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第4話 運命のバイオリン


 一九九一年四月四日、春の陽射しが柔らかく降り注ぐ日だった。


 校門の前で立ち止まる。宮村誠は、肩にかけたリュックのベルトをぎゅっと握りしめた。少し冷たさを残した春風が頬を撫でていく。周りには、それぞれの個性が滲み出る私服姿の新入生たちが、友達と笑い合ったり、緊張した顔で校舎を見上げたりしている。その喧騒の中で、誠はポケットに手を突っ込んだまま、一人だけ違う場所にいるような感覚に陥っていた。


 目の前にそびえる深山高校の校舎は、どこか古めかしい雰囲気を漂わせていた。赤茶色のレンガ造りの外壁は、長い年月を感じさせるが、それが逆に堂々とした風格を与えている。窓枠には白いペンキが塗られているものの、ところどころ剥がれかけている部分もあった。校舎の背後には深い緑の山々が広がり、その景色が全体に静かな落ち着きを与えている。


 (ここで三年間過ごすのか)


 感慨も束の間、諦めが声になった。「変われるわけないよな。」


 春風が、その呟きを攫っていく。


 体育館への列に並びながらも、誠は周囲のざわめきから一歩引いた場所にいた。体育館もまた校舎と同じく古びた造りだったが、中に入ると高い天井から柔らかな光が差し込み、不思議と広々としていた。新入生たちは指定された席に座り、やがて入学式が始まった。


 式典では校長先生や来賓による挨拶が次々と続いた。「期待」「未来」「可能性」——そんな言葉が飛び交う中、誠にはどれも現実味がなかった。自分とは無関係な遠い世界の話のように、ぼんやりと聞き流す。しかし、その中で一つだけ耳に残った言葉があった。深山高校の校訓。


 「世の悪風に染むことなかれ」


 他にも「克く学業に勉励せよ」「身体を強健にせよ」といった言葉もあったはずだが、「世の悪風」という古めかしい響きだけが引っかかった。自分自身も何か悪い流れに呑まれているような感覚があったからかもしれない。それでも、その言葉には厳しくも清々しい響きがあった。


 式典が終わり、新しい教室へ案内される途中、誠はふと足元を見る。春風に吹かれて舞い落ちた桜の花びらが散らばっていた。その光景は儚げだったが、一つ一つが新しい季節を告げているようで、自分にも何か変化が訪れるかもしれない、と一瞬だけ思った。


 (……いや、そんなわけないか)


 自嘲が胸をよぎる。誠は小さくかぶりを振ると、新しい教室へ向かう列へ急ぎ足で戻った。その背中にはまだ迷いや不安が滲んでいたものの、その一歩一歩は確実に新しい生活へ向かって進んでいた。


 入学式から二週間が経った。四月中旬、春の陽気が少しずつ暖かさを増している。深山高校の校舎裏には桜がまだ残っていて、風が吹くたびに花びらが舞い散っていた。けれども、誠にとってその景色はどこか遠いものに感じられた。


 「宮村くん、どこいくの?」


 次の授業までの休み時間、教室の後ろの席からクラスメートの誰かが声をかけてきた。誠は振り返ることなく、リュックを肩にかけながら答えた。


 「カットするわ」


 それだけ言うと、彼はそのまま教室を出て行った。残された教室には、一瞬の静けさと、その後に続く小さなざわめきだけが残った。誰も追いかけてくる様子はない。それが誠にはむしろ都合が良かった。誰もいない廊下を歩きながら、誠は自分の足音だけがやけに大きく響くのを聞いていた。


 深山高校では授業をサボることを「切る」転じて「カット」と呼ぶらしい。その響きにはどこか軽さがあって、最初は冗談みたいだと思った。でも今では、その言葉が自分自身にもぴったりだと思えてしまう。何かを切り捨ててしまうような感覚。それは授業だけじゃなく、自分自身の一部さえも切り落としているようだった。


 「どうせ、いても意味ないし」小さく呟いたその声は、自分自身への言い訳にも聞こえた。


 校舎を出ると、春の日差しが赤茶色のレンガ造りの建物を照らしていた。その風景にはどこか温かみがあるはずなのに、誠には冷たく感じられた。まるで自分だけがその中に溶け込めず、弾き出されているような気がした。


 理由はいくつかあった。新しい環境に馴染めないこと。クラスメートたちの輪に入れないこと。そして何より、中学時代から唯一の友達だったキヨシが学校に来なくなったことだ。キヨシとは何でも話せる仲だった。一緒にいるだけで安心できたし、学校生活もなんとか乗り切れそうだった。でも、入学して三日目「行く気にならない」と言って家に引きこもるようになった。


 「お前はちゃんと行けよ」


 最後にそう言われたときのキヨシの顔が頭をよぎる。冗談っぽい口調だったけれど、その目はどこか寂しげだった。それ以来、一度も会っていない。


 「……今日はもういいや」 そう呟いて校門を抜けると、誠はそのまま家へ帰るわけでもなく、市街へ向かった。


 親には学校へ行っていると思わせておかなければならない。それでも時間は潰さなければならない。それが最近の命題になりつつあった。松本城の公園で鳩を眺めたり、四柱神社の境内でぼんやりと座ったりすることが多い。今日もお城へ向かう途中、誠はポケットからタバコを取り出した。中学時代からキヨシと一緒に吸い始めたタバコだ。一人で吸うタバコには味なんてない。ただ、手持ち無沙汰な時間を埋めるためだけの習慣になっていた。


 堀端のベンチに腰掛けながら鳩たちを眺めていると、不意に以前キヨシとここで話したことを思い出した。「高校行ったら何する?」そんな他愛もない会話だった。それなのに今では、その頃の自分たちが別人のようだった。


 「……あいつ、どうしてんだろ」 呟いてみても答えなんて返ってこない。鳩たちは群れになって餌をついばみ、時折羽ばたいてはまた地面に戻ってくる。その無心な動きが、誠にはどこか羨ましくも思えた。自分にはこんなふうに居場所があるわけでもなく、目的もない。ただ時間だけが過ぎていく——そんな気がしてならなかった。


 翌日の放課後、誠は校舎裏を歩いていた。授業を終えて帰る気にもなれず、ただなんとなく足を運んだ先がそこだった。第二校舎から自転車置場に抜ける道を歩いていると不意に耳に届いた音があった。


 バイオリンの音色だ。タイスの瞑想曲。


 母親がレコードで何度もかけていた、耳に馴染んだ旋律。それはいつも、美しく、そして手の届かない世界の象徴だった。ガラスケースの中に飾られた、埃ひとつない美術品。だが、今聞こえてくる音は違った。


 それは生きていた。息をしていた。


 灰色だった風景に、その一音一音が鮮やかな色彩を落としていくような感覚。誠は足を止め、音のする方へ、まるで細い光の糸に手繰り寄せられるように、無意識に歩き出していた。音楽室から漏れ聞こえてくるその音色に、心臓を直接掴まれたように、動けなくなった。


 (誰が弾いているんだろう……)


 母から聴かされてきたレコードとは違う、生きた音色。誠はその場で立ち尽くし、ただ耳を澄ませた。風が吹くたびに音が揺れ、旋律が空気に溶けていく。それは遠くで咲く花のように、触れようとすれば消えてしまいそうな繊細さを持っていた。それでいて、その音色には確かな意志が宿っているようにも感じられた。


 誠は思わず目を閉じた。これまで何度も聴いてきたはずの曲なのに、今この瞬間は特別だった。まるで音楽そのものが、誠の心の最も柔らかな部分に、直接語りかけているかのようだ。


 (どうしてだろう……この曲を聴くと、胸が締め付けられる)


 忘れていたはずの、何か大切な風景。思い出そうとすると、頭の芯が鈍く痛む。それは懐かしさとは違う、もっと切実で、痛みを伴う感覚だった。


 (こんな音色があったんだ……)


 その演奏には、誠の知らない世界が広がっているような気がした。自分とは違う、でも確かにそこにある何か。それは希望とも憧れとも違う、もっと深い、魂の渇きそのものを潤すような感情だった。


 「こんなふうに弾けたら……」思わず漏れた言葉に、自分でも驚いた。これまで音楽に対して特別な思い入れがあったわけではない。それなのに、この時だけは「もっとちゃんと音楽をやりたい」と心の奥で小さな火が灯った気がした。それは希望というにはあまりにも小さな感情だったけれど、それでも確かにそこにあった。


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