一章:血抜きの魔(2)
朝。いつもの様に朝刊に目を通し、片手に持ったブラックコーヒーを啜ると、女性捜査官ベルカは深く溜息をついた。
また、載っている。血塗れの小児遺体と、まくしたてる記者達の文字。どこから入手するのか分からない程鮮明で生々しい写真に、市民達は興奮し恐怖を感じる。そして、忘れる。今この街で何が起きているのかも考えずに一日を凄し、また明日がくる。――その繰り返し。
「はぁ……一体どこから手に入れてんのよ。こんな遺体をまくしたてて、何が楽しいの。人間のくず共が」
記者達に対する敵意を、言葉に出して並べてみる。が、新聞に載っている記者の顔は、憎たらしい程の満面の笑みだ。更に苛々するだけで何の解決にもならない。
ベルカはぼさぼさの茶髪を掻き上げ、眉間に皺を寄せながらコーヒーを啜る。早朝五時、外は薄暗く、空気はまだ澄んでいる。開け放っている窓から若干肌寒い風が吹き込んでくるが、気にしない。季節は、秋だ、もうすぐ冬がくる。外の温度を考えて、黒のコートを出した。職場に着ていくことが若干嫌なのだが、仕方がない。仕事が捜査なだけに、薄着で秋の都会を歩く事はできないのだ。特に今は。
裏路地や、スラムを巡回する事の方が多い。薄着で歩く事、肌の露出は避けなければ、痛い目をみる。現に、此間同行させた新米捜査官は肌の露出があった為にホームレスに声を掛けられ、痴漢をされた。そして、すぐにこの捜査を降り、今は別の捜査にあたっている。まぁ、その捜査官の様に女らしい顔立ちと、格好をしている訳でもないベルカは、おそらくそんな事はないだろう。普段から、男と間違えられる程の男顔なのだから。
最後の一口となったコーヒーを飲み干し、黒のジーンズを履き、黒のコートを羽織り、黒のブーツを履いて、古めかしい築70年のアパートを後にする。道端には沢山の落ち葉が舞い、踏みしめる度に脆い音が響いた。秋の風に乗って人々の匂いが微かに鼻孔に入ってくるのを感じながら、空を見上げて歩いた。曇っている。今日は、雪だろう。
捜査が難しそうだ、と思いながら、コートのポケットに両手を突っ込み、肩を縮めて職場を目指す。誰もいない道端は、予想以上に、静かだった。
――廊下にブーツの低いヒールがテンポの良い音を響かせる。
「ベルカ! 有力な情報だ!」
「おはよう。ジェシー」
「え、ああ、おはよう。って、挨拶は後だ! 昨日の殺人現場の近くで、またあのピエロが目撃されてたぞ!」
部署に入るなり、同僚であり同じ捜査官のジェシーが叫びながら駆け寄ってきた。ベルカはそれを尻目に「あ、コール。コ―ヒーちょうだい、いつもの濃いブラック」と丁度コーヒーを入れていた部署に手伝いで来ている新米刑事の青年に頼んで、そそくさと自分のデスクに向かった。そして、席に座り、置いてある書類に目を通す。
書いてあるのは、現在捜査中の殺人ピエロの事だ。今朝、朝刊に載っていた小児遺体も、この殺人ピエロがやったとされている。これで殺人ピエロの猟奇的殺人は15件目。殺人ピエロが狙うのは幼い少年少女ばかり。沢山の刑事、捜査官が頭を抱えるこの殺人鬼に、ベルカもまた頭を悩ませていた。眉間に皺を寄せて考えていると不意に、肩を強い力で掴まれた。
「ベルカ! 俺の話しを聞けよ!」
ジェシーだ。余程さっき無視した事が効いたのか、若干怒っている。普段あまり怒らない暢気な性格のジェシーが眉毛を吊り上げているのを見たのは、いつ振りだったか。
「ああ、はいはい。また目撃情報でしょ、どうせデマよ」
「そんなの調べてみなきゃ分かんないだろ」
「分かるわよ。どうせまた、話しを聞かせる代わりに金をよこせって言うに決まってる」
「……」
黙り込んでしまった。まぁ、当然だろう、いつもの事だ。ジェシーが持ってくる情報は大抵の事が嘘。その度に金をよこせと言われて、損をする。これが、この事件の捜査がまったく進まない大きな理由だ。
新聞や雑誌で殺人ピエロの事が載せられる度、金目当てで嘘の情報を流す市民が増えた。嘘の情報を流す者が増えた事で、一番信憑性のある情報が埋もれて捜査が進まない。とんでもない悪循環だ。
重苦しい沈黙が暫く流れた。
空気が思い。
「あの……」
重苦しい空気を打破したのは、コールだった。右手にコーヒーの入ったマグカップを持ち、心配そうな表情のままこちらを見据えて、恐る恐る声を掛けたのだ。
「ありがとう。其処においてくれる」
「はい」
「はぁ……ごめん。みっともないでしょ、こんな事」
「いえ……」
マグカップを置き、よそよそしく離れるコールに、短い謝罪をベルカは述べた。仕方がないのだ。ジェシーもベルカも、姿の見えない殺人鬼に苛々し、当てもない捜査に嫌気がさしてきている。そのせいで、普段暢気なジェシーですら苛立ちを隠せず、口論になってしまう。
ベルカは眉間に皺を寄せ、目を通していた書類を机に投げた。そして、「はぁ……もう。いつになったら分かるのよ、いかれ野郎の正体は」と、両手で髪を掻き上げ、心からの叫びを、口にした。そして、近くに置いておいたコートを鷲掴みにすると、勢いよく立ち上がり
「行くわよ、ジェシー」
驚いた顔をするジェシーの目が視界に入る。
「行くって、何処に?」
「捜査よ。ここでぐだぐだしてても何も変わらない」
「目撃情報を捜すのか?」
「そうよ」
コーヒーを一口啜り、急ぎ足でその場を後にしようとする、コールと目が合った。一瞬、奇妙な心境になったが、気にせずに歩みを進め、部署を出る。ジェシーもその後を追い、外に出るや、止めておいた車へと乗り込んだ。その表情は、笑みだった。