第19話 偽りの代償
三月、春休み直前の松本市はまだ寒さが残り、街には冷たい風が吹き抜けていた。北アルプスの山々は雪化粧をまとい、澄んだ空気が遠くまで景色を見渡せるような日々が続いていた。長野特有の乾いた冬の空気の中、人々は厚手のコートに身を包みながら行き交っていた。
放課後、誠は駅近くにある映画館で一人の女子と待ち合わせをしていた。彼女は淡いピンク色のコートに身を包み、少し緊張した様子で立っていた。
「待たせた?」
誠が軽く手を挙げて声をかけると、彼女は笑顔で首を振った。
「ううん、私も今来たところ」
二人は並んで映画館に入り、上映が始まると、誠の意識はスクリーンではなく、隣の彼女に集中した。彼女が笑うタイミングで、誠も笑う。彼女が息を呑むシーンで、誠も真剣な表情を作る。まるで、テストの解答用紙を埋めるように、完璧なリアクションを演じ続けた。映画が終わると彼女が小さく呟いた。
「宮村くんって、こういう映画好きなんだね」
「そうだね。でも君と一緒だから特に楽しかったよ」
誠は軽く笑いながら答えた。その言葉に彼女は少し頬を赤らめた。
別の日には、ファストフード店で別の女子と向き合って座っていた。店内には学生たちの笑い声やポップミュージックが流れ、窓際の席からは夕暮れに染まる街並みが見えた。
「宮村くんって意外とモテるよね」 彼女はストローでジュースをかき混ぜながら、探るような視線を向けてきた。
「そう見えるだけだよ。俺なんて普通だし」
誠はニコッと笑いながら答えた。その態度にはどこか思わせぶりなニュアンスが混じっており、それが彼女たちを引きつけているようだった。
「でもさ、本命とかいないの?」 彼女が少しだけ真剣な表情で尋ねると、誠は一瞬だけ目を伏せ、それから彼女の瞳をまっすぐに見つめて答えた。
「君が本命に決まっているだろ?」
その言葉に彼女は驚いたような顔をした後、すぐに笑顔になった。
「もう……宮村くんってほんと冗談ばっかり!」
「冗談かどうかは君次第だよ」
その場限りの軽口。それでも彼女の表情にはどこか満足げな色が浮かんでいた。
また別の夜、別の女子と松本城近くの夜道を歩いていた。街灯が石畳をぼんやりと照らし、その光景にはどこか幻想的な雰囲気が漂っていた。
「宮村くんって、将来どうするの? やっぱり音楽の道に進むの?」
彼女の問いかけに、誠は一瞬言葉を失った。音楽。その言葉は、もうずっと昔にどこかへ捨ててきたもののように感じられた。
誠はふっと笑みを浮かべ、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。街灯の光が、その瞳の中で小さな星のように揺れている。
「音楽もいいけど……今は、君とこうして歩く方がずっと楽しかな」
「え……もう、またそういうこと言って」
彼女は嬉しそうに、でも照れくさそうに誠の肩を軽く叩いた。その反応に満足しながらも、誠の心は、誰にも見えない場所で静かに凍てついていた。
「寒くないか?」 誠が話題を変えるように言うと、彼女はマフラーを巻き直しながら首を振った。
「大丈夫。でも……手とか冷たいかも」
その言葉に誠は一瞬迷ったものの、自分のポケットから手袋を取り出して差し出した。
「これ使えば?」
「えっ……いいの?」
彼女が驚いたように尋ねると、誠は軽く笑いながら答えた。
「俺より君が使ったほうが似合うよ」
その場限りの優しさ。それでも彼女は嬉しそうに手袋を受け取り、「ありがとう」と小さな声で呟いた。
彼女を家まで送り届けた帰り道、誠は一人、自宅近くの公園のベンチに腰掛けた。雪が残る街はしんと眠っていて、吐く息は白い。さっきまで彼女に向けていた笑顔のせいで、顔の筋肉がこわばっている。ポケットからタバコを取り出し、火を付ける。演じれば演じるほど、本当の自分が誰なのかわからなくなる。鏡に映るのは、知らない男だ。
ふと、頭の奥深くで、あの囁き声が響いた。
『お前は、誰だ?』
その問いに、誠は答えることができない。ただ、タバコの煙が夜空に溶けていくのを、ぼんやりと見つめているだけだった。
誠の物語 第一部了




