五章:平和な時間、破滅の、時間(1)
酷く冷え込む何時かの夕方、学校を終えて真っ直ぐ帰路についていたリックは、帰りがけの道筋で不思議な者と遭遇した。それはとてもコミカルで、誰しもの目を惹き付けずにはいられない風貌。赤い鼻に、白塗りの肌、吊り上がった偽物の笑顔、そして――血に汚れた手に、血塗れの衣装。
「手には、大きな斧を持っていました。僕……どうしたら良いのか分からなくて、とにかく叫んで逃げたんだ。そしたら……」
血塗れのピエロは、何とも楽しそうな笑い声を上げて追いかけてきたという。言い表せない程の恐怖で、全身を鳥肌にし、溢れる涙を止めないまま、とにかく走った。後方から聞こえる足音が近くなる度に心臓が握り潰されそうになり。死を、覚悟した。
悲運な事に、少年が住んでいた場所は郊外にあり、人通りが少ない事で有名な地区だった。だから、リックがどんなに叫び、泣いても、救いの手を差し伸べてくれる者はいなかったというわけだ。辺りは閑静な住宅街とは程遠い、殺伐とした河川敷の細い道。舗装もされておらず、砂利だらけの道は足を掴み走る速度を遅くさせる。声を枯らし、目を腫らして、どんなに躓いても必死で走った。目の前は真っ白だ。眩く輝く夕日が全てを赤く染める中、自身の頭と目の前は真っ白で。そして、斜めになっている場所でバランスを崩し足を挫いたあげく、そのままのスピードで転がり落ち、ちょうど下にあった茂みの中に埋もれたという。丁度その時、後方にいたはずのピエロは息を上げて立ち止まっていた為、少年が消えた事には気付かずに、何とか難を逃れた。
「僕……茂みから見てたんです。少ししたら、ピエロが僕を探してキョロキョロしながら上の道を歩いて行った。怖くて怖くて、僕は忘れたいんだ。でも、夜眠るとあいつの顔が出てきて、また僕を追いかけるんだ。甲高い笑い声を上げて、斧を振り上げて」
――リックは泣きながら語っていた。しかし、悲劇は、まだ続きがある
ピエロが姿を消し、茂みから這い出た時だ。自身の足が、転がり落ちた時に擦り剥いて、大量の血が流れている事に気付いた。激痛にも。黒のズボンが破れ剥き出しになった足から血を流し、泥だらけになったコート、走って汗だくになったシャツ。帰ったら、両親に全て話そう、そして優しく抱いてもらうのだ。この恐怖を話し、警察を呼んで、守ってもらうのだ。少年は、不安を打ち消そうと必死だった。
痛む足を引きずり、庇いながら、何とか家に辿り着いた時には、太陽は完全に沈み、辺りはぽつぽつと並ぶ街灯によって微かに明るいだけだった。こんな時間に帰るのは初めてだ。不思議と、空腹を感じない、普段なら、帰宅するとすぐさまおやつを頬張る程空腹を感じているはずなのに、その時だけは、余りの恐怖で全てを忘れていた。
リックの家は、赤い煉瓦でできた古風な家で、外観は昔懐かしい匂いを醸し出している。元々は空き家だったのを、両親が無毛出しの金で購入した。家族は三人暮らしで、裕福とは言えないが何不自由なく生活を送っていたと、悲しそうな眼差しで空を見つめていた。
悲劇は、ここからだ。
庭の扉を開け、太陽で焼けた焦げ茶色の厚いドアを開けると、家の中は、真っ暗だった。窓を見た時から不審に思ったのだが、早く家族に会いたくて、気にも止めなかった。しかし、玄関を開けると話は別だ。家中真っ暗で、物音一つしない。そして、異様な臭いが、鼻を突いた。思わず、顔を歪めてしまう程の、悪臭――血の、臭いだ。
「リック! もういい!」
ベルカが、強引にリックの頭を抱える様にして抱きしめた。
「もう……話さなくて良いから」
リックは、まるで箍が外れた様に泣き崩れた、ずっと我慢していたのだ。細い腕をベルカの身体に廻して、弱い力でしがみ付く。
「大丈夫だから。もう、大丈夫だから」
少年を抱きすくめながら、ベルカは思い出した――この事件を、知っている。
※
冷えきった外気をより冷たくする様な深い闇の夜。赤煉瓦の古めかしい家で、惨殺された遺体が発見された。第一発見者は、一二歳の少年。通報者は、隣に住んでいた老夫婦。捜査許可が下りない間、コールが持ち帰ってきていた書類の中に、その事件は事細かに書かれていたはずだ。そんなに古い事件ではない。殺害されたのは共に三十二歳の夫婦。凶器は、外傷の形状と少年の目撃情報から、斧と断定された。遺体状況は――思い出すだけでも吐き気がする。リックに続きを喋らせなかったのも、これが理由だ。
遺体は、両者とも首を斧で断ち切られ、妻は右腕と左足を太股の根元から落とされていた。夫は左腕と右足、これも同じく太股の根元から落とされている。二人とも全裸にされ、下腹部から股間までを裂かれ、内臓を意図的に抉り出されていた。背中には、滅茶苦茶な数字。妻は78、夫は79.何の数字なのかと調べると、これは犯人が殺害した人数である事が判明している。言うなれば、ピエロは七十九人もの人間、殺しているのだ。頭に、血が上って来た。思わず、眉間に皴が寄るのを感じる。ベルカには、ピエロに対してより一層怒りを覚える事がある。それは、少年が遺体を発見した時の状況だ。
玄関の明かりを点け、悪臭に耐えながら、リビングに向かったリック。さぞ、怖かった事だろう。いまだかつて嗅いだ事のない強烈な血の臭い。静寂に包まれ、温かさを失い、壊された我が家を、一人で進むのは、大人の自身でも身が凍る。リックは、その恐怖を体験したのだ。そしてこう証言している。両親を探して、暗がりのリビングに入り、明かりを点けようと壁づかいに歩いていると、固いとも柔らかいとも、重いとも軽いともつかない物を踏み転んだと。蹴ってしまい、転がっていくのを感じて、その先を見ると、転がっていた物は――窓から差し込んだ月光によって照らし出された、父親の生首だった。
それが、苦しみぬいたあげくに殺されたのだろう。目を見開いてこちらを見ていたのだとう。ベルカは確信した。ピエロが意図的に、発見した者が転ぶように、スイッチの足元に首を置いたのだと。ピエロとは、そういう犯人だ。完全に狂った、人の心を弄ぶ最低の人間。自身の大切な者を奪おうとする、敵だ。
不意に、一つの疑問が浮かんだ。何故、リックは自身に話したのだ?普通なら、こんな過去は話したくないはずだ。――聞いても、良いのだろうか。
「ねぇ、リック。どうして、私に話したの?」
意を決して、聞いた。少年は依然として、自身の胸で泣いている。しかし、ベルカの問いを聞いた瞬間、少年は顔を上げて、涙で潤ませた眼差しでベルカの目を見据え言った。
「貴方は……警察の人なんでしょ? 僕、見たんだ、警察の人が入院している病室に、貴方が入って行くのを。だから……助けてほしいんです。僕は今……あのピエロに狙われているから」