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第5話 小さな光のプレリュード


 あのバイオリンの音色が、耳の奥にこびりついて離れない。


 その日の夜、誠は母親が寝静まるのを待って、そっと自室を抜け出した。向かう先は、一階の奥にあるレッスン室。防音扉を開けると、ひんやりとした空気が誠を迎えた。


 楽譜棚の隅で、目当てのものを探し出す。バッハの無伴奏チェロ組曲。幼い頃、母親に「この曲はね、技術だけで弾くものではないの。魂で弾くものなのよ。今のあなたには、まだその魂がない」と、半ば神格化するように、弾くことを禁じられていた楽譜だ。


 譜面台に、組曲第一番ト長調 プレリュードを置く。チェロを学ぶ者なら誰もが一度は触れる、あまりにも有名な曲だ。


 弓を構え、弾き始める。母親に教えられた通りに。指の角度、弓の圧力、ビブラートのかけ方。そのどれもをなぞるように弾いていく。大きな破綻はない。だが、日々の練習をただの日課として中途半端にこなしてきたツケは明らかだった。そのあまりに不甲斐ない自分の音に、彼は唇を噛んだ。


 それから毎晩、誠の孤独な格闘が始まった。


 来る日も来る日も、彼は同じフレーズを弾き続けた。まずは、楽譜に書かれた音を、一つ残らず正確に鳴らすこと。それだけを目標に、彼はこれまで疎かにしてきた基礎練習に没頭した。メトロノームの無機質なクリック音だけが、彼の孤独な練習相手だった。


 指は思うように動かず、音程は僅かにずれる。メトロノームのクリック音から、ほんの少し遅れてしまう。その度に、彼は唇を噛み、もう一度最初から弾き直す。苛立ちが募り、自分の指が憎らしくなった。弓を置き、全てを投げ出したくなった夜もあった。それでも、あのバイオリンの音色が、誠をレッスン室へと向かわせた。


 何かが劇的に変わったわけではない。彼の演奏は、まだ拙く、不完全なままだった。ただ、一つだけ、確かな変化があった。これまで「意味のない日課」だったチェロの練習が、彼にとって初めて、暗闇の先に見つけた小さな光のような「目標」に変わったのだ。


 

 その翌週の放課後。誠は音楽室の前で立ち止まっていた。扉越しに聞こえる弦楽器の調律音や、弓が弦を軽く擦る音が微かに漏れ聞こえてくる。その音色はどこか懐かしく、心を揺さぶるものがあったが、それでも足を踏み入れる勇気が出ない。チェロケースを肩に担いだまま、誠はため息をついた。


 「おーい、宮村!待ってたぞ!」


 振り返ると、チェロ教室の先輩である狩野が満面の笑みで手を振っていた。長身でがっしりとした体格の彼は、どこか人懐っこい笑顔を浮かべている。その存在感だけで、誠は思わず一歩後ずさった。


 「いや、俺、本当に今日は見学だけで……」


 「見学だけ? 何言ってんだよ! せっかくチェロ持ってきたんだから、一曲くらい弾いていけよ」


 その言葉に断る余地などなかった。狩野は誠の肩を軽く叩きながら、「さあ行こう!」と扉を開けた。


 音楽室の中には、バイオリンやビオラ、チェロを手にした部員たちが集まっていた。その中には、入学式の日に見かけた新入生の澤村沙良と藤井彩香の姿もあった。沙良は楽器を抱えながら先輩と話し、小さな笑顔を浮かべている。一方の彩香はバイオリンを膝に乗せ、静かに調弦していた。その落ち着いた仕草にはどこか芯の強さが感じられた。


 「新しい子連れてきたぞ!」


 狩野が大声で宣言すると、部員たちが一斉にこちらを振り向いた。その視線に誠は少し居心地の悪さを感じながらも、小さく頭を下げた。


 「宮村です……今日は見学だけ……」


 「見学だけじゃないぞ!」


 狩野がすぐさま遮るように言う。


 「こいつ、小さい頃からチェロやっててさ。腕前もなかなかなんだよ!」


 「いや、それは……」 誠が否定しようとする前に、先輩たちから拍手や歓声が上がった。


 「まあまあ、とりあえず一曲聴いてみようよ」


 穏やかな口調で促したのは三年生らしき女性部員だった。その柔らかな笑顔に押される形で、誠は仕方なくチェロケースを床に置き、中から楽器を取り出した。


 「……じゃあ、本当に少しだけ」


 断りきれず椅子に腰掛けてチェロを構えると、音楽室全体が静まり返った。視線が集まる中、誠は深呼吸して弓を引いた。最初の音は少し震えていたが、すぐに手元が安定し、中学時代によく練習したサン=サーンスの『白鳥』が、穏やかにその姿を現し始めた。次第に音色は深みを増し、音楽室を優雅な旋律で満たしていく。演奏を終えると、一瞬の沈黙の後で拍手が起こった。


 「すごいじゃん! 全然上手いね!」


 澤村沙良が嬉しそうに声を上げた。一方で藤井彩香も静かに微笑んでいた。誠はみんなの反応に少し驚きつつも、自分でも気づかないうちに頬が緩んでいた。演奏後も狩野や他の部員たちとのやり取りが続き、音楽室には笑い声や軽やかな調べが響き渡った。そしてその日、誠はとうとう狩野の強引な誘いを断りきれず、「まあ……入部してみてもいいかな」と呟いてしまう。それは彼自身も予想していなかった新しい一歩だった。


 いや、本当は狩野の強引さだけが理由ではなかった。演奏を褒めてくれた時の、沙良の屈託のない笑顔。あの日のバイオリンの音色と同じ「救い」の光を、その笑顔の中に見つけてしまった。彼女のそばにいれば、何かが変わるかもしれない。そう、思ってしまったのだ。



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