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第13話 もう無理なのかな


 高松演奏旅行から戻ってきてから、一週間が経っていた。


 八月の空気はよどみ、部屋のカレンダーだけが、無感情に時が過ぎたことを告げている。夏休みだ。学校へ行けば会えるという、当たり前の日常は存在しない。


 帰宅したその日の夜、真っ先に沙良へ電話をかけた。


 彼女はれっきとした恋人だ。関係がどうであれ、まず修復を試みるのが筋だろう。そう自分に言い聞かせ、震える指で番号を押した。


 数回のコールの後、受話器の向こうから聞こえてきたのは、沙良本人ではなく、その姉の声だった。


 「沙良は今、電話に出たくないみたい。ごめんね」


 悪意のない、だからこそ残酷なその一言で、誠の望みはあっけなく断ち切られた。それ以来、沙良との関係は完全に膠着していた。会うことも、話すこともできない。時間だけが、無為に過ぎていく。


 そして、もう一つ。


 日に日に重くなっていくのが、藤井彩香への罪悪感だった。布団倉庫での、あの出来事。逃げるように去っていった彼女の背中。謝らなければならない。頭では分かっている。だが、彼女とも会うことはできない。その気まずさが、電話をかける勇気を鈍らせる。


 (なんて言えばいい? そもそも、電話に出てくれるのか?)


 思考は堂々巡りを繰り返し、ただ時間だけが過ぎていく。


 沙良の件は、理由がわからないのだから、考えても仕方がない。だが、彩香の件は違う。あれは、はっきりと俺が悪い。このまま何もしなければ、彼女の中で俺はただの「最低な男」で終わってしまう。それは、まずい。その焦りだけが、動けずにいた誠の指を、無理やり受話器へと伸ばさせた。


 数回の呼び出し音の後、電話口から女性の声が聞こえた。


 「はい、藤井です」


 それは彩香ではなく、おそらく彼女の母親だった。


 「あ……深山高校で彩香さんと音楽部で一緒の宮村です。あ、あの……彩香さんはいらっしゃいますか?」


 誠はぎこちなく言葉を続けた。すると、少し間があってから母親が答えた。


 「彩香ならいますけど……ちょっと待ってくださいね」


 受話器越しに聞こえる足音と小さな声——「彩香、電話よ。宮村くんだって」


 しかし、その後すぐに母親が戻ってきた。


 「ごめんなさいね、今ちょっと出たくないって言ってるの」


 その言葉に誠は一瞬だけ戸惑った。しかし、このまま引き下がるわけにはいかなかった。


 「あの……すみません。僕、彩香さんに謝りたいことがあるんです」


 受話器の向こうで、母親が小さく息を呑む気配がした。


 「謝りたいこと……?」


 誠は息を整えながら言葉を続けた。


 「僕、高松で……彩香さんに、ひどいことをしてしまいました。本当にごめんなさい」


 受話器越しに母親が静かになった。そして次の瞬間、「そう……」とだけ答えた。その声には真剣さと少しばかりの困惑が混じっているようだった。さらに言葉を続けようとした誠だったが、自分でも何をどう伝えるべきか分からなくなっていた。胸の奥で絡み合う感情が言葉にならず、それでも何か言わなければという衝動だけが彼を突き動かした。


 「僕……澤村さんのことが好きなんですが……彩香さんのことも好きなんです」


 その言葉が口から出た瞬間、自分でも驚いた。(俺……何言ってるんだ?)


 受話器越しに沈黙が流れる。それはほんの数秒だったかもしれない。しかし誠には永遠にも感じられた。そして次の瞬間——受話器越しから小さな笑い声が漏れた。


 「宮村くん……正直ね、それ聞いてどう反応すればいいか分からないわ」


 その声には怒りや失望ではなく、どこか呆れと温かさが混じっているようだった。


 「でもまあ、あなたなりに真剣なのね。それだけは伝わったわ」


 そして少し間を置いてから母親はこう付け加えた。


 「ただね……彩香はまだ子どもなので、あまりひどいことをしないでくださいね」


 その言葉には軽い冗談めいたトーンも含まれていたものの、その奥には娘への配慮と優しさも感じられるものだった。電話を切った後、誠は机に突っ伏した。


 (俺、本当に何やってるんだよ……)


 謝罪するつもりだった。それなのに、自分でも理解できない告白までしてしまった。その場で感情的になった自分への嫌悪感と混乱でどうにかなりそうだった。高松演奏旅行から戻った後、藤井彩香や澤村沙良と顔を合わせる機会はなかった。


 電話での謝罪と告白。それは彩香本人ではなく、彼女の母親に向けられたものだった。受話器越しの母親の声は穏やかで、自分への気遣いが伝わってきたが、その優しさが逆に誠を苦しくさせた。


 「あまりひどいことをしないでくださいね」


 母親が最後に冗談めかして言った言葉は、むしろ十六歳の誠を思う深い配慮が込められていた。そのことに気づいたとき、誠は自身の未熟さと不甲斐なさを痛感した。


 (彩香はどう思ってるんだろう……)


 母親があの話を彩香に伝えたかどうか、それすらも誠には分からなかった。電話で口にした「澤村さんも好きだけど彩香さんも好き」という言葉。それが自分の本心なのかどうか、誠には分からなかった。沙良のことが好きなのは間違いない——でも、もしかしたら彩香のことも好きなのではないか。


 これまで自覚していなかった感情が、自分自身の中で静かに広がり続けていた。それは不安とも焦りともつかない感覚で、考えれば考えるほど混乱だけが深まり、出口の無い迷路にはまり込んだようだった。


 一方で、澤村沙良との関係は完全に冷え込んでいた。プレゼントを拒否されたあの日から、彼女は誠との接触を明確に拒み続けていた。電話をかけても出てもらえず、直接会う機会もないまま時間だけが過ぎていく。沙良の態度には理由があることは分かっていたが、誠にはどうすることもできなかった。


 八月後半、お盆明けの音楽部合宿が始まった。


 この合宿は文化祭での演奏会に向けた準備として行われており、場所は学校だった。部員たちはそれぞれ教室や音楽室で練習に励んでいたが、練習中も廊下にも、どこか夏休み特有の静けさが漂っていた。


 久しぶりに顔を合わせる彩香と沙良——二人とどう接すればいいのか。


 練習後、誠は意を決して沙良に声をかけた。


 「沙良、少し話せる?」


 彼女は一瞬だけ戸惑ったようだったが、すぐに「うん」と頷いた。二人は無言のまま校舎裏へ向かう。木々が作る薄暗い木陰の中、蝉の声が途切れ途切れに響いている。誠は一歩先に歩きながら、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえるのを感じていた。校舎裏に置かれたコンクリートブロックに二人並んで腰掛けた。日差しを遮る木の影が彼らを包むが、会話の影はそれ以上に深かった。長い沈黙の後、誠がぽつりと口を開いた。


 「高松から……なんか変だよね」


 沙良は少し目を伏せ、唇を結んだまま頷く。


 「うん……そうだね」


 その短い返事が、誠の胸に刺さるようだった。


 「俺……何か悪いことしたかな?」


 誠の言葉には焦りが滲んでいた。沙良は少しだけ眉を寄せ、ゆっくりと首を横に振る。


 「そういうわけじゃないと思う。ただ……」


 「ただ……何?」


 誠の声は思わず強い調子になってしまった。その瞬間、沙良の反応に気づき、胸の奥で小さな罪悪感が疼く。しかし沙良は顔を上げず、ため息を交えるようなかすれた声で続けた。


 「私……どうしても許せないことがあるみたい」


 許せない。誠の中で、その言葉が小さな爆弾のように響いた。


 (許せない? 俺、何をしたっていうんだ?)


 言葉を失った彼に気づくこともなく、沙良は俯いたまま話を続ける。


 「自分でもよく分からないんだ。ただ、このままじゃダメだと思う」


 感情を押し殺したような声。しかし、その言葉が誠には重たくのしかかった。


 「じゃあ、どうすればいいんだよ!」


 声を荒げた自分に、誠は即座に後悔した。だが、沙良はその声に反応することもなく、小さく首を横に振る。


 「もう無理なのかな……」


 静かな声。それなのに、誠の心に鋭く刺さり、耳鳴りのように残り続けた。その言葉に対して、誠は何も言えなかった。喉が詰まり、胸が押しつぶされそうになる。


 沙良は一瞬だけ誠を見つめた後、すぐに目を逸らした。その白い指先が、スカートの生地を強く握りしめているのが視界の端に入った。


 その言葉が、耳の奥で意味を結ぶのに、ひどく時間がかかった。蝉の声が、急に遠くなる。代わりに、自分の心臓の音だけが、頭蓋骨の内側で大きく響き始めた。喉の奥が乾ききって、何かを言おうとしても、ひゅう、と乾いた息が漏れるだけだった。


 「さよなら」


 沙良は最後にそう呟くと、ゆっくりと立ち上がった。その背中には決意とわずかな寂しさが混じり合っているように見えた。


誠は、何も言えなかった。ただ、座り込んだまま沙良の背中を見送る。


遠ざかっていく足音に重なるように、蝉の声だけが、やけに大きく、耳の奥で鳴り響いていた。


 (どうすれば、よかったんだ……)


 その問いは、答えを持たぬまま、夏の終わりの空気に溶けていった。


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