いと信じているようだが。
「ベルカさん。戻りました」
コールの声が、ダイニングに響いた。若干苦笑交じりの声色で。
「おかえり」
「あ、ただいまです。また、電気点けてないんですね」
コールがそう言った瞬間、白を基調とした部屋が一層明るくなった。ベルカは、普段から電気スタンドの明りを頼りに書類や書物を読んでいる為、電気を点ける事が殆どないのだ。何度か変だと笑われたが、気にしない性格の為に、直す事は無い。
そして、ベルカは眼鏡を掛けている。視力が悪い理由をこの明りのせいだとよく言われるが、眼鏡である事も、視力が低い事も気にしてない。もっぱら集中したい時やしている時にしか掛けないのだから。仕事にも支障はなく、書類も近くで見れば見える。
ベルカは眼鏡を外し、首の骨を鳴らして、両腕を高く上げて伸びをすると、コールの方に顔も見ず手を伸ばし、書類を渡すよう催促した。この三日間、全く同じ行動だ
差し伸べられた手に、コールは書類を載せなかった。その代わり、暫し躊躇した後、遠慮がちに少し近づいて、ベルカの手を取ると軽く握った。
「え……コール?」
突如感じる人の温もりに、当然の反応をしてコールに視線を向けると、まだ若い苦笑が帰ってきた。表情で分かる、青年は、またも気を利かせて、何かを伝えようとしていると。すぐに、理解できた。渋々腰を上げ、ダイニングテーブルに手を引かれて座ると、コールは満足げな笑みに表情を変えて、テーブルにチーズとワインを置いて、グラスを取りに向かった。
本当にこの青年は人の心をよく読む。
「コール……何で分かったの」
「何をですか?」
グラスを二つ持って戻ってくる相手にそう声を掛けると、大袈裟な反応で誤魔化す様な言葉が返ってきた。渋々椅子に座り、居心地の悪そうな顔をしてそれを見据える自身を、青年はどう思っているのだろう。考えようとして、止めた。馬鹿らしい。この歳になって一人の男も愛せぬ女が、男の心など読めるはずがないのだ。現に――ジェシーの心すら読めなかった。
七年共にいて、一切気づかなかったジェシーの気持ち。ピエロの手紙で全てを知る事になって、自身の心に一番痛手になった事だ。隠れて泣いていた事もあるかもしれない、自身の我儘に嫌とも言わずに一緒にいてくれた、最高の相棒。思えば、相棒と思い始めてからかもしれない。
ジェシーを、一人の男として見れなくなったのは。恋心は確かに抱いていた。だが、心のどこかでは一緒にいる事が当たり前になっていて、踏み出せないでいる自分がいた。そしてこの結果だ。失ってから気づくとよく言うが、まさか、ここまで本当だとは。思い出して、椅子に右膝を立てて、乱暴に髪を掻き上げ溜息を吐いた。もう忘れなくては、ジェシーへの気持ちは。今は、狂ったピエロに集中しなくてはならない。敵を討たねばならないのだ。
「ベルカさん。あまり、一人で悩まないでください」
その様子を見ていたコールが、心配そうに言いながらワイングラスに白ワインを注いでいる。ワインの仄かな甘い香りと、チーズ独特の香りが鼻孔に入ってきて、ふと、緊張が解れた様な気がした。久しぶりだ、こうして酒を飲むのは。
「私が悩んでる様に見える?」
一口ワインを口に含み、ゆっくりと喉に流し込んでから、おどける様に言ってみる。想像した通りの反応がくると考えて。
「見えますよ、その目の下の隈。眠れてないんじゃないですか?」
きた。
「コール。素直に聞くのは直した方がいいわよ」
「え?」
「取り調べの時に相手に呑まれるから」
コールの表情が困惑した様に凍りつく。それを見て不敵な笑みを浮かべると、またしても苦笑が帰ってきた。二口目を口に含んで飲み干し、軽く頷いて見せると、相手も頷いた。
「ごめん、話しの腰を折って」
「いえ」
「私は大丈夫だから。心配しないで」
「心配するなと言われると、逆に心配しますよ」
「……」
言葉に詰まった。いつもなら「じゃあ、心配して」と、ふざけて返す余裕があったのだが。今は、その余裕が無かったのだ。無言でワインを口に含み、暫く思考を巡らせて
「大丈夫。私は本当に大丈夫」
そう繰り返すしかなかった。
コールは、ベルカの言葉を聞いて、渋々納得した様にワインを一口飲んで、苦笑しながらも頷いた。これ以上言っても、変わらないと思ったのだろう。
一瞬、重い空気が流れた。肩が凝る。耐えきれなくなって先に口を開いたのは、ベルカだった。話題を変えなければ、息ができない。
「コール、私、明日ちょっと出てくるから」
「え、でも。一人歩きは危険ですよ。もしまたあんな事があったら。それに……外出は禁止されてますよ」
「コールが黙って入れば良い。それに、今度こそ自分の身は自分で守るから」
「でも、駄目です」
「良いから。ほっといて」
「駄目です」
「これを逃したら、もう会う機会なんてないのよ。だからほっといて!」
思わず、声を張ってしまった。
ベルカには、隠している事が一つある。ジェシーですら知らなかった、大きな秘密が。明日、土曜日だけ会う事が許される人物が、ベルカにはいる。この世で一番守らないいけない存在が。コールはベルカの大声に驚いて、目を見据えていた。そして、必然的に浮かぶ疑問を口に出す。
「会えないって、どういう事ですか」




