プロローグ
空港の到着ゲートを抜けると、湿気を含んだ熱風がアキトの頬を撫でた。日本とは違う、肌にまとわりつくような空気だ。初めての海外旅行だというのに、アキトの服装はTシャツにジーンズ、適当に詰め込んだリュック一つだけだった。
「藤沢さん! こっちこっち!」
明るく陽気な声が響く。見ると、人の良さそうな現地の男が笑顔で手を振っていた。人懐っこそうな瞳をした、浅黒く日に焼けた青年だ。
「ああ、どうもどうも! えっと、リンさんでしたっけ?」
「そうそう、リンだよ。いやー、長旅お疲れ様! 暑いでしょ? 車に冷えたジュースあるから、早く乗って!」
リンは気さくに肩を叩き、アキトのリュックを軽々と受け取ってくれた。妙な親切さが嬉しくて、アキトは呑気に微笑んだ。
車内に乗り込むと、リンは冷えた缶ジュースを差し出してくれた。
「日本じゃ仕事見つからないって聞いたけど、電話かけるだけで稼げるなんてラッキーだよ。すぐに大金持ちさ!」
「ほんと助かりますよ。俺、なんか昔から人に騙されやすくて。変な仕事じゃなくてよかったです」
アキトは無防備に笑いながら缶ジュースを開けて一口飲んだ。
「はは、安心してよ! 俺らに任せとけば大丈夫。悪いようにはしないからさ」
リンは快活に笑い、車はのんびりと郊外へ向かって走り出した。
やがて市街地から遠ざかり、人気のない細い道に入ったところで、突然車が停まった。アキトは不思議そうにリンを見た。
「あれ? 何かあったんですか?」
リンはさっきまでの優しい笑みを崩し、不機嫌そうに睨みつけた。
「いやさ、お前、なんか最初からヘラヘラ笑ってて気に入らないんだよね」
「えっ……?」
戸惑うアキトを見て、リンの目が冷たく鋭くなる。隣にいたもう一人の男がニヤリと笑いながら拳を固めた。
「ちょっと痛い目見れば、その馬鹿面も治るだろ」
男の拳が勢いよくアキトの腹に叩き込まれた――が、ゴツンという鈍い音がして、殴った男の顔が苦痛に歪んだ。
「痛えっ! なんだよこれ!」
「……あ、ごめんなさい、防弾プレート入れてました」
アキトはまだ呑気そうに頭を掻きながらTシャツをめくった。そこには無骨な金属板が仕込まれている。
「ふざけんな、このガキ!」
助手席の男が怒り任せに殴りかかったが、アキトはするりと身をかわし、その腕を掴んで力強く引き寄せる。男は勢い余って窓ガラスに頭を激しくぶつけ、そのまま意識を失った。
「な、なにやってんだ、お前!」
狼狽したリンが懐からナイフを取り出し、アキトに襲いかかった。しかし、アキトはまるで小さな子供の手を掴むようにリンの手首を掴み、そのままゆっくりとナイフを奪い取った。
「ちょ、ちょっと待てよ、お前……!」
「ほら、これ君のだろ?」
アキトは人懐っこい笑みを浮かべ、リンの太ももに深々とナイフを突き刺した。
「ぎゃあああああ!」
絶叫が響く中、アキトはさらにナイフを捻った。
「痛いよね、これ。でも安心して、死にはしないからさ。あのさ、俺馬鹿だから、丁寧に組織のこと教えてくれる?」
「わ、わかったよ、喋るから抜いてくれ!」
リンは激痛に涙目になりながら必死にうなずいた。アキトは満足そうにナイフを抜き取り、柔らかな笑みを取り戻した。
「最初からこうしとけば良かったよね。じゃあ改めてお願いするよ。俺は何も知らない間抜けな若者だから、ちゃんとアジトまで連れてってね?」
リンが蒼白な顔で頷くと、車は再びゆっくりと走り出した。アキトは何かを思い出したようにリュックを開け、中から小さな袋を取り出した。
「あ、そうだ。日本からお土産持ってきてたんだよね」
袋の中から出てきたのは、きびだんごだった。柔らかく包装された菓子を一つ摘まみあげると、アキトは楽しそうにリンの口元へと突きつけた。
「ほら、食べてみなよ。美味しいよ?」
リンが躊躇していると、アキトの目がすっと細くなる。リンは慌てて菓子を口に含んだ。残った意識朦朧の男たちにも同じようにきびだんごを口に突っ込んでやった。
「うまいか?」
アキトの静かな問いに、リンは怯えた目で何度もうなずいた。
「う、うまいよ……」
満足げに頷きながら、アキトは再び呑気な笑みを浮かべると、後部座席に深々と腰掛けた。車が静かに揺れる中、無邪気な調子で童謡を口ずさみ始める。
「も〜もたろさん、ももたろさん♪」