第7話 僕の太陽
梅雨の合間に顔を出した日差しが音楽室に降り注ぎ、床に淡い光の模様を描いていた。窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、弦楽器の音色と絡み合って、静かな調和を作り出している。誠はチェロの弓を止めた。目線の先には窓際でバイオリンを弾く沙良――「澤村」の姿がある。
彼女はいつも通り、真剣な表情で弦を奏でていた。その動きには迷いがなく、音楽そのものと一体化しているかのようだ。柔らかい陽光を受けたその横顔に、ふと目が吸い寄せられる。沙良は明るく誰にでも優しくて、誰もが認める高嶺の花だ。それだけじゃない。小柄で華奢な体つき、可愛らしい笑顔――そして(おっぱい……は小さいけど、そこがまたいいんだよな……)心の中でつぶやいて、誠は慌てて頭を振った。何を考えているんだ、と自分を叱る。それでも視界の片隅に残った彼女のシルエットが、頭の中でくっきりと像を結ぶ。最近、自分が彼女に抱いているこの感覚が何なのか、嫌でも理解し始めていた。
――好きなのかもしれない。
その言葉が心に浮かぶたび、誠は無意識に彼女との距離を測ってしまう。彼女は特別な存在で、自分なんかが近づいていい相手じゃない――その事実が頭に重くのしかかる。だけど……。
入部してから一ヶ月半ほど経った。最初は気乗りしなかった部活動も、不思議と楽しいと思えるようになっていた。音楽室で楽器を弾く時間は心地よく、それ以上に部員たちとの交流も悪くなかった。狩野や他の上級生たちも親しみやすく、新入生同士の沙良や彩香とも自然と仲良くなっていた。
沙良とは部活動中、一緒に練習する機会も多かった。その明るい性格と気さくな態度のおかげで、いつの間にか言葉を交わすことにも慣れていた。ただ、それ以上踏み込む勇気はまだ持てずにいた。
一方で彩香とは部活以外でも顔を合わせる機会が多かった。クラスが近いこともあり、廊下ですれ違うたびに挨拶するようになり、それが次第に立ち話へと変わっていった。
ある日、彩香と廊下ですれ違った時、思わず声をかけた。
「藤井さん、大丈夫?」
その時の彩香はどこか疲れた表情だった。それでも彼女は少し驚いたような顔をした後、「うん……ありがとう」と遠慮がちに微笑んだ。その瞬間、自分でも驚くほど自然に「何かあったら話せよ」と続けていた。それ以来、お互い少しずつ言葉を交わすようになり、ときには夜遅くまで電話で話す仲にもなっていた。
その日の部活帰り道。夕焼け空が街並みを赤く染めていた。部員たちはそれぞれ友達同士で楽しそうに話しながら帰っていく中、彩香だけが一人、とぼとぼと歩いていた。
誠は音楽室の片付けを終え、外に出たところでその姿に気づいた。彩香の背中はどこか寂しげで、いつもより小さく見えた。迷った末に、誠は軽く息を吐いてから足を速めた。
「藤井さん!」
呼びかけると、彩香が振り返った。その顔には少し驚きの色が浮かんでいる。
「あ、宮村さん……」
「一人で帰るの?」
「うん……まあね」
彩香は小さく微笑んだが、その笑顔にはどこか力がなかった。
「じゃあ、ちょっとだけ一緒に歩いていいか?」
誠がそう言うと、彩香は少し考えるような仕草を見せた後、「いいよ」と頷いた。
二人は並んで歩き始めた。遠くから聞こえる自転車のベルや子どもの笑い声が微かに耳に届いていた。それでも二人の間には沈黙が流れていた。誠はふと足を止めた。
「……藤井さん」
「うん?」
彩香も立ち止まり、誠の方を振り返る。その表情にはいつもの穏やかさがあった。
「澤村さんのことなんだけど……」
言葉に詰まりながらも、誠は自分の気持ちをごまかすことだけはできなかった。
「なんか最近、自分でもよくわからなくて。でも……多分、好きなんだと思う」
彩香は少し驚いたようだったが、その反応を隠すように小さく頷いた。そして視線を前方へ向けながら静かに口を開いた。
「……沙良ちゃん、いつも明るいよね」
その声は、いつもより少しだけ慎重な響きを持っていた。
「そうだな」
「でも、それって宮村さんにも似合ってると思うよ」
彩香は、言葉を探すように一度視線を足元に落とし、それからもう一度誠の顔を見て、ふわりと微笑んだ。その言葉には直接的なアドバイスではなく、どこか遠回しな優しさが込められていた。誠は一瞬戸惑ったものの、その意味を考えるうちに胸の奥が少しだけ軽くなるような気がした。
「ありがとう」 そう答えると、彩香は小さく微笑み、「うん」と短く頷いた。そして再び歩き出した彼女の背中には、小さな安心感とほんの少しの寂しさが混じっているようにも見えた。
窓から吹き込む夜風がカーテンを揺らし、部屋には涼しさと静けさが満ちていた。梅雨が明ける気配はまだないものの、日中の蒸し暑さが少し和らぎ、夜になると過ごしやすい空気が漂っている。誠は机に向かってノートを開いていたが、ペンは止まったままだった。勉強どころではない。頭に浮かぶのは澤村沙良のことばかりだった。
「明日……言おう」 小さく呟いてみるものの、その声には自信がなかった。
「本当に言えるのか?」と自分に問いかけるたびに、心臓が跳ねるような感覚がする。
机の横には積み上げられたCDケースと本が雑然と並んでいた。
「Deep Purple」「Rainbow」「Emerson, Lake & Palmer」――どれも誠のお気に入りだ。その隣には筒井康隆の『旅のラゴス』や宮本輝の『青が散る』といった小説が無造作に置かれている。どちらも中学生時代から愛読してきた作品だった。
(こんな時こそ本でも読むべきなんだろうけど……)
手を伸ばしかけたものの、誠はため息をついて引っ込めた。今は何をしても落ち着きそうになかった。ふと、先日、本屋でなんとなく手に取った恋愛小説が目に入る。普段なら絶対に買わないような、淡い水彩画の表紙。何かに導かれるようにページをめくると、ある一節に目が釘付けになった。
『おひさまの匂いというものがある。それは、よく晴れた日にたっぷりと陽光を浴びて乾いた、ふかふかの洗濯物のような匂いだ。懐かしくて、温かくて、絶対的な安心感を与えてくれる、母親の腕の中にも似ている。もし、異性にその匂いを感じたなら、それはもう、愛なのだ』
(これだ……!)
その一節を読んだ瞬間、誠は息を呑んだ。ページから目が離せない。沙良と一緒にいる時に感じる、あの胸が温かくなるような、それでいて切ない感覚。その正体に、ようやく名前がついた気がした。彼女から感じるのは、まさしく「おひさまの匂い」だ。そして、それは「愛」なのだと、小説は教えてくれている。
「よし……決めた」
告白の言葉は、これしかない。誠は姿見の前に立ち、神妙な面持ちで練習を始めた。
「君は、おひさまの匂いがする」
(……いや、もっとクールに言うべきか? 『君から、おひさまの匂いがする』……だめだ、キザすぎる)
「『おひさまの匂いがするんだ、君からは』……これも違うな。なんで倒置法なんだよ」
一人、鏡の前でぶつぶつと呟き、頭を抱える。
「沙良……」
名前を口にすると、それだけで胸がきゅっと締まるような気がする。部活中に見せたあの無邪気な笑顔や、バイオリンを弾く時の真剣な横顔——それらが次々と思い浮かび、胸が熱くなる。
耐えきれなくなった誠は机の引き出しからタバコとライターを取り出した。窓際に座り込むと、慣れた手つきで一本取り出し火をつけた。吸い込むたびに煙がゆっくりと夜空へ消えていく。
「ふぅ……」
吐き出した煙と一緒に少しだけ胸のざわつきが和らぐ気がした。それでも完全には消えない。それどころか、どこからともなく視線を感じるような気がして、誠は背後を振り返った。しかし、そこにはただ壁に貼られた『Made in Japan』のポスターがあるだけだった。
(また、この感じか……)
中学生時代から続く、夜になると目が冴える感覚。最近になって、その感覚は少しずつ輪郭を帯びてきている。「何か」がいるような漠然とした気配。それはいつも決まって夜になると、部屋の隅の暗がりに潜んでいる。
気のせいだ。そう分かっているのに、その気配は消えてくれない。心の奥底で、得体の知れない何かが蠢いているような、不快な感触だけが残る。
タバコを灰皿で揉み消すと、誠は立ち上がりベッドへ向かった。布団に潜り込み、天井を見上げる。沙良の顔が天井に浮かび上がり、何かを言おうとしている――そんな錯覚に囚われた。
誠は枕を抱えながらゴロゴロと転がった。しかし、その感情は持て余すばかりだった。そして——自然と手が動いていた。
数分後――
誠は天井を見上げながら大きく息を吐いた。そして枕で顔を覆いながら小さく呟いた。
「俺って、本当にバカだ……」
その後も布団の中でゴロゴロと転がり続けたものの、結局眠りにつくまで時間がかかった。
その夢には沙良が登場した——しかもバイオリンではなくチェロを弾いているという謎の設定で。