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第16話 傷つくことだけ上手になって


 十月の終わり、深山高校の校庭には落ち葉が舞い始めていた。朝晩の冷え込みが増し、秋から冬へと移り変わる季節の中で、宮村誠は学校生活に意味を見いだせなくなっていた。


 授業中、誠は教科書を開いたまま窓の外を眺めていた。風に吹かれて舞う枯れ葉が視界に映る。その頼りない動きは、自分自身の姿と重なるようだった。ノートにペンを走らせるクラスメートたちとは対照的に、自分だけが止まっている気がしてならない。息苦しさを感じた誠は、授業中にもかかわらず席を立った。


 廊下を歩くと、自分の足音だけが響く。その軽さは空虚さと紙一重だった。校舎を抜けると冷たい風が顔に当たり、ほんの少しだけ現実感が戻った。


 四柱神社。最近、誠がよく訪れる場所だった。石段を上り切ると、小さな境内には落ち葉が積もり、冷たい風が木々の間を吹き抜けていた。人気のないその空間は、誠にとって唯一心が静まる場所だった。境内の隅に腰掛け、誠はぼんやりと時間が過ぎていくのを感じていた。


 ポケットからタバコを取り出し火をつける。煙が空へ消えていく様子を眺めながら、小さな祠で揺れる風鈴に目を留めた。その音色は懐かしくもあり、不思議と胸元に痛みを伴わせた。それが沙良への未練なのか、自分への失望なのか、答えは出なかった。


 音楽部——かつて自分に居場所があると思えた場所。しかし今では、その居場所すら意味を感じられなくなっていた。練習に顔を出してもチェロを手に取ることすら億劫で、一人黙々と練習する部員たちを見るだけで帰ってしまう日もあった。チェロケースを背負ったまま校門を出るとき、その重みだけが現実味として残った。それでも、その重みすら自分には過ぎたものだと思えてならなかった。


 夜になると、自室のベッドで天井を見つめる時間が増えた。眠気は訪れず、代わりに過去の出来事ばかりが頭を巡った。沙良との別れ、高松での彩香との出来事——その記憶は鮮明で、それ以上でもそれ以下でもなかった


 十一月になると深山高校周辺には初霜が降り始めた。朝晩の冷え込みは一層厳しくなり、生徒たちは厚手のコートや手袋で身を包むようになった。その寒さは誠にとって心まで凍りつかせるようだった。学校帰り、通学路で藤井彩香とすれ違う。「宮村くん、お疲れさま」彼女は軽く笑顔を見せながら声をかけてきた。その穏やかな態度には救われるものもあった。しかし、それ以上言葉を交わすこともなく、その場ですれ違うだけだった。


ある日の放課後、誠は目的もなく校舎を彷徨っていた。音楽室へ向かう気力もなく、ただ冷たい廊下を歩いていると、普段は使われていない講堂の扉がわずかに開いていることに気づいた。中から、くぐもった声が聞こえてくる。


 「……なんで、お前は俺を分かってくれないんだよ!」


その叫びは悲痛だったが、次の瞬間、彼は「ちくしょう!」と悪態をつき、舞台の床を軽く蹴った。セリフがうまく言えずに、もがいているようだった。


 「何やってんだ?」


誠が声をかけると、その男子生徒——大澤淳平は、驚いて振り返った。一瞬、素の悔しそうな表情が覗いたが、すぐに人懐っこい笑顔に切り替わる。


 「うおっ! 見てたのかよ、恥ずかしいとこ」


 「演劇部?」


 「そうそう! いやー、こんなとこでやってると怪しいよな。でもさ、教室とかじゃ集中できなくてさ」


 「役になりきってるときって、自分を忘れられるから最高なんだよな」


大澤は、何事もなかったかのように屈託なく笑う。その言葉が、誠の心に小さな棘のように刺さった。


 「宮村だっけ? 音楽部だよな?」


 「チェロ弾いてるんだろ? カッコいいじゃん!」


 失恋からずっとくさっていた誠だったが、大澤の明るさに引き込まれるように少しずつ口数が増えていった。


 ある日、いつものように四柱神社の境内でタバコを吸っていると、大澤がひょっこり現れた。


 「よお、宮村。お前もサボりか?」


 「まあな」


 大澤は誠の隣にどかりと腰を下ろし、慣れた手つきでタバコに火をつけた。


 「なあ、大澤。お前、いつも楽しそうだよな」誠は、吐き出した煙の行方を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「演じるのって、そんなに楽なのか?」


 大澤は一瞬、動きを止めた。そして、遠い目をして、ふっと笑う。


 「楽、ねえ……。楽っていうか、マシなんだよ。素の自分でいるよりは、ずっと」


 その横顔は、いつもの彼とは違う、少しだけ影のある表情をしていた。


 「それに、舞台の上で失敗して傷つくのは、俺じゃなくて、その役だからな」


 大澤は一度言葉を切り、細く長く煙を吐き出した。その煙が冷たい空気に溶けて消えるのを、まるで何かを確かめるように見つめている。


 「……まあ、代償がねえわけじゃねえけど」


 その言葉の真意を、誠はまだ完全には理解できなかった。だが、「演じる」ことの甘美さと、その裏にある危うさの両方を、確かに感じ取っていた。


 (そうだ……演じればいいんだ。本当の自分じゃなければ、傷つくことなんてない。別の誰かになってしまえば、どんな痛みも、そいつに押し付けられるじゃないか)


 それは、暗闇の中で見つけた、唯一の光のように思えた。


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