三章:赤い花(1)
「ベルカさん。大丈夫ですか」
純白のカバーに包まれた枕に顔を埋めながら、動こうともしないベルカに、コールは何時もと変わらない声色で声を掛けた。ここで意識した言葉を掛けるのは、かえって掘り返すと判断したのだ。
「……」
返事をしない。いや、言葉も出せない状況。喉が枯れ、掠れた息だけが抜けていく。
「ベルカさん」
コールは依然としてベルカの名前を呼び、そっと背中を摩る。起こそうとしているのがよく分かる。変わらないコールの優しさが、辛い。こんなにも人に迷惑を掛けている自身に、ベルカはどうしようもない苛立ちを覚えた。
いつも気丈に振る舞ってきた自身が、今では泣く事でしか自分を支えられない程崩れている。こんな悔しさがあるだろうか。大切な同僚を失い、年下の男に守られる。ベルカのプライドは、もうぼろぼろだった。
枕に顔を埋めていると、ゆっくり布団を剥がされた。コールの判断は何時も的確だ。
このまま寝かせておくよりは、動かした方が楽になる。その判断力に、救われた。
「ベルカさん。朝食を作りました。食べましょう」
「……コール」
「何ですか?」
「……起こさないでって言っても、私を起こす?」
「起こします」
その言葉に決心した。この青年は、必死に元気づけようとしている。その優しさに、甘えてみようと。
ベッドから起き上がり、不意に、自身の服装を見てみる。服が変わっている。明らかに大きな男物のTシャツにズボン。コールの物だ。服を着せた本人は寝室から出て、テーブルにトーストとハムエッグを並べている。鼻を利かせると、心地いいコーヒーの香りが漂ってきた。
依然として目の周りは腫れて隈になっているが、頭は冴えてきた。やはり起きて正解だ。色々考えずに済む。冷たいフローリングを踏みしめて脱衣所に行き、鏡を見ると、思わず自身の荒み加減に呆れてしまう。酷い窶れ様だ。これが私かと思いたくなる程、惨めな姿。勢いよく顔を洗い、洗いたてのタオルで拭くと、意外なほど清々しかった。どんな事があっても朝は必ず来る。そう実感させられ、鏡の周りを見てみると、いかにも男の家らしく、歯磨き道具と洗顔料しか置いていない。
軽く頬が緩むのを感じると、つくづく、自身が弱っている事を実感せづにいられない。何気ない平和な時間が、妙に心に滲みるのだ。
※【うーん……。どうやったら……あの人を僕の人形にできるかな。ねえ、ラドール。君はどう思う?】
「……貴方の思うままに」
暗がりの部屋で、鎖に繋がれた一人の少女が掠れた声で言葉を紡ぐ。服も着ておらず、剥き出しになった身体は異常に白く。まだ女としての膨らみを持たない胸が微かに上下し、縫い傷だらけの手足をまるでキリストの様な体制で板に張り付けられている。
ピエロが作った狂気の結晶。
ピエロは少女の言葉を聞いて、口元を三日月の様に吊りあげた。ピエロの狂気はこれから始まる。絶望の秒読みが開始されたのだ。新たな恐怖が、暗がりの部屋をゆっくりと出て、新たな獲者を求めて躍動する。ピエロの不気味な微笑が、静かに血に染まる。
「コール。あんた、私の服どこにやったの?」
脱衣所から出てきたベルカは、朝食を並べ終えて朝刊を読んでいる青年に声を掛け、態とらしくTシャツの裾を摘まんでみせた。途端に、青年の顔が真っ赤になる。
「あ、すみません! 別に下心は無いんです! 本当に!」
子供みたいだとベルカの脳裏に過る。そういえば、ジェシーも昔は、コールの様に真っ赤になっていた。懐かしい記憶が一瞬蘇り、消えていく。彼が生きていたなら、どれだけ笑えただろう。今では、虚しさしかない。
目の前で、顔を真っ赤にして必死で冷静を保とうとしている青年に目をやると、新聞の一面が目に入った。
またしても死体、この殺戮いつまで続く。何とも適当なタイトル。写真は――ジェシー・グレイハワード。
そして隣には、御馴染の記者の顔写真。苛々が募る。眉間に皺が寄るのを感じながら、いそいそとコールの向かい側の席に座り、コーヒーを一口啜った。眉間に皺を寄せている事にコールが気づくまでに4秒。
コールは慌てて朝刊を閉じて隣のゴミ箱に押し込んだ。心配そうな目をして見据えてくる青年に、ベルカはコーヒーを啜りながら、目をゆっくりと閉じて見せた。気にするなという合図だ。
嘗て、ベルカとジェシーが一つの大きな事件に関っていた時。目で合図する事が当たり前になり、日々の生活でよく使った。4年前の事だ。
その時の癖が、今でも残っている。無意識の内に眉間に皺が寄るのも、目を閉じるのも、全てジェシーとの日々でできた癖。引きずる事を嫌ってきた自身が、今では癖を一つでもする度に折れそうになる。
心の弱さが浮き彫りになり、耐えられない程の悔しさが込み上げてきた。口に出さなくとも、本当は辛い。素直にそう言えたら、どれだけ楽だろうか。
――私も女。
自身を蔑み笑い飛ばしてやりたくなるのを堪えながら、平静を装い、目の前の青年に心配させまいとする。目の前で心配そうにこちらを見据えている青年が、自身の心の内を理解するまでには時間が掛るだろう。それでも、理解される事を望んでいる。
今は、この平和な時間を共有し、心の綻びを癒したい。そう思う事は、自分勝手だろうか。
「コール、気にしなくて良いから」
ふわふわに焼かれたスクランブルエッグをトーストに乗せて齧り、足を組み変えながら何時もの声色で口にした。コールの焼いた卵は程良く塩コショウが効いており、良い味だった。
「……どうしてですかね」
「何が?」
また一口トーストを齧り。コーヒーを啜る。
「どうして、ピエロはジェシーさんを……殺したんでしょうか。ベルカさんがジェシーさんを大切だと思ってるとは知らない筈なのに」
「……」
――確かにそうだ。
どうして、ジェシーは殺された。ベルカの事をよく知る人間でなければ、ジェシーに想いを寄せている事を知る筈がない。
ベルカはコ―ヒーを置いて眉間に皺を寄せながら暫く思考を巡らせる。真っ先に浮かんだのは、署の中で、自身をよく知る者の犯行。考えればその線が一番怪しい。
ジェシーの婚約者を殺すのにも、署に居れば誰もが知っている。あれだけ幸せそうに話していたのだから。そして、手紙も荷物も、簡単に入れられる。
急速にベルカの思考が巡る。しかし――今は停職処分中。
捜査する事ができない。
どうする。困り果てて、コールを見ると、全てを理解した様な顔で青年は目に闘志をひめていた。余程表情に出ていたのだろう。
コールは、ベルカの目を見据え、深く頷く。
「俺に任せてください。ベルカさんの代わりに、俺が調べます」