四章:天使の頬笑み(1)
暗闇の中、外の街灯だけが差し込む室内に聞こえるのは、ピエロの生温かい声と怯える少女の早い息遣いだけだった。ピエロの背後には、血に染まった白い大きな壁と、そこに貼り付けにされ少女とピエロを見据えている両親の死体。部屋中に濃い血の臭いが充満している。完全に狂った、地獄絵図の様な光景が広がっていた。
※ 夜の10時。その狂気はマリーの家にやってきた。大きな花束と、太い紐を二本持って。
時間が時間なだけに、治安が良いとされている通りに通行人の姿は無い。誰にも見られず、知られず、ピエロは閑静な住宅街に建つ一番大きな家のドアを、それは楽しそうな笑みを顔に貼り付けて、叩いた。見られていても、ここなら通報されない確信がある。何故なら、ここは金持ちの集まる住宅街。ピエロを家に招き、驚かせるイベントは日常茶飯事だからだ。これから始まる、ピエロの喜劇の幕が開く。もう、戻れない。進めば進むほど、後にあるのは、残酷な死のみ。今回の被害者はマリーの両親。ゆっくりとドアが開く。残忍な喜劇が、始まった。
「はい。どちら様ですか?」
初めに顔を出したのは、マリーの母親ローラだった。治安が良いと安心してすぐに鍵を開ける癖があるのを、ピエロは知っていた。この数日、ずっと監視していたのだ。両親の動きを、そして、悪事を働くその時をずっと待っていたのだ。そして今日、マリーの母親ローラと、父親ルイスは、悪事を働いた。
本当の母親であるベルカに、深い心の傷を付けた。それが二人が働いた悪事。ピエロは全てを見ていた。そして、裁きが下る。――今日、殺してやろう。
外の空気はいつも以上に冷たい。もうすぐ、雪が降るだろう。
「こんばんは奥様、旦那さんに呼ばれて参りました」
満面な笑みを浮かべ、嘘を並べる。想像通り、母親は疑いもせず、想像通りの反応をして、ピエロを家に入れた。「外は寒いから、中にどうぞ。今、主人を呼んできます」と、楽しそうに小走りで奥のリビングに向かって行った。
外から見た通り、中も広い。白を基調にした内装、磨かれた床。鼻につく強い花の香りは、置かれている花瓶に挿された薔薇の物。ピエロは動く。足音も立てず、静かに、リビングへと進んだ。驚愕している夫のルイスと、それを演技だと思っている妻ローラの会話が聞こえてきた。
「こんばんは、旦那さん……」
ローラの背後に立ち、不気味に囁く。驚愕した夫婦の顔が向けられ。そして、言う
「俺はピエロなんて呼んでないぞ」
と。当然の言葉を。その言葉を聞いて、ピエロは三日月型に吊り上げた口元を、更に吊り上げ、言葉を紡ぐ。
「僕も呼ばれてはいません。勝手に来たのです……貴方達の命を、貰いにね」
夫婦ははっとした。だが、もう遅い。
ピエロは持ってきた花束の中から、小型の斧と、刃渡り15㎝のナイフを取り出し、妻が悲鳴を上げるよりも早く。首の付け根、右腕の間に斧を振り下ろした。文字通り、大量の鮮血が飛沫を上げて飛び散り。妻は、足元から勢いよく崩れ、言葉を出せずに、唯口を魚の様にぱくぱくと動かしている。返り血を浴び、赤い斑点の様になっているピエロは、その光景を見て、さも楽しげに、笑っていた。
次に、それを見ていた夫に視線を向け。「さぁ……次は貴方だ」と、狂気を露わにした瞳で見据え、わざとらしく、ナイフを一度見てからゆっくりと歩み寄る。やはり、当然の行動を、相手はした。逃げる、いや、後ずさる。あまりの恐怖に言葉を出す事を忘れ、冷や汗を流しながら、必死に威嚇をして。そして、泣きだす。
「止めてくれ! 俺が何をしたって言うんだ!」
「……自覚がないのか」
「自覚!? 何の事だ!」
「……アンタは本当の大馬鹿だ……気づかないなら、そのまま地獄に行けよ……」
刃渡り15㎝のナイフを持ち直し、相手に襲いかかる。避けられず、脇腹に深く食い込む刃が、脂肪、筋肉を斬り裂き、内臓に到達すると、縦に斬り込まれ、赤黒い血と共に肉片が付いてきた。鮫の牙の様な形状になっているナイフは肉までも剥ぎ取り、抜く際にも大きなを傷を与えるのだ。呻き声を上げて崩れ落ちる夫。朦朧とする意識の中、視線の先に。
驚愕し、青ざめた顔をした娘の姿が、映った。