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第14話 こんなものじゃ足りない


 キッチンのコンロでは、鍋がことことと音を立てていた。テレビから流れるニュース番組の音声が、その音に混じり合う。


宮村恵子は、夕食の準備をしながら時計を一瞥した。もうすぐ十九時になるというのに、二階にいる誠が部屋から降りてくる気配はない。


 (また、あの子は一人で抱え込んでいる……)


 恵子は、コンロの火を弱めながら、無力感に唇を噛んだ。ただの失恋ではない。あの子が心を閉ざす時、その瞳の奥に揺らめく、得体の知れない暗い影。あれを見てしまうと、声をかけることすら躊躇われる。自分が声をかければ、きっとあの子はもっと心を閉ざしてしまう。自分には、もうその資格がないのだ。


 (篤なら……。でも、あの子も東京にいる)


 結局、自分にできることは何もない。恵子は、ただ静かに鍋をかき混ぜることしかできなかった。


 ――


 部屋は薄暗く、閉ざされたカーテンが外の光を遮っていた。机の上には教科書や楽譜が無造作に積み上げられ、その隣には飲みかけのペットボトルが転がっている。


 宮村誠はベッドに横たわり、虚空を見つめていた。


(沙良……)


 その名を思うたび、胸の奥が鋭く痛む。振られてから一週間——それでも彼女との最後の会話が頭から離れない。「さよなら」という言葉、その時の表情。それらが深い棘となり、誠の心を苛み続けている。


 (何を間違えたんだ?)


 自問しても答えは出ない。ただ関係が終わったという事実が重くのしかかるだけだった。脳裏に浮かぶ彼女の姿や声を振り払おうと目を閉じると、別のものが忍び寄ってきた。


 (お前なんて必要ない)


 (誰もお前を求めていない)


 それは、どこかから聞こえてくる声のようでもあり、自分自身の思考が反響しているようでもあった。低く、冷たいその声が、頭蓋骨の内側に直接響く。誠は思わず身を起こし、耳を塞いだ。


 (気のせいだ……)


 それでも声は消えない。部屋の隅の暗闇が、まるで呼吸をしているかのように、ゆっくりと濃さを増していく。


 『お前は、からっぽだ』


 『お前には、何もない』


 自分の最も恐れている考えを、まるで他人の声のように突きつけてくる。その言葉一つ一つが、胸の奥の空洞で虚しく反響した。


 (眠れていないせいだ)


 額に滲んだ汗を手で拭いながら、自分自身にそう言い聞かせた。あれ以来まともに眠れていない。布団に入れば悪夢ばかりが襲い、目を閉じると囁きが蘇る。


 疲労でいつの間にか眠りに落ちる。しかし、それも長くは続かなかった。暗闇の中で沙良と彩香の姿が交互に現れる。彼女たちの冷たい視線と声が誠を追い詰めた。「最低だ」「どうしてあんなことをしたの?」という言葉が頭の中で響く。その声が次第に大きくなり、胸元には重苦しい圧力がかかるようだった。


 誠は短い叫び声を上げながら跳ね起きた。全身汗でびっしょりと濡れている。空気を求めても、喉が狭まってひゅうと音を立てるだけだった。時計を見ると午前三時過ぎ。たった三十分意識を失っていただけだった。布団越しに伝わる湿った感触だけが現実味として残っている。誠は乱れた息を整えながら天井を仰ぐ。


 布団から抜け出し、机にもたれかかるように座り込む。その手にはタバコが握られていた。しかし火をつける気力すら湧かなかった。ただ、沙良への未練と彩香への罪悪感——それらすべてが絡み合い、重く圧し掛かっていた。


 誠は机の引き出しを開けた。そこには、高松旅行で渡せなかった小さな箱が収まっている。沙良への誕生日プレゼントとして用意したものだったが、彼女に拒まれて以来、触れることを避けていた。


 (これ……)


 箱を手に取ると、その軽さが胸に刺さるようだった。蓋を開けると、中にはシンプルなネックレスが収まっている。指先でチェーンを撫でながら、彼女の「ごめん……受け取れない」という言葉がよみがえる。それはただの拒絶ではなく、諦めを含んだ目だった。


 (俺……何を伝えたかったんだ?)


 沙良に喜んでほしいという一心で選んだネックレス。しかし、そこに本当に彼女が望んだものはあったのか。彼女の「ごめん」に込められた意味を深く考えず、自分のことばかりだった未熟さが今さら胸に重くのしかかる。月の光を受けて微かに輝くチェーンをじっと見つめる。その輝きは、かつて沙良との関係に抱いていた希望そのもののように見えたが、今では手の届かないものだった。


 誠は机にもたれかかったまま、小さく息を吐いた。


 (こんなものじゃ……足りない)


 自分自身への苛立ちと同時に、小さな火種が胸元で灯った気がした。彼はネックレスをそっと引き出しへ戻すと立ち上がった。


 「まずは……藤井さんに謝らないと」 その声には微かな震えと決意が混じっていた。


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