第6話 変だなんて思わないよ
音楽部に入部してから一ヶ月以上が経ったある日の夕方。宮村家のダイニングテーブルには、湯気の立つ味噌汁と焼き魚が並んでいた。誠は箸を持ちながら、黙々とご飯を口に運んでいる。
「学校どう? 音楽部には慣れた?」
母親がふと声をかけてきた。その声には優しさと期待が滲んでいる。
「うん……まあ」
誠は短く答えるだけだった。視線は皿の上に落ちたまま、母親の顔を見ることはなかった。
「チェロ、ちゃんと弾いてる?」
母親はさらに尋ねる。その言葉に誠は一瞬手を止めた。
「……弾いてるよ」
その言葉にはどこか力が入っていた。音楽部では毎日練習しているものの、自分が本当にこの場所に居ていいのかという思いが胸の奥で渦巻いていた。
「そう……」
母親は小さく微笑んだ。その表情には安堵と喜びが混じっていた。
「あんたがチェロを続けてくれて、本当に嬉しいわ」
その言葉に誠は少しだけ顔を上げた。母親がこんなにも素直に喜ぶ姿を見るのは久しぶりだった。しかし、その視線を受け止めることができず、すぐにまた皿へと目線を戻した。
夕食後、母親は自宅のレッスン室でバイオリンを教えていた。隣室から聞こえてくる流れるような旋律。それを聞きながら、誠は自室で机に向かっていた。
(俺なんかより、あっちの生徒たちの方がよっぽど期待されてるよな)
部活では毎日練習しているものの、他の部員たちと比べて自分だけが浮いている気がしてならなかった。ふと耳を澄ますと、レッスン室から聞こえるバイオリンの音色が途切れた。時折響く注意やアドバイスの声。それを聞いていると、自分も幼い頃にチェロを習い始めた頃のことを思い出した。
(あの頃は、楽しかった気がする)
しかし、その記憶すら今では遠いものになっていた。自分には音楽なんて向いていない。そんな思い込みが、自分自身を縛り付けていた。
夜八時半。誠は自室でコードレス電話の子機を手に取り、ベッドに腰掛けた。部屋には母親がレッスン室で教えているバイオリンの音色が微かに響いている。
(…もうかけてもいい時間だよな)
壁掛け時計を一瞥し、誠は深呼吸を一つ。指が少し震えるのを感じながら番号を押した。プッシュ式のボタン音が静かな部屋に反響する。
藤井彩香とは、ここ一ヶ月ほどで週に一、二回電話するようになり、今では少しずつ自然と話せる関係になっていた。
プルルル……プルルル……。
数回目のコール音の後、受話器の向こうから控えめな声が聞こえる。
「はい、藤井です」
「あの、宮村ですが」
遠慮がちに名乗ると、彩香はすぐに「あ、宮村さん」と答えた。その声には、少し安心感が混じっているように聞こえた。
「今、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
その短いやり取りだけで、誠の肩の力が少し抜けた。
――
「最近、自分でもよくわからなくてさ」 誠は言葉を探すように少し間を置きながら話し始めた。
「部活とか学校とか、それなりに楽しいんだけど……なんか全部中途半端な気がして」
「中途半端?」
彩香の声には驚きとわずかな心配が混じっている。
「うん。何をやっても、そこそこ止まりなんだよ。チェロも勉強も。他の人にはもっと才能があるっていうか……自分がそこにいる意味って、あるのかなって考えちゃうんだ」
乾いた笑いを漏らしながら誠は目を伏せた。彩香は短い沈黙の後、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「そんなふうに考えちゃうの、辛いよね……」
その一言が、誠の中にわずかな波紋を起こした。彼女はただ否定するのではなく、その気持ちを理解しようとしている。その沈黙すら、寄り添うための時間に感じられた。だから、誠はもう少しだけ、自分の内側を晒してみることにした。
「特に、チェロがさ……。昔、母親に言われたんだよ。俺の演奏には魂がないって。その『魂』ってやつが、何なのか全然分からなくて……」
彼女の沈黙に背中を押されるように、誠は視線を天井に向けながら言葉を継いだ。
「だからかな。ずっと思ってたことがあるんだ。小さい頃から、何かが欠けてるような気がしてて……理由はわからないけど、何か大事なものを失くしたみたいな感覚がずっと消えないんだ」
受話器の向こうで、彩香が小さく息を呑む気配がした。
「失くした、って?」
「うん。でも、それが何なのかもわからない。ただ、夜になるとその感覚が強くなって……最近は眠れなくなることもある」
誠は少し息をついて、さらに踏み込む。
「暗闇の中で誰かが囁いてる気がするんだ。でも、その声はすぐ消えちゃう。あと、夢で得体の知れないものが近づいてくるのを感じたりもして……」
「それ、怖くない?」 彩香の声は、心配と戸惑いが交じっていた。
「まあ、ちょっとね。でも、誰にも言えなくてさ。こんな話、変なやつだって思われるだけだろうし」
誠は苦笑交じりに言ったが、その実、彼女の反応を待っている自分に気づいていた。
「私は、変だなんて思わないよ」
彩香の声は予想以上に力強かった。彼女の言葉には、誠を支えようとする必死さがこもっているように感じた。その一言で、誠の胸に積もっていた重みが少しだけ軽くなった気がした。けれど同時に、彼女の気持ちを引き出すためにこの話をした自分をどこか卑しいとも感じた。
「ありがとう、藤井さん」 短い感謝に誠の本音が詰まっている。
彩香は少し笑いながら答えた。
「話してくれて、嬉しかったよ」