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四章:天使の頬笑み(3)

 どれだけ待ち侘びただろうか。自身を守ろうと奮闘し愛情を注いでくれる男と、自身が産んだ娘。この二日間、心を握り潰されそうな不安と懸命に闘った。碌に物も食べられず、飲めず、ここ数日でベルカの身体は少し痩せ、元から細い体は更に細くなっている。決して健康的とは言えない痩せ方だ。そして、精神的な負担は思わぬ産物を生む事になる。


「あ、ベルカさん……」

 駆け込んできたベルカの顔を見るなり、青年の顔は青ざめ、絞り出す様に声を発した。その隣では、薬を投与され、すやすやとマリーが眠っている。重苦しい時間が流れていく。「痩せましたねベルカさん。ちゃんと食べてました?」なんとか、空気を打破しようといつもの調子でコールは言葉を続けた。が、不意に気付く。目の前に立っている女の目は、怒りと悲しみで死んでいると。現に、ベルカは病室に入りコール達の顔を見た瞬間からその場を動かず、立ちつくしたまま声も発していないのだ。青年は、不安に駆られてぎこちない笑みを浮かべた。手持無沙汰で、自身の腹部の上で両手を絡ませ固定し、少し力を入れる。

「あの、ベルカさん? 大丈夫ですか?」

 ぎこちない言葉。

「ごめんなさい、心配かけて。でも、もう大丈夫ですから。マリーちゃんも、別状無いって先生が……」

 そう、言葉を紡いでいる最中だった。ベルカの右手が、コールの頬を勢いよく叩いたのは。

「……馬鹿。……馬鹿。……馬鹿! コールの馬鹿!」

 驚愕した視線が、ベルカに突き刺さる。

「なんで笑ってるのよ! なんで、私の心配をするのよ! あんた殺されかけたのよ? なんで……勝手に決めて、守ろうとするのよ!」

 涙が溢れた。身体が震え、まるで幼い子供が泣き叫ぶような状態だった。

 限界だったのだ。身を切られる様な恐怖、不安に頭を支配され、身動きがとれず、必死で身体の震えを抑えて泣き叫ぶのは、想像以上に体力を使う。目の前で自身に驚愕の視線を向けている青年は、その言いよう無き身体と心の痛みを知らないのだ。そう、悲観する事しかできなかった。だからこそ、更に軋み――崩れそうになる。

何故、私の心が理解できない。これ程までに苦しんでいるのに。どうして、自身の目の前から皆消えようとする。歯止めが利かない。

「なんで! 皆……私の前から消えようとするのよ……」

 膝の力が抜け、女は病室の冷たいタイルの床にへたり込んだ。恐ろしい程に冷たく固い床の感触に、自身の身体が敏感に反応しなくなっている事を実感し、更に崩れそうになる。項垂れて、歯を食い縛り、右腕の手首を手の痕が付くくらいまで握りしめ、身体の震えを、涙を、抑えようとした。頭の中はもう真っ白だ。

 青年は、まるで地獄に鎖で繋がれている様な気がした。自身が愛した女が、目の前で泣いている。今すぐ、力強く抱きすくめ「自分は死なない」と耳元で囁きたいのに、自身の腕は、点滴のバックが二つ程ぶら下がった質素な細い棒によって固定され、身体にはコードの生えた白いシールの様な物が貼られている。拷問の様だった。いっその事、全て外してしまおうかと思ったが、そう、考えている間に。


「ごめん……少し、風にあたってくる」


 ベルカは立ち上がると足早に病室を出ていってしまった。引き止める間は、一秒も無かった。自身がベッドに縛り付けられてさえいなければ、と後悔するばかりで、いっそ解決できていない。探しに行く事もできない。コールは、深く頭を項垂れて、小さく、笑った。

 静寂に包まれた病室――すやすやと眠る幼い寝息。そして、崩れる男の吐息。


 病院の廊下はなんも殺伐としている。全てが白く、消毒された強い臭い、そして、人の苦痛の臭い。鼻がもげそうで、足が重くて、逃げ出したくて――痛くて。

行き交う人の顔が、皆薄ら笑みを浮かべて見え、かけられる言葉は耳に入らない。背中に伝わる悪寒、痛み、全てが自身を追い詰める。早く外へ、外へ出なくては。恐ろしい程の脅迫観念が、ベルカの心を支配していた。足早に廊下を進み、屋上へと続く階段を駆け上がる。そして、屋上の扉にさしかかろうかという処で、不意に。

「うわぁぁ!」

 一人の少年が足を踏み違え、悲鳴を上げて階段を転がり落ちた。

「え!」

 まるで小石が坂道を転がる様にいとも容易く身体を打ちつけながら自身の足元に落ちてくる少年を、ベルカは声を上げると同時に全身の筋肉を使って受け止めた。自身が一緒に落ちるかもしれないという恐怖は微塵もない。と言えば嘘になる。しかし、無意識の内に身体が動いていた。下まで転がり落ちたら、間違いなく大怪我をする。それなら、自身が下敷きになって少年を庇えば良い。ベルカは、母親であり、一人の女。もっとも命を重く見なくてはいけない存在。不思議と、背中に感じていた悪寒は消えていた。只、助けなくてはという思いだけが、そこにあった。

 転がり落ちた少年は名前を、リック・ペディグリーと言った、歳は一二歳。さぞ両親が美男美女なのだろう、端正な顔立ちをした栗色の髪が似合う少年だ。しかし、異様な程身体が痩せているのが気になった。いたる処が筋張り、受け止めたベルカが女の腕で軽いと感じた程だ。幸い外傷は打撲だけで済み、大きな傷といえば背中の大きな痣だけだったが。ベルカはというと、やはり女の腕だけあって、受け止めた衝撃で体制を崩し、右腕を階段の角に打ち付けて、酷い打ち身をしてしまった。不気味な程に青黒く、鈍い痛み、暫くはまともに動きそうにない。処置室で二人並んで手当を受け、ベルカが腕に包帯を巻かれている時、心配そうにそれを眺めている少年の悲しげな眼差しが、今でも鮮明に思い出される。罪悪感と悲壮感が入り混じった眼差し。なんとも、重苦しい眼差しだ。


「大丈夫。これくらい、すぐに治るわ」

「あ……はい」

「背中は大丈夫なの?」

「僕は、大丈夫です。ごめんなさい……足を滑らせちゃって」

 少年の言葉は、暗く沈んでいた。

「良いのよ。君、どこか悪いの?」

「え、あ……」

 ベルカの何気ない問いに、あからさまな動きで、少年は視線を逸らし、口を固く噤んだ。それを見た瞬間、全てを悟った様に思える。聞かれたくないという顔だ。自身もよくする、伐の悪い顔。途端に、焦りが生まれた。なんと空気が読めないのか。ここは病院、病院にいるという時点で、少年が患者なのか見舞いに来ているのかの二択しかないというのに。余計な追及をするものではない。

「言いたくなければ言わなくて良いから。考えさせて、ごめんなさいね」

「いえ……気にしないでください」

「……」――沈黙

 二人に纏わりつく様に思い空気が流れ、良居心地の悪い事この上ない。その空気に耐えかねて、ベルカがコーヒーでも取りに行こうかと席を立とうとした――その時だ。

「僕は……両親を殺されて、栄養失調でこの病院に連れてこられたんです」と、少年リック・ペディグリーは固く噤んだ口を開き、自身に起こった悲劇を、苦しそうに語り始めたのだった。


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