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第2話 呼ばれない名前


 授業が終わると学校裏の雑木林へ向かった。枯れ草の生い茂る空き地に、誠とキヨシとタコだけが知る秘密の場所があった。誰も来ないこの場所だからこそ、三人は自由に話すことができた。


 「よう、お坊ちゃん」


 キヨシがいつものようにタバコを片手に声をかけてきた。短く刈り込んだ髪が、風に吹かれて少し乱れている。誠はその鋭い目つきと皮肉な笑みを見るたびに、「こいつには敵わないな」と思わずにはいられない。その横でタコが無言で佇んでいる。タコはいつも黙っているけど、その沈黙には不思議な安心感があった。


 誠が近づくと、キヨシはジャケットのポケットからもう一本タバコを取り出し、差し出した。


 「ご賞味あれ」


 誠は軽くタバコを受け取り火を借りる。喉を通り抜ける煙の感覚はまだ少し苦い。だが、この苦さが胸の奥にぽっかりと空いた穴を一時的にでも埋めてくれるような気がした。


 「どうだ?今日も学校は楽しかったか?」


 キヨシが煙を吐きながら、皮肉めいた笑みを浮かべる。


 「ああ、実に素晴らしい。みんなで楽しく青春してるよ」


 誠は自嘲気味に答えた。不意に葉子の笑顔が脳裏をかすめ、吸い込んだ煙が喉の奥で鉛のように重くなった。


 「ほーら、やっぱりな」


 キヨシは冷ややかに笑う。その目にはいつもの醒めた色が浮かんでいた。


 「それよりさ」


 キヨシの声が急に明るくなる。


 「筋肉少年少女団が新しいデモテープ手に入れたんだぜ」


 「マジで?」


 誠の声が少し上ずった。


 筋肉少年少女団。東京のアンダーグラウンドで異彩を放つバンド。クラシックと歌謡曲しか知らなかった田舎の中学生だった誠にとって、彼らの音楽は衝撃的だった。初めてその音楽を聴いた時「なんだこのバンドは……僕のことを歌っているじゃないか!」と感じたほどだ。


 「貸してやるからダビングしろよ」


 キヨシが得意げに言う。普段の皮肉屋が消えて純粋な音楽好きの顔になっていた。


 タバコの煙が立ち上る中、誠は少しだけ気持ちが軽くなった。この瞬間だけは自分も何か特別なものに触れているような気がする。それは日常から逃れる一時的な救いだった。


 「お前も今度ライブ来いよ」


 キヨシが誠に向かって言う。タコは黙ったまま煙を吐き出していた。その沈黙は誠たちが言葉にできない何かを代弁しているようだった。


 「……考えとく」誠は曖昧に答えた。ライブハウスという響きは魅力的だったが、自分がそこに馴染めるかどうかは分からない。


 「ったく、お前ってやつは」


 キヨシは軽く笑いながら言った。その言葉には優しさと諦めが混ざっていた。


 誠は答えず、ただ煙を空に向かって吐き出した。枯れ草の匂いとタバコの煙が混ざり合った。


 夕方、誠が家に帰るとリビングから母親の声が聞こえてきた。


 「ご飯よ。早く降りてきなさい」


 その声にはいつもの力強さがあった。母親である宮村恵子はバイオリンの指導者として多くの生徒を教えており、その厳格さは家庭でも変わらない。普段は反抗期真っ只中の誠との間で口論ばかりだが、今日は兄が帰省中のためか少しだけ雰囲気が柔らかかった。


 「分かったよ」と短く応え、重い足取りで階段を降りる。リビングには母親と兄・篤が座っていた。篤は東京で就職しており、普段は離れて暮らしている。父親は単身赴任中で不在だ。この家には母親と兄と誠の三人しかいない。


 食卓には夕食が並べられていたが、誠はその光景を見るとどこか居心地の悪さを感じた。何もかもが変わらない――そんな気持ちになった。


 「最近、学校どう?」


 恵子はいつものように尋ねた。その声には、いつもの厳しさの中にどこか探るような響きが混じっている。誠の反抗的な態度に苛立ちよりも戸惑いを浮かべているように見えた。その視線は「どうしてこんな子に」と問いかけているようで、誠は居心地の悪さを感じた。


 「別に。普通だよ」


 誠は短く答えた。心の中では「またその話か」と思いながらも、兄がいる手前、それ以上ひどい態度は取らなかった。篤は黙って食事を続けていたが、その様子を横目で見ている誠には何か言いたげな雰囲気が伝わってきた。しかし、篤もまだ口を開こうとはしない。その沈黙が、この家のいつもの空気だった。そして誰も俺の名前を呼ばない。昔から、ずっとそうだ。


 「高校進学のこと、もっと真剣に考えなさい。努力すれば結果は必ず出るのよ」


 恵子は真っ直ぐな目で誠を見つめながら言った。その言葉は、誠にとって呪いにも似ていた。兄の篤は昔から何でもできた。勉強も、スポーツも。親の期待に応え続ける完璧な兄。その隣で自分はいつも「じゃない方」だった。


 (また始まった。兄さんと比べられてるんだ。努力すれば、結果は出る……じゃあ、結果が出ない俺は、努力が足りないっていうのか)


 胸の奥で冷たい反発心が広がっていく。


 「高校なんてどこ行っても同じだろ。どうせ勉強したって、兄さんみたいになれるわけじゃないし」


 声に出すつもりのなかった言葉が、乾いた音を立てて唇から滑り落ちた。その言葉には無力感と諦めが込められていた。恵子は眉をひそめた。


 「そんなこと言わないで。ちゃんと勉強して高校へ行かなきゃ……」


 その瞬間、誠はさらに苛立ちを募らせる。


 「別に高校なんて行かなくてもいいだろ。どうせ何も変わらないんだからさ」


 彼は投げやりな口調で続けた。


 「世の中なんて全部つまんねぇんだよ。何やったって同じだろ?」


 母を怒らせるだろうと思いつつ続けて言う。


 「どうせ母さんだって世間体しか気にしてないんだろ!」


 その言葉には苛立ちと無気力感が滲んでいた。何もかも――学校も将来も――すべてがつまらなく思えて仕方なかった。その時、篤が静かに口を開いた。


 「お前さ、本当にそれでいいのか?」


 その一言に一瞬空気が変わった。誠は兄の方を見る。篤はいつもの冷静な表情でこちらを見つめ返していた。兄さんはいつもそうだ。俺の表面的な反抗の奥にある、本当の孤独を見透かしているような気がする。


 「つまらないと思うなら、お前自身で面白くすればいい」


 篤は淡々と言った。その言葉には説得力があった。


 「深山高校へ行けば、お前みたいな奴とも話せるやつがいるさ」


 その一言に、誠は少しだけ心を揺さぶられた。篤の言葉に理屈では反論できない自分に気づいた誠は小さく頷いた。『自分みたいな奴』と話せるやつ。そんな存在が、本当にいるのだろうか。それでも、その一言によって彼の中で何かが動き始めていた。


 「……まあ、それなら行ってみてもいいかもな」


 誠はぼそっと呟いた。それでもまだ完全に納得しているわけではない。しかし、とりあえず進むべき道筋だけは見えてきたような気がした。


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