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第15話 宮村くんらしいね


 深山高校蜻蛉祭 初日。


 校内は朝から活気に満ちていた。模擬店や展示を楽しむ生徒や来場者たちの笑い声が廊下や教室に響き渡り、夏の終わりを告げる蝉の声と混ざり合っていた。


 体育館での演奏会が終わり、部員たちは片付けに取り掛かっていた。誠はチェロをケースに収めながら、無意識に彩香の姿を追っていた。すると片付けを終えた彩香が一人で体育館を出ていくのが見えた。迷いが心を掠めたが、誠はそれを振り払うように後を追った。


 校舎裏はひっそりと静まり返っていた。遠くから模擬店の賑わいが微かに聞こえる中、その静けさがかえって二人の間に張り詰めた空気を作り出していた。木陰で立ち止まった彩香が振り返る。


 「宮村くん……何?」 その声には、ほんの少しの警戒心が滲んでいた。誠は足元に視線を落とし、息を吐くと、ようやく口を開いた。


 「……あの日のことなんだけど」


 彩香の表情がわずかに固くなる。その反応に、一瞬気後れしたが、胸の中の思いが背中を押した。


 「本当にごめん。俺……自分でも何やってるのか分からなかった」


 彩香は目線を逸らし、短く息を吐いた。その仕草には怒りよりも困惑が混じっている。


 「……私も、何も言えなかったから」


 責める言葉ではなかった。それがかえって、誠の胸に深い自責の念を生む。


 「でも、俺が悪いんだ。取り返しのつかないことをしてしまった。本当に……ごめん」


 誠は深々と頭を下げた。顔を上げると、彩香が静かにこちらを見つめていた。瞳の中には、迷いとともに微かな優しさが宿っている。


 「宮村くん」彩香は一度、誠の名前を呼び、何かを言いかけて口を閉じた。一瞬言葉を探すように視線を彷徨わせ、それから、ふっと息を吐くようにして口元にかすかな笑みを浮かべた。


 「……そんなに気にしないで。もういいよ」


 その言葉に、誠は救われたように顔を上げた。そして、感謝の気持ちを伝えようと、無意識に一歩踏み出した、その瞬間。


 彩香の肩が、びくりと小さく震えた。それに気づいた誠の足が、ぴたりと止まる。


 「……ごめん」


 誠の声は、ほとんど吐息に近かった。


 「まだ、怖いよな」


 その言葉に、彩香はハッとして顔を上げた。そして、慌てて首を横に振る。


 「ううん、そんなことない。ただ、ちょっとびっくりしただけ……」


 その声が、かえって真実を物語っていた。気まずい沈黙が、二人の間に落ちる。


 彩香は一度きゅっと唇を結び、それから意を決したように口を開いた。


 「私も、宮村くんとちゃんと話したかった。あの日から、なんとなく距離を置いちゃってたけど……。それじゃ、ダメだよね」


 彼女の言葉には、誠への責任転嫁ではなく、自分の未熟さへの反省が込められているようだった。誠はその気持ちを受け取ると、胸の奥の重さが、先ほどとは違う意味で、ずしりと増したのを感じた。


 「……ありがとう」誠の声は掠れていた。「そう言ってくれて。でも、本当に悪かったと思ってる」


 「うん」


 彩香は小さく頷くと、少しだけ躊躇うように視線を落とし、それから続けた。


 「お母さんから、聞いたよ。電話のこと」


 「えっ……」


 「『澤村さんも好きだけど、彩香さんも好きなんです』って言ったんでしょ?」


 「えっ、あっ」情けない声が出た。


 おそるおそる、誠は尋ねる。


 「お母さん。……何て言ってた?」


 「別に、何も。ただ、ちょっと笑ってたかな」


 「そっか。……それで、藤井さんは、どう思った?」


 彼女にどう思われたか。それが、今一番聞きたいことで、一番聞きたくないことだった。


 彩香は少し困ったように、でもどこか楽しそうに、いたずらっぽく笑った。


 「なんてこと言うんだろうって、思ったよ。でも、まあ。……宮村くんらしいね」


 その言葉と、無理のない笑顔に、誠は救われたような気持ちになった。しかし、彼女の笑顔の裏にある、まだ癒えていない傷の深さまでは、想像することができなかった。


 二人の間に訪れた沈黙は、これまでとは違い、どこか穏やかなものだった。遠くから聞こえる模擬店の喧騒や蝉の鳴き声だけが耳元をかすめていく。


 「……じゃあ、戻ろうか」


 彩香がそう切り出すと、誠は静かに頷いた。そして二人並んで歩き出す。その足取りにはまだぎこちなさが残っていたが、それでも確かに、何かが動き始めているのを感じていた。


 蜻蛉祭最終日。


 彩香との和解は、誠の心に微かな光を灯した。だが、その光は、彼が失ったものの影を、より一層濃く映し出すだけだった。


 誠は、誰と約束するでもなく、ただ当てもなく校内を彷徨っていた。模擬店の呼び込みの声、バンド演奏の歪んだギターの音、楽しげに笑い合う生徒たちの群れ。そのすべてが、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、ひどく遠く感じられる。


 中庭に差し掛かった時、人だかりの中心に、沙良の姿を見つけた。彼女は数人の男女に囲まれ、屈託なく笑っている。その笑顔は、誠が知っている、好きだった頃の笑顔そのものだった。その輪に、自分が入り込む隙間など、どこにもない。それでも、誠は目を逸らすことができなかった。


 不意に、彼女と目が合った。ほんの一瞬。誠の心臓が、小さく跳ねる。だが、沙良は次の瞬間、まるで道端の石でも見るかのように、すっと視線を逸らした。その瞳には、何の感情も、ためらいさえも浮かんでいなかった。その無関心こそが、どんな言葉よりも雄弁に、二人の関係が完全に終わったことを物語っていた。まるで、自分だけが色のない幽霊にでもなってしまったかのように。


 蜻蛉祭も終盤に差し掛かり、校内はファイヤストームの準備に向けた慌ただしい空気に包まれていた。夕焼けが校舎の窓ガラスを赤く染め、生徒たちの笑い声やアナウンスが遠くから交じり合って響いてくる。


 誠は昇降口の前で立ち尽くし、ぼんやりとその光景を眺めていた。


 (沙良……)


 心の中で彼女の名前を呼ぶたび、胸の奥に鈍い痛みが広がる。別れから今日まで——沙良とは一度も言葉を交わしていない。目を合わせることすら避けられている。彼女にとって、自分はもう、廊下の染みや壁の傷と変わらない、意味のない風景の一部なのだろう。その認識が、どんな言葉よりも誠の心を抉った。


 蜻蛉祭がフィナーレの盛り上がりを迎える前に、誠は一人、校門を出た。夕焼けが夜の帳へと移り変わる頃、街灯がぼんやりと点灯し始めている。足元に伸びた自分の影が、長く細く揺れていた。その影が象徴する孤独さが、じわじわと心の隙間に入り込んでくる。


 肩にかかるチェロケースが、鉛のように重い。


 入部を決めたあの日。沙良と共に奏でた旋律。それが、誠にとって音楽そのものの意味だった。その意味を失った今、この重たい楽器を、明日からどうやって背負えばいいのか、もう分からなかった。


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