三章:赤い花(5)
コールの家に戻る車内。鼻を啜る音と、小さく零れる嗚咽だけが聞こえていた。悲鳴を上げる軽自動車のオンボロエンジンが、なんとも悲しげに聞こえる。
冬化粧をした街並みはまるで自身を置き去りにしていく様に流れて行き。いつもの廃れた街並みが現れる。一時間、会話は無かった。隣で運転をしているコールの表情は硬く、言葉もみつからない様子で、しっかりとハンドルを握り運転するだけだ。一日がこれで終わったのだと思うと、心が握り潰されそうになる。これでマリーとの関係は終わり、もう一生会う事は無い。大事な日の最後にしょうもない嘘をつき、そして逃げる自分が、なんとも憎らしく、そして悲しい。そんな事を考えていると、コールの家が見えてきた。古めかしい佇まいは自身の家と似ていてどこか落ち着く。
今日はもう寝よう。昼の1時、薬を飲んで眠れば夜まで目は覚めない。早く、一日を終わらせて明日を迎えたかった。
「コール、私少し寝るから」
「ああ……はい」
言える言葉はない。唯、従うしかない。コールの心中は、揺れていた。
「夜になっても起きなかったら、そのまま起こさないで」
「……分かりました」
相手の言葉を確かめて薬を口に含む。小さな錠剤の粒はすんなりと喉を通り、ベッドに入るとゆっくりと眠りに落ちていく。ゆっくり眠ろう。唯それだけを、考えた。
――ベルカさん。俺は、少しでも貴方の役に立てていますか。
眠りに落ちていくベルカを見据えながら、青年は小さく呟いた。そして、一人家を出て行った。テンポの良い皮靴の踵の音が響き、またオンボロのエンジンが悲鳴を上げる。
微かに残るベルカの薄い香水の香りが、自身を包み込むのを感じ。煙草を一本。前方のダッシュボードから取り出して火をつけた。ベルカの前では決して吸わない。目を盗んでは吸う煙草は、タールが多く含まれる銘柄の物だ。酒に煙草、自身は早死にするだろう。そう分かっていても吸う。中毒者の、証しだ。
「さて……行こうか」
コールは車を発車させ、窓を開ける。進んでいる道は、さっき戻ってきた道。ピリーズ通りに向かう道だ。
この行動から、少しづつ。コールとベルカの間に亀裂が入り始める。後々分かるコールの単独行動の意味が、二人に、深い溝を作るのだ。
思った通り、薬の効果は絶大だった。深い眠りは夢を見ないというのは本当の事で、ベルカは夢を見る事なくその深い眠りに浸り、時間だけが過ぎていく。だが、その深い眠りは、突如として鳴りだした携帯電話の着信音によって、中断された。
手探りに携帯を探し、乱暴に掴むと虚ろな目で画面を見据えると。着信は、コールからだった。同時に時計を確認すると深夜11時を指している。
――こんな時間に電話。どこに行ってる?
脳裏に当然の様な疑問が浮かぶ。こんな時間に、何処にいるのだ。そう思いながら、睡眠を妨げられた事への文句を言ってやろうと、電話に出た。
「コール、あんた今何処にいるの? 起こさないでって言ったでしょ」
「……」
「ちょっと、コール。聞いてるの」
「……」
「コール?」
返答が無い。電話の向こうは、息遣いすら聞こえない程の静寂に包まれている。いや、微かに、小さな、怯えた息遣いが聞こえた。早く、途切れ途切れに聞こえる息遣い。まさか。
「コール! どうしたの! 返事しなさい!」
思わず嫌な予感がして叫んだ。何かあったのでは。事故、または事件。そんな言葉が頭を過る。だが、ベルカの叫び声に返事をしたのは。
【ひゃははははは!】
不気味な甲高い笑い声。
【馬鹿だな……画面に出る人の名前だけ信じちゃ駄目だよ】
馬鹿にする様な声色。
【こんばんは……ベルカさん。もう、分かるよね? 僕だよ】
間違えようがない。人を馬鹿にし、心を踏みにじる言葉を並べたて、大切な人を手にかけた。今自信がもっとも憎いと思い、同じく手にかけてやりたいと思う人物。殺人鬼、気狂いピエロだ。今回は偽物ではない。声色で確信する。人を馬鹿にしながら、その裏では人の心を観察し、的確に破壊してくる言葉。偽物とは違う、知性を感じた。
怒りが込み上げる。それと同時に恐怖も、込み上げてくるのを感じる。支配されては駄目だ。この狂った相手に、呑まれては駄目だ。額に、脂汗が滲む。
【どうしたの? 黙っちゃって。あ、そうか、僕が恐いんだ】
「黙れ」
【僕が憎いんだ】
「黙れ」
【僕を……殺したい?】
「黙れ!」
駄目だ。完全に、相手のペースに乗せられている。このままでは。そう、思った矢先。
「ベルカ!……」
電話の向こう、ピエロの背後から。小さな少女の叫び声が聞こえた。その声には聞き覚えがある。自身が生み、そして離れ離れになった娘。マリーの声だ。背中に、悪寒が走る。より一層、恐怖が大きくなる。マリーが、殺されてしまう。
【聞こえた? 君の大事な人の声】
「マリー……マリー!」
ピエロが楽しそうに、【さぁて……どうしようかな?】と撫でるように言葉を紡いだ。時間がない。涙が、恐怖で溢れた。頬を伝い、喉を流れる。娘が殺される。無残な姿にされる。そう思うと、口が勝手に叫んでいた。
「止めて! マリーに手を出さないで!」
心からの叫びだ。しかし、ピエロが、聞くはずもなく。短く不気味に笑うと、電話は、切れた。
時が止まる。音の無い携帯が手から滑り落ち、ベッドの下へと転がった。身体を支配す失望感。喪失感。声にならない恐怖、悲しみ。頬を伝い落ちる涙。
保てなくなって。へたり込みながらベッドを殴った。何度も何度も。
「マリー……マリー……マリー!……」
声を張り上げ叫ぶ。しかし、それに応える者は、誰もいない。