雨音の声
雨が降り始めたのは、姉が亡くなった日と同じ夕暮れ時。
この雨音を耳にするたび、あの日のことを思い出す。
「……今日も雨ね」
母がぽつりと呟く。窓の外ではもう二週間も雨が降り続いている。
今年は梅雨明けが遅く、気象庁は「異常気象」と発表している。
この雨は姉が呼んでいるのだと、どこかで私は思っていた。
姉の部屋はあの日から何も変わっちゃいない。
制服がベッドの上に置かれたまま、教科書が机の上に広げられたまま。今すぐ帰ってきてもおかしくない感じ。
でも姉は帰ってこない。帰ってこられない。
「ねぇ、美月。……お姉ちゃんの部屋、一緒に片付けない?」
母が恐る恐る提案してくる。でも私はうんと言わない。
母の顔も見ずに返事をする。
「まだ早い」
「もう半年よ……」
「まだ、置いておこうよ」
雨音がだんだん強くなる。なんだか誰かが屋根を叩いているのかと一瞬思った。
風も唸って、窓を揺らしている。
あの日、姉は言った。
「美月ごめんね。お姉ちゃん、もう疲れちゃった」と、私にこぼした。
なのに私は何も言えなかった。
その時の姉の顔があまりにも穏やかで、安らいでいたから。
怖かった、それ以上なにか聞くのが。
……ただ、それでも何か言えばよかったと何度も思う。
姉は昔から水に関するものが好きだった。
雨の日には必ず窓際に座って、雨粒が窓を流れるのをじっと見つめてるような人。
雨が近づくと頭が痛くなる私と違って、雨が降ると水を得た魚とばかりに元気になっていた。
幼いころから続けていたスイミングスクールのおかげで校区内の女子じゃ誰よりも長く泳げたし、海でも怖がらずに遠く深いところまで行った。
一緒に通い始めたのに嫌になってすぐやめてしまい、未だに息継ぎすら出来ない私とは大違い。
その時も姉は「嫌ならしょうがないね」といってずっと一人で通い続けた。
「――だって水の中にいると、全部忘れられるの」
でも私は、そう言って笑う姉が大好きだった。
最期の方の姉は違った。学校でいろいろあったようだ。
でも言わなかった。
どう見ても辛そうなのに、聞いてもはぐらかされるばかりで。
それでも毎日帰ってくると、すぐに部屋に閉じこもって、シャワーを浴びる時間がどんどん長くなった。
「気づくと時間過ぎててさ」
特に何もしてないんだけど、と言って苦笑いしていた姉を覚えている。
あの日も、私と少し話した後、シャワーを浴びに行った。
でも途中で水音が止まってそれから……何の音も聞こえなくなった。
浴室のドアを叩いても返事がない。
母と一緒に無理やりドアを開けたとき、浴槽に温かいお湯が張られていて、姉は―――。
救急車を呼んだけど、遅かった。
静かに眠っているみたいだ、というのをドラマでよく見ていたけどそれが本当だと知った。
苦しそうじゃなくて、本当に安らかで……。
でも、浴槽のお湯は薄く赤く染まっていて、苦しくさせられた。
その後、父は「事故」だと言った。母も周りにはそういうように、と私に言った。
私も、両親も知っているのに。
姉の手首に傷があったのを。それに、浴室の隅に小さなカッターがあったのを。
姉は最後まで一人で抱え込んでいた。
私にも相談しないで、一人で決めてしまった。
雨粒の当たる音がさらに激しくなる。
”あれ”は雨漏りじゃないと聞いたけど少し心配になった。
最近、夜中に変なことが起こっている。浴室から水の音が聞こえるのだ。
誰もいないはずなのに、家族もあの日から使わなくなったのに。
栓も、蛇口も固くしめているのに。
シャワーの音や、お湯が張られる音が聞こえてくるのだ。
最初は水道の故障だと思った。でも業者に見てもらっても異常はない。
誰かはうちが呪われているのだと、……口さがない噂を流した。
姉がそんな人じゃないと知っていたはずなのに、よくそんなことが言えるなと理解に苦しむ。
同時に、やるせなさでいっぱいになる。
死んでからも姉を守れない自分が惨めで仕方なかった。
――今夜もまた、その音が聞こえている。
恐る恐る浴室に向かうと、ドアの隙間から光が漏れていた。
……誰か、いる?
でも家には母と私しかいない。そして疲れやすくなった母は既に寝ている。
ドアに手をかける。ドアノブは冷たくて、湿っていた。
ゆっくりと開けると明らかにおかしい。
浴槽にお湯が張られている。
湯気が立ち上って、鏡が曇っている。
でも誰もいない。
そのとき、鏡の曇りに文字が浮かび上がった。
『ごめんね』
姉の声が、耳に入る。
優しくて、少し勝手な姉の声。
「お姉ちゃん……?」
震える声で呼びかけると、湯気がゆらゆらと揺れ始めた。
そして湯気の中には、姉の姿がぼんやりと浮かんでいる。
「美月、一人にしてごめんね」
「お姉ちゃん、なんで……一人で……」
「ごめんね。お姉ちゃんだけ楽になっといて」
姉の顔が微笑んでいる。涙を流しながら。
私も涙が止まらない。
「そうだよ。お姉ちゃんがいないと、私……」
「大丈夫。美月は強い子だから。お姉ちゃんより、ずっと強いから」
霧のような姉がゆっくりとこちらへ手を伸ばす。
私も手を伸ばすけど何も触れられない。
けれど、その瞬間、姉の温もりを感じた。
「お姉ちゃんはいつもそばにいるよ。雨の音を聞いて。お姉ちゃんの声だと思ってさ」
姉がだんだん、薄く消えそうになっていく。
「行かないでよ……!」
「ごめんね。でも、もう苦しまないで。美月も、お母さんも、お父さんも」
あたりが冷たくなる。姉の顔はあっさり消えた。
でもさっきまでと違って雨音がとても優しく聞こえる。
まるで子守唄のよう。……姉にはいつもこんな感じで聞こえていたのだろうか?
浴室を出て、部屋に戻った。
ベッドに飛び込んで横になり、”声”に耳を澄ませる。
――姉は最後まで私たちのことを心配していたんだ。
だからこんなにも雨を降らせて、私たちと一緒に涙を流してくれている。
そう思うと、明日からの雨の日が楽しみになった。
姉の声を聞けるから。姉の存在を感じられるから。
でも同時にとても寂しく思う。
どうしても姉に会えるのは雨の日だけだから。
もう家で待っていても、彼女は帰って来ないのだ。
誰かいるかのように、こそっと呟く。
「お姉ちゃん。もし生まれ変わったときは……今度こそ、一緒に泳ごうね」
”声”が答えてくれた気がした。
浴室の音が例え呪いと呼ばれようが、それが何であれ――私はちっとも気にならなくなった。




