第17話 俺は本当に助かってたんだ
十二月。音楽室の窓から見える景色は、すっかり冬の色をしていた。
本当に気まぐれだった。もう何か月もこの場所には近づいていなかったのに、誠の足は無意識に音楽室の前で止まっていた。ドアに付けられた小さなガラス窓に、そっと顔を近づける。
暖かい光に満ちた室内では部員が自主練習に励んでいた。かつての仲間たちが、自分がいなくても楽しそうに笑い合っている。その輪の中に、もう自分の居場所はない。視線を部屋の隅へ滑らせる。かつて自分が座っていたチェロの席には、別の男子生徒が座り、先輩から熱心に指導を受けていた。
誠自身のチェロは、ケースに収められたまま、楽器倉庫の中だ。まるで、持ち主が現れるのを諦めたかのように、静かに埃をかぶっていた。
誰も、窓の外にいる誠の存在には気づかない。ガラス一枚を隔てた世界は、完璧に、自分なしで成立していた。
その事実が、冷たい風のように胸を吹き抜けていく。誠は音を立てないように、そっとその場を離れた。背後で続く楽しげな音色が、やけに遠く聞こえた。
深山高校の校庭は一面の白に覆われていた。例年より早く降り積もった雪が、校舎の屋根や木々を静かに彩っている。朝の空気は冷たく澄み渡り、生徒たちの吐く息が白く漂っては消えていった。冬学期も終盤に差し掛かり、誠は教室の隅で窓の外をぼんやりと眺めていた。
最近の誠は、以前よりも明るいキャラクターを演じるようになっていた。教室では軽口を叩き、クラスメートたちと笑い合う姿が増えていた。それはまるで、自分自身に「これでいいんだ」と言い聞かせるような振る舞いだった。
「宮村、昨日の数学の小テスト、どうだった?」
クラスメートが軽い調子で尋ねてきた。誠は机に頬杖をつきながら、肩をすくめて答えた。
「まあ……想像通りって感じかな。ああいうの、俺には向いてないんだよね」
「お前、それ毎回言ってるけどさ、たまには真面目にやれよ」
「いやいや、真面目にやったら逆に点数下がるかもしれないぞ?」
その場は笑い声に包まれたが、誠の表情にはどこか作り物めいたものが混じっていた。それに気づく者はいなかったが、自分自身では違和感がはっきりとあった。笑い声が遠ざかる中、胸の奥に小さな空洞が広がるようだった。演じることに慣れてくるにつれて誠はさらに軽いノリでクラスメートたちと接するようになった。「どうせ深く付き合っても傷つくだけだ」と自分に言い聞かせながら。
(……俺は、何をやってるんだろう)と、頭の片隅で、もう一人の自分が冷ややかに呟いた。
登校時、誠は女子と並んで歩く姿が増えていた。
「宮村くんってさ、本当に歌うまいよね」
「いやいや、それほどでもないよ。ただカラオケ行きすぎただけ」
「じゃあまた今度一緒に行こうよ」
「いいけど、その代わり俺が歌ってる間はちゃんと聞いててよ?」
彼女が笑いながら頷き、軽やかな雰囲気が広がる。教室でも、誠はクラスメートたちと自然に談笑する姿が日常となっていた。
「宮村、お前また先生に怒られてたろ?」
「だって仕方ないだろ。俺みたいな天才には普通の授業なんて退屈すぎるんだよ」
男子たちが笑いながら「お前ほんと調子いいよな」と肩を叩いて去ると、隣の女子が口を挟んできた。
「宮村くんってさ、ほんと要領いいよね。先生に怒られても全然気にしてないし」
「まあね。先生も俺に構ってくれるなんて、意外と優しいよね」
「いや、それ普通は優しいって言わないから!」
「そう? でもさ、怒られるのも慣れれば悪くないもんだよ」
「それ絶対嘘でしょ!」
彼女たちは笑い声を上げながらツッコミを入れ、賑やかな空気が教室に広がった。
「でも宮村くんって意外と真面目そうなとこあるよね」
「おっ、それ初めて言われたわ」
「いやいや、褒めてないから!」
誠は軽口を交わしながらも、女子たちの視線を自然と集めていた。彼の冗談めいた態度には本気とも取れるニュアンスがあり、その曖昧さが周囲を引きつけていた。
昼休み、廊下の窓際で藤井彩香と立ち話をしていた。
「宮村くん、最近なんか雰囲気変わったよね」
彩香の声は穏やかだったが、その奥には探るようなニュアンスが混じっていた。誠は一瞬、窓の外に視線を逃がし、短く息を吐いて答えた。
「そう? まあ、人間って変わるもんだからね」
彩香は小さく頷いたが、その目は遠くを見ているように寂しげだった。
「でも……音楽部、全然来てないよね」
心配と申し訳なさが交じる問いに、誠は肩をすくめて笑った。その軽薄なまでの明るさに、彩香は胸の奥が冷たくなるのを感じていた。あの布団倉庫で見た、彼の弱さはどこへ行ってしまったのだろう。
「まあね。行ってもやること同じだし、別に俺がいなくても回るからさ」
軽い口調に、彩香の眉が僅かに動く。その表情は、どう続ければいいのかを探しているようだった。
「でも……チェロ好きだったじゃない。あんなに練習してたのに」
その声には微かな震えが含まれていた。誠は一瞬、目を逸らし、すぐに表情を整えて笑顔を浮かべる。
「好きとか嫌いとかじゃなくてさ……なんか今は別にいいかなって感じ」
「そっか……」
彩香はそれ以上何も言わなかったが、その顔には納得できない感情が滲んでいる。沈黙が二人の間に流れた。遠くから聞こえるクラスメートたちの笑い声だけが廊下に響いている。その中で彩香は窓の外を見つめながら、小さな声で呟いた。
「私……もっとちゃんと話せばよかったのかな」
「え?」
誠が聞き返すと、彩香は慌てたように首を振った。
「ううん、なんでもない。ただ……宮村くんが音楽部来なくなったのって、沙良ちゃんとのことも関係あるよね」
その言葉に誠の動きが一瞬止まる。しかし、すぐにいつもの軽い笑顔を浮かべた。
「まあ、それもあるかもね。でも別に大したことじゃないよ」
さらりと流すその態度に、彩香は何かを言いかけて飲み込んだ。その沈黙が再び二人を包む。やがて、彩香は小さく声を落として続けた。
「私……何もできなかったから……ごめんね」
その言葉には後悔と苛立ちが滲んでいた。誠は少しだけ考え込むように視線を落とし、柔らかな声で返す。
「謝ることなんて無いよ。藤井さんがいてくれたから、……俺は本当に助かってたんだ」
予想外の言葉だったのか、彩香は驚いたように目を見開いた。けれどもすぐに小さく頷き、微笑む。その笑顔は、どこか無理をしているように、誠には見えた。
「……どうした? 俺、何か変なこと言ったかな」
誠が尋ねると、彩香は慌てて首を横に振った。
「ううん、そんなことない。ただ……『助かってた』って、過去形なんだなって、ちょっと思って」
その言葉に、今度は誠が息を呑む番だった。彼女は、自分の言葉の表面だけではなく、その裏側にあるものまで感じ取ろうとしている。その真剣な眼差しから、誠は逃れることができない。
「でも……、沙良ちゃんのこと、本当はどう思ってるの?」
彩香は、心配そうに誠の顔を覗き込みながら、まっすぐに核心を突いてきた。誠は一瞬だけ顔を強張らせるが、すぐに笑顔を作り直す。
「どうって……もう終わったことだよ」
その言葉には確かに諦めが感じられる。だが、その裏に隠れた未練と苦しみが透けて見える気がして、彩香は小さく息を吐いた。そして再び窓の外へと視線を向ける。
「宮村くん……無理しないでね」
小さなその言葉には、自分自身への戒めのような響きもあった。
「ありがとう」 誠の返事は短かったが、その中には確かな感謝が込められていた。




