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第1話 好きな人がいるの


 「ごめんなさい」


 その一言が鼓膜を揺らした瞬間、周囲のざわめきが、すうっと遠ざかっていく。心臓だけが、やけに大きく、不規則なリズムを刻み始める。じっとりと滲んだ手のひらの汗が、夕暮れの冷たい空気で急速に冷えていく。葉子の顔を見つめていたはずの視線は、いつの間にか自分の汚れたスニーカーの爪先へと落ちていた。


 葉子は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに困ったように眉を寄せた。ポニーテールがふわりと揺れ、制服の襟元から覗く白い肌が夕陽に照らされてどこか儚げだ。それでも、彼女の態度には迷惑そうな色が隠しきれない。軽くため息をつくと、続けた。


 「ごめんね。でも」


 少し言葉を選ぶように間を置いて、冷たく突き放すように言い放った。


 「私、サッカー部の榊くんが好きなの」


 その瞬間、胸の奥で何かが砕け散る音がした。いや、本当は砕けたんじゃない。もともとひび割れていたものが、音もなく崩れ落ちただけだ。それでも、その言葉は硝子の破片のように容赦なく突き刺さる。


 「榊……」


 誠はその名前を心の中で繰り返す。サッカー部のキャプテンで、学校一の人気者。イケメンで運動神経も抜群だが、成績はさほど良くない。クラスの女子たちが彼に群がる様子を見るたび、「またか」と苦笑していた相手だ。そして今、その男が理由で振られたという現実が何よりも耐え難い屈辱だった。


 頭の中で思考がぐるぐると回り始める。


 「振られた」「なんで俺じゃなくてあいつなんだ?」「振られた」「榊?」


 「振られた」「ほらね」「振られた」「くそっ」「振られた」「こんなもんさ」


 「振られた」


 ――


 「うわっ!」


 叫び声とともに飛び起きた。冷たい汗が額を伝い、シーツが肌に張り付く感触が不快だ。ドクン、ドクンと暴れる心臓の音が耳の奥で響き、浅い呼吸を繰り返す。


 夢だ――そう自分に言い聞かせても、胃の底に沈殿したままの昨日の夕食みたいな重苦しさは消えない。


 「またかよ……」


 滲んだ汗を手の甲で乱暴に拭い誠はゆっくりと体を起こした。薄い朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の埃をきらきらと照らし出している。時計を見るとまだ学校へ行くには早すぎる時間。それでも、再びあの悪夢の中へ戻る気には到底なれなかった。


 葉子に振られてからこの夢ばかり見る。振られる瞬間の彼女の声、困ったような迷惑そうな表情。それらすべてが鮮明に蘇り、そのたびに心臓が冷たい手で握り潰されるような感覚に襲われる。


 「榊か……」


 誠は小さく呟いて自嘲気味に笑った。


 ベッドから降りて姿見の前に立つ。そこにいたのは肩を丸め、光のない目でこちらを見返す知らない誰かだった。ストレートの黒髪が額に張り付いている。それを無意識につまむと指先に空虚な感触だけが残った。


 いつからだろう。鏡に映る自分がまるで知らない誰かのように見えるようになったのは。昔はもっとうまく笑えていたはずなのに。親の言うことをよく聞く、手のかからない「良い子」だったはずなのに。


 自分には何かが欠けている、そんな感覚は物心ついた頃からずっとあった。この先も変わらないのだろうな、と鏡の中の男に諦めにも似た問いを投げかける。


 鏡の中の男と目が合う。


 その瞳にはどこかぼんやりとした虚ろさが漂っている。それが自分だと認識するのに数回、ゆっくりと瞬きをする必要があった。


 学校へ向かう道すがら誠はアスファルトのひび割れだけを数えながら歩いていた。朝の通学路には同じ中学へ通う生徒たちがちらほらと見えるが、その顔ぶれはどれも彼には興味を引かない。


 「どうせみんな同じだ……」


 クラスメートたちと話すことなんてほとんど意味がない。彼らは幼稚で、自分とは違う世界にいるような気がする。いや実際そうなんだろう、と心の中で自嘲気味に笑った。


 教室に入るといつもの光景が広がっていた。クラスメートたちは楽しそうに話している。その輪の中心には葉子もいる。ロングの黒髪をポニーテールにまとめ、快活に笑っている。その笑顔が視界に入った瞬間、喉の奥がキュッと狭まるような息苦しさを感じた。


 彼女から目を逸らし自分の席につく。葉子とはもう顔を合わせることさえできなくなっていた。気まずさや恥ずかしさ、自分自身への無力感――そんなものが押し寄せてくる。教室内はいつも通り賑やかだった。


 「ったく、元気なこった」


 誠は誰に言うでもなく呟いた。自分だけが、この教室の背景に溶け込めない染みのように浮いている。正確には自分から浮いているんだけど。でもそんなことを深く考えるのも面倒くさい。授業中も頭の片隅には常に葉子のことばかりが居座っている。「どうして僕じゃ駄目なんだ?」「僕には何か欠けてるのか?」そんな疑念や無力感が頭の中でぐるぐると回り続けていた。


 「宮村!」


 突然、担任の声が教室に響いた。誠はハッとして顔を上げる。どうやら授業中に指名されたらしい。しかし何を聞かれたのか全く分からない。歴史の授業だったっけ?それとも数学?口の中がからからに乾いて舌が上顎に張り付く。何か言わなければと焦るほど、頭の中は意味のない言葉で満たされていく。


 「え、あ……」


 情けない声が漏れた。クラスメイトの忍び笑いが耳の奥で不快に反響する。葉子に見られたくない。その恐怖だけで、思考が完全に停止した。


 「宮村、ちゃんと授業に集中しろよ」


 担任が呆れたように言う。誠は顔から火が出るのを感じながら、机に視線を縫い付けた。クラス全員から笑われた屈辱感と、自分自身への情けなさが冷たい水のように胸に広がっていく。


 『もう二度とクラスメートには告白しない方がいい』


 それは失敗から得た自己防衛策だった。誠は唇を噛む。防衛策というにはあまりに情けない、ただの逃避だ。でもそれでもいいんだ――どうせ俺なんてこんなもんさ、と心の中で呟きながら、また目線を足元へ落とした。その瞬間、床に伸びる自分の影がぐにゃりと歪んで見えた気がした。


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