第18話 世の悪風に染むことなかれ
放課後から夜遅くまで遊び歩く日々が続くようになっていた。溜まり場には複数の仲間が集まり、その中心にはいつも大澤がいた。彼は笑顔で軽口を叩きながら、自然と場の空気を支配していた。その明るさと親しみやすさに引き寄せられるように、誠もまたその輪の中にいた。
「宮村ー、今日はどこ行く?」
「どこでもいいよ。お前が決めろよ」
誠はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。細い煙が夜空に溶けていくのをぼんやりと眺める。
「じゃあカラオケだな。お前の歌声で女子たち泣かせてこいよ」
大澤がニヤリと笑うと、周囲の女子たちも笑い声を上げた。カラオケでは、大澤と誠が交互にマイクを握り、それぞれの得意な曲で場を盛り上げた。誠が歌い出すと、確かな技術と感情のこもった歌声に、騒いでいた女子たちも自然と静まり返った。
「宮村くん、本当にすごい!」
拍手と歓声の中で、ショートカットが似合う快活な女の子が、目を輝かせながら誠の隣に座った。
「でもさ、クラシック音楽やってる人ってもっと真面目そうなイメージあるけど、宮村くん全然違うよね」
彼女が笑いながらそう言うと、誠は少しだけ首を傾げてみせた。
「いや、俺めっちゃ真面目だよ。真面目が歩いてるって言われるくらい」
その軽妙な返しに、周囲の空気も自然と和らぐ。女子たちも「それ、本気で言ってる?」「いやいや、それはないでしょ!」と口々に笑いながら応じ、その場はさらに賑やかになった。
一息つこうと誠が「ちょっとタバコ吸ってくる」と席を立つと、さっきのショートカットの女の子も「あ、私も行く」と後を追ってきた。
カラオケボックスを抜け出すと、冬の夜気が肌を刺すように冷たかった。
「うわ、さむっ」
彼女が小さく身を震わせるのを見て、誠は近くの自販機を指差した。
「ちょっと待ってて」
誠はそう言うと、何も聞かずに近くの自販機へ向かった。彼女が戸惑っている間に、温かいミルクティーの缶を二つ買ってくる。
「ほらよ」
差し出されたミルクティーに、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「ありがとう。……なんでミルクティーって分かったの?」
「なんとなく。好きそうだったから」
誠は軽く笑ってごまかした。二人は近くの公園のベンチに並んで腰掛ける。誠がタバコに火をつけると、彼女は温かいミルクティーの缶を両手で包み込みながら、じっと誠の顔を見つめた。
「ねえ、宮村くん」
「ん?」
「さっき、歌ってるとき、なんか、すごく遠くにいるみたいだった。……楽しそうにしてるのに、目が全然笑ってないっていうか。寂しそうに見えた」
その言葉に、誠の心臓が小さく跳ねた。いつもの軽口で返そうとするが、喉の奥に何かがつかえて、言葉が出てこない。
「……考えすぎだって」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「そうかな」彼女は小さく笑った。「ごめん、変なこと言っちゃった。でも、なんか、宮村くんって、本当は何を考えてるのか、全然わからない時があるから」
沈黙が、冷たい空気の中で重くのしかかる。彼女の純粋な好奇心が、誠が必死に塗り固めていた仮面に、容赦なくひびを入れる。
「……別に、何も考えてないよ」
嘘だ。頭の中は、空っぽのくせに、どうしようもないノイズで満たされている。
「そっか。……ごめんね」
彼女はそう言うと、気まずそうに立ち上がった。「私、もう戻るね」
一人残されたベンチで、誠はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。深く吸い込んだ煙が、凍てついた肺腑に染み渡る。
(寂しそう、か)
見抜かれてしまった。演じているはずなのに、その仮面越しに、どうしようもない孤独が滲み出てしまっている。その事実が、誠を打ちのめした。
誠は最後の一本を灰皿に押し付けると、重い腰を上げてカラオケボックスへと戻った。ドアを開けると、馬鹿騒ぎの熱気が顔に叩きつけられる。さっきまで自分がいた場所のはずなのに、今はひどく遠い世界のように感じられた。
「お、宮村、おかえりー」
誰かが声をかけてくる。誠は無理やり口角を上げて、その輪の中へと戻っていった。ソファにどかりと腰を下ろした、その時だった。
「宮村、お前、すっかり『世の悪風』に染まっちまったな」
大澤が、ニヤニヤしながら誠の肩を叩いた。
「なんだよ、それ」
「うちの校訓だよ。入学式の時、校長が言ってたろ?『世の悪風に染むことなかれ』ってな。お前、見事に染まってるぜ、その悪風に」
大澤は楽しそうに笑う。その言葉には、いつもの軽薄さだけでなく、どこか物事の本質を見抜くような鋭さが混じっていた。
「うるせえよ」
誠も笑って返したが、その言葉は、心のどこかに小さな棘のように引っかかった。「演じる」という自分の選択が、本当に正しいことなのか。その問いが、一瞬だけ頭をよぎった。
夜遅く、玄関のドアを静かに開ける。リビングからは、ぼんやりとテレビの光が漏れていた。
「ただいま」
抑揚のない声が、静まり返った空間にぽつりと落ちる。ソファに座る母の背中が、ぴくりと動いたのが分かった。だが、彼女が振り返ることはない。
「おかえり」
テレビの画面を見つめたまま、感情のこもらない声が返ってくる。それきり、会話は途絶えた。いつからだろう。母が俺に何かを言うのを諦めたのは。以前は「こんな時間までどこで何をしていたの」と問い詰められたこともあった。そのたびに「別にいいだろ」と冷たく突き放し、二人の間には凍てついた空気が流れた。そのやり取りに、お互いが疲弊しきった結果が、この重苦しい沈黙だ。彼女はもう、何も言わない。俺が家に帰ってくる。ただそれだけで良しとしているのか、あるいは、もうどうでもいいと思っているのか。
廊下には薄暗い電灯だけが灯り、その光すらどこか冷たく感じられた。誠は靴を脱ぎ捨てると、そのまま自分の部屋へ向かった。部屋の隅にはケースに収められたチェロが置かれている。その存在感だけが妙に際立ち、誠の視界を捉えた。一瞬ためらった後、彼はケースをゆっくりと開けた。中から現れたチェロは、艶やかな光沢を放ちながらも、長い間触れられていなかったことを物語っているようだった。
ベッドに腰掛けながらチェロを抱えると、その重みがじんわりと体に伝わる。それは懐かしさとも違う、不思議な感覚だった。指先で弦を軽く弾いてみる。低く鈍い音が部屋の静寂を震わせた。
ふと目線を上げると、鏡越しに自分自身の姿が映っていることに気づいた。鏡越しに映る自分は、自分なのか、それともただ疲れ切った誰か別人なのか——そんな考えが頭をよぎった。それでも視線を外すことなく、自分と向き合うようにじっと見つめ続ける。
「………………」
小さく呟いたその声は、自嘲とも諦めともつかない響きを帯びていた。そして再びチェロをケースへ戻し、タバコに火をつけた。煙はゆっくりと天井へ消えていった。それはまるで、自分自身も同じように消えてしまいたいと思っているようだった。




