第11話 あの夜、僕がしてしまったこと
沙良へのプレゼントを購入した日から、一週間以上が経っていた。
誠はそのネックレスを机の引き出しにしまい込み、何度も確認しては蓋を閉じる。渡すタイミングを考えるたびに体の芯がそわそわと落ち着かず、息が浅くなるのを感じた。
「これで本当に大丈夫だよな……」
呟く声が、静かな部屋に溶けていく。二人は付き合い始めてから、まだ手もつないでいない。沙良のことが好きだからこそ、どう接すればいいのか分からなくなってしまう自分が情けない。この間も、廊下でばったり会った時、つい挙動不審になってしまった。彼女の訝しむような目が頭から離れない。
プレゼントを渡すことが、彼女との距離を縮めるきっかけになるかもしれない。そんな期待と不安が、交互に押し寄せていた。
そして、高松への演奏旅行の日がやってきた。
音楽部のメンバーたちは朝早く学校に集合し、大きな荷物を抱えて最寄り駅へ向かう。集合場所に着くと、誠は彩香の姿を見つけ、頼まれていた楽譜のコピーを渡した。彼女は少し驚いたように目を見開き、それから「ありがとう」と小さく頷いただけだった。その後、先輩たちに挨拶をしたり、他の部員と荷物の確認をしたりしているうちに、出発の時間が近づいてきた。ふと視線を向けると、少し離れた場所に沙良が一人で立っているのが見えた。「おはよう」と声をかけたが、彼女の態度はどこかよそよそしかった。一瞬視線を逸らされ、返ってきた挨拶もいつもより少しだけ硬い。
(疲れてるのかな……)
その時は深く考えなかったが、電車に揺られているうちに、その小さな違和感が棘のように胸に引っかかり始めた。
松本駅から特急で名古屋へ、新幹線で岡山を経由し、瀬戸大橋を渡って高松へ。長い道のりだ。車内では部員たちの賑やかな声が響いている。お菓子を回したり、写真を撮ったりと楽しそうな様子が広がる中、誠は一人、窓の外に目を向けていた。流れる景色はどこかぼんやりとしていて、自分だけが取り残されているような感覚に襲われる。
遠くに見える山々が次第に霞んでいくのを眺めながら、彼女へのプレゼントが自分たちの関係にどんな影響を与えるのか考えずにはいられなかった。
瀬戸大橋線へ乗り換えた頃には、車窓から見える瀬戸内海の穏やかな景色が広がっていた。
「すごい……海だ」
思わず呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。その瞬間だけは、不安よりも旅の高揚感が勝っているように感じられた。夕方、高松駅に到着し旅館に着くと、部員たちはそれぞれ荷物を運び込み、慌ただしく準備を始めた。廊下では先輩たちが声を張り上げて指示を出し、部屋割り表と睨めっこしている様子が見える。誠も自分の部屋に荷物を置き、一息つこうと腰を下ろした。
夕食後には共有スペースで簡単なミーティングが行われ、その後は自由時間となった。翌日の演奏会に備えて早めに休む者もいれば、部屋で談笑を続ける者もいる。誠は布団に横になりながら目を閉じてみたものの、様々な思考がかけめぐり眠れるわけも無い。布団越しに伝わる微かな振動や隣から聞こえる先輩たちの寝息が、かえって神経を逆撫でするようだった。目を閉じても浮かぶのは、リュックに大事にしまったネックレスと沙良の顔ばかりだ。それらが頭の中で絡み合い、眠気を遠ざけていく。
耐えきれなくなった誠はそっと布団から抜け出した。廊下は薄暗く、人影はほとんど見当たらない。窓から差し込む月明かりが床にぼんやりと映り込み、虫の声だけが静寂の中で響いている。スリッパ越しに伝わる冷たい床板の感触が、少しだけ意識を現実へ引き戻すようだった。
廊下を歩き回るうちに、自分でも何をしているのか分からなくなってきた。ただ、このまま布団に戻っても眠れる気はしなかった。(沙良……今頃寝てるかな。それとも先輩たちとまだ話してるんだろうか)そんな思いが頭をよぎる。
ふと廊下の先に人影が見えた。誰かが扉をそっと開け、中へ入っていく。その仕草からして女性だと分かった。扉には「布団倉庫」と書かれた札が掛けられている。(こんな時間に……?)
誠は足音を忍ばせながらその扉へ近づいた。少しだけ開いた扉から漏れる微かなため息が耳に届く。恐る恐る中を覗くと、そこには彩香が座り込んでいた。積み上げられた布団にもたれるようにして座り込み、その肩は小さく震えているようだった。
「藤井さん?」 誠が声をかけると、彩香は驚いたように顔を上げた。
「あ……宮村くん」
その声にはいつもの穏やかさがなく、不安定な響きがあった。誠は一瞬迷ったものの、扉をそっと開けて中へ入った。中に入り、そっと扉を閉めると、倉庫はほとんど暗闇になった。
「どうしたの? こんなところで」 彩香は視線を落としたまま、小さな声で答えた。
「さっき先輩に叱られて……私、まだまだダメだなって……」
誠は慎重に彼女の隣に腰を下ろした。冷たい床板が背中越しに伝わる。その距離はほんの十センチほどだったが、暗闇の中ではもっと近くに感じられる。
「そんなことないよ」
「藤井さん、いつも頑張ってるじゃん。俺だっていつも助けられてるし……」
彩香は小さく首を振った。
「でも……私、いる意味あるのかな……」
その言葉には深い自信喪失が滲んでいた。暗闇の中で表情は見えない。肩越しに聞こえる微かな息遣い、その間隔がどこか不規則で、喉奥から漏れる小さな音——それらすべてが涙を堪えているように思えた。
(泣いてる?)確信は持てなかった。それでも彼女を放っておけない気持ちだけが胸の奥で膨らんでいく。沙良への想いとは違う何か——自分でも説明できない感情が、自分を突き動かしているようだった。
「そんなことないって!」
少し強めの口調になった自分に驚きながらも、言葉を続ける。
「藤井さんみたいな人がいる意味がないなんて、絶対ないよ」
彩香は小さく息を吐いたようだった。それでも顔を上げる気配はなく、膝の上で組んだ手だけが微かに動いているようだった。
「大丈夫だよ」 そう言いながら誠は手を伸ばした。彼女を安心させたい——その一心だった。肩に手を回してそっと抱き寄せようとしたその瞬間、距離感を見誤り手は自然と彩香の胸元に触れてしまった。
思考が、止まる。
指先に伝わる、信じられないほど柔らかな感触。薄い布越しに、速い鼓動が伝わってくる。脳が焼き切れるような熱が全身を駆け巡った。
(引け)
頭の中で誰かが叫ぶ。なのに、左手がまるで自分の意志とは無関係に、その感触を確かめるように、ほんの僅かに、動いた。
——最低だ。
彩香が小さく息を呑む音とともに身じろぎすると、誠もハッとして手を引っ込めた。しかしその時にはもう遅かった。彩香は立ち上がり、その場から逃げるように布団倉庫の出口へ向かった。残された誠はその場で呆然と座り込んでいた。
(俺……何やってんだよ……!)
左の手のひらに、まだ熱と、柔らかな感触と、速い鼓動の記憶が焼き付いている。罪悪感と自己嫌悪で吐き気がした。それでも、あの瞬間に感じてしまった歓喜の残滓が、消えない染みのように心にこびりついていた。
(最低だ……俺、本当に最低だ)
拳を握りしめ、自分自身への怒りで頭がいっぱいになる。沙良への想いとは違うこの感情——それについては考えることすら怖かった。
「明日……ちゃんと謝らないと」
胸元に広がるざわつきは、彼女を傷つけてしまった罪悪感で満ちているはずだった。だが、その中に混じる、自分でも認めたくない「もう少しだけ触れていたかった」という思いが、さらに自分を苛立たせた。
足取り重く布団倉庫から出て、自分の布団へ戻ったものの、眠れる気配などなかった。ただ窓越しから聞こえる虫の声だけが耳元で反響していた。




