かりん
未来の僕に幸あれ。
陽が暮れるのがすっかり早くなった。補習授業を受けて校門から出ると辺りは薄暗くなっていた。
僕が通う女子大附属の小学校の目の前には、大きな交差点がある。どうやら昔、この交差点を曲がり損ねたトラックから落下した荷物の下敷きになって、児童が数名亡くなるという痛ましい事故があったらしい。
交差点のすぐ脇には小さなお地蔵様が目を瞑って立っている。
その交差点には、今、警備員さんが毎日立っている。
小学生から大学生までの通学を見守ってくれている。
学校指定のグレーのランドセルは重い。荷物のせいだけではないはずだ。日々のやりきれない気持ちが詰まっている。ここに通い始めて三年。ようやく折り返し地点まできた。
女子大附属の小学校を受験したのは、ママが言ったからだ。小学校しか共学でないこの学校を受験することをパパは無駄だと言っていた。
そりゃそうだ。中学からまた別のところに通わないといけない。公立に進むのか、また受験をするのか。僕はきっと後者になるだろう。パパやママが決めた道を歩む。選択肢なんてない。
今の僕は一体、誰なんだろう。
⁂
ママがこの小学校の受験を勧めたのは、僕の将来にプラスになるからという理由だったけれど、自分の夢を実現したかっただけだと知っている。
ママは昔、僕が通っている小学校を受験し、失敗していた。だから、自分の子どもをここに通わせるのが夢だったとおばあちゃんから聞いた。
県内でも有名な小学校。ある程度の学力と親の財力がある子が集まっている。僕は頭がいい方ではないと入学してから知った。授業は進むのが早い。わからない子は、どんどんおいてけぼりにされる。そして、居心地が悪くなる。
現に今も僕は補習授業を受けた帰りだ。
六時間の時間割をこなした後の補習授業は拷問に近い。僕の他にも三人の児童がいた。それぞれ苦手な科目のプリント学習をし、一人ずつ先生が解説をしてくれる。
先生の口調は厳しくないけれど、「お前はこんなのもわからないのか」と暗に言われているようでちょっとだけ怖い。
ママも僕が補習授業の対象者になってから少し機嫌が悪い。だって仕方ないじゃないか。僕が選んで行った学校じゃない。
そう言いたいけれど、それを言うとママはきっと
「悠宇君のためを思って考えたことなのよ!」
と言って泣くに違いない。
交差点の信号は赤だった。
警備員のおじさんが、交通安全の旗を持って、隣に立っている。信号待ちしているのは僕しかいなかった。
警備員のおじさんの視線が、こちらに向く気配がした。
「これ、あげるよ」
そう言って制服の胸ポケットから細長い包みを取り出し、包装紙をびりと破って飴をくれた。僕の手の平に乗ったのは、かりんエキス配合のど飴だった。CMでよく見かける。
「……ありがとうございます」
俯きがちに言ってそれを受け取る。でも、僕はその飴が苦手だった。以前、おばあちゃんからそれをもらって食べたら、鼻と口がすーすーして痛いくらいだった。
信号が青に変わる。
「気をつけて帰るんだよ」
警備員のおじさんは僕の背中に向かって声をかけた。
⁂
電車に乗るとラッキーなことに一つだけ席が空いていた。並んでいたのは大人ばかりで、僕がその席に座るのが当然とばかりに席を譲ってくれた。
席に座るとランドセルを体の前に抱きかかえた。制服の右ポケットには、さっきおじさんからもらった飴が入っている。
苦手だから食べなかった。ポケットに入れたままだとハンカチを取り出す時に落ちて、学校で注意されたら嫌だなと思ったので、それをポケットから取り出しランドセルのサイドポケットに入れ直した。
きっと、ここに入れたことを数日後には忘れているだろう。そんなことを思っているうちに、車内の暖房が心地よくて僕はランドセルを抱えたまま、とろとろと眠ってしまった。
駅名を告げるアナウンスが聞こえて、目が覚めた。僕が降りる駅に着いていた。慌ててランドセルを背負い電車から降りる。すぐに背後で扉が閉まった。
ぴゅうと音を立てて風が吹いて、襟足を揺らす。寒くてぶるっと体が震えた。
⁂
定期試験が全教科、平均点以下だった。
僕はこの学校で正真正銘の落ちこぼれだ。補習授業でしなければならないプリント学習の量が増えた。プリントに向かう度、情けなさとやりきれなさに心が支配される。鉛の塊を飲み込んだように、お腹の下辺りが重い。
「さようなら」
補習授業担当の前原先生に挨拶をして、教室を出る。前原先生は今年着任したばかりの若い先生だ。まだクラス担任はしていなくて、普段は授業の手伝いをしたり、放課後の補習授業を担当したりしている。
教室を出たのは僕が最後だった。
上履きから学校指定の黒いローファーに履き替える。ママが毎朝磨いてくれるそれが天井の蛍光灯を受けて鈍く光った。
今日も寒い。確か朝のテレビで一月末並の気温だと言っていた。早く電車に乗りたいと思いながら、小走りで校門をくぐった。
「おや」
赤信号で止まっていると薄闇の中から声が聞こえた。僕が顔を上げると警備員さんが近づいてきた。
「今、帰りかい」
落ち着いた低い声で尋ねる。パパの声よりしゃがれているのに、温かく聞こえる。僕は黙ったまま頷いた。
「遅くまでえらいねぇ」
感心するように言われて、僕はお尻の辺りが、むずむずした。えらくなんかない。この学校では落ちこぼれだ。でも、警備員さんに「そんなことない」「えらくない」と言い返すのはちがうと思った。
そんな風に思ったのは、声音が優しかったからかもしれない。僕のことを否定しない言い方だった。
「これ、あげるよ」
警備員さんはそう言って、僕の手にぽとりと小さなものを落とした。それは前にももらったものと同じのど飴だった。
「寒いから気をつけて帰りなよ」
信号が青になって駆け出そうとした僕の隣で、警備員さんは言った。駆け出そうとした足を止め、僕は警備員さんにぺこりと頭を下げた。
誰かに心配してもらえるのが嬉しかった。
⁂
その後も補習授業で帰りが遅くなった日も、警備員さんは必ず交差点に立っていた。信号待ちをした時には、のど飴を何回かもらった。そうしてランドセルのサイドポケットには、幾つかののど飴がたまっていった。
ある日の補習帰り。その日はお腹空いて、ふと警備員さんからもらったのど飴を食べてみようかなと思った。サイドポケットから一つ摘み出し、銀色の包装紙を捲る。
紅茶の色に似た飴が見えた。口に入れると、僅かな甘みの後で、すーすーした清涼感が口の中に広がる。小さい頃におばあちゃんからもらって食べた時よりも、嫌な味ではなかった。
僕も成長したんだな、なんて思う。口の中でころころ飴を転がしていると、すっとした味が胸のつかえを取るようだった。
葉っぱを踏み締めて歩く。スニーカーの足の下で木から落ちた乾いた葉っぱが、かささっと音を立てる。足の裏にその柔らかさが伝わるような気がする。
散歩が日課になった。いつも歩くルートは決まっている。住宅街を抜け児童公園に向かい、その北側にある歩道に沿って歩く。線路と並走していて、僕の横を電車が走り抜けていく。
その歩道には木が植っていた。その一つが、かりんの木だと気づいたのは昨日だった。
ぱっくりと二つに割れた、かりんの実が歩道に落ちているのを見つけた。まだ、断面に潤いがある。白い身が顕になって、その中に小さな黒い種があった。
そして、今日。昨日と同じ場所にそれはあった。昨日と違い、断面は乾いていて茶色く変色し始めていた。足元に転がるそれを見つめていた時、のど飴のことを思い出したのだった。
あの警備員さんは、まだ、元気なのだろうか?
当時で七十代手前として、あれから十年ちょっと。八十代だろう。健在だとしても警備員の仕事は辞めているだろう。
僕はあの小学校を卒業後、公立中に進み、公立高校を卒業し、来年の春から大学に通うことになった。進路は全て僕が決めた。それができたのは、四年生の初めに妹が生まれたから。
両親、特に母の期待は妹に向いた。妹はその期待に余裕で応えることができる子どもだった。僕はそんな妹に嫉妬するどころか感謝した。ようやく期待という呪縛から解放される。
そう思うと一気に息がしやすくなった。
僕は家族の中でも、学校の中でもその他大勢に紛れている。それは楽だ。けれど時として自分を見失いそうになる。期待されるのは、苦しいのに大勢に紛れると、これでいいのかと不安になる。自分勝手だなとは思う。
いつか。
あの警備員さんみたいに、誰かの心にそっと残るような人になりたい。そんな風に思って顔を上げると、かりんの実が葉っぱの影で揺れていた。
読んでいただき、ありがとうございました。