第八章③『精霊の力』
深淵の森には、ありとあらゆる草花が咲き満ちている。
しかし、本来であれば重なり合わない季節の草花が一緒に育っている光景は、以前からエアにとって不思議でならなかった。
先ほどまで傷んでいた花樹に、野人が手を触れて咆えた瞬間。
まるで時計の針を逆に戻すかのように、花と葉の傷みは跡形もなく修繕された。
固く閉ざされた蕾は、逆に時計の針を早く進めたかのように、一斉に花開いた。
大いなる自然の領土である深淵の森、とそこに棲むあらゆる生命を癒す、と言い伝えられている”守護神”とは……まさか。
大いなる自然さながらに壮大で強靭、それでいて慈悲深さを併せ持つ不思議な野人。
人間にも動物にも決して持ち得ない奇跡の御業を行使できるのは、神様以外には考えられない。
エアの胸に灯った確信と崇高な感情は、別の場面においてもより一層強くなった。
*
はたまた別の昼下がりにて、エアを背中に乗せた野人が、樹海の底を駆けていた道中。
土色の獣毛で覆われた巨体、と黒く鋭い爪を掲げる大熊と遭遇した。
熊は、温かみのある焦げ茶の毛に包まれた顔、と黒真珠の瞳にあどけなさを浮かべていた。
しかし、一見愛らしい容貌に反する獰猛な唸り声を歌いながら、野人へ強い闘志を燃やしていた。
一方、重厚に構えていた野人も、好戦的な大熊に対して猛々しい咆哮で応えた。
持て余している力を解き放つように、森全体を轟かせる野人と大熊の闘争心と威圧感に、エアはひたすら圧倒された。
森の一角にある闘技場らしき広場へ、野人と大熊は同時に猛進した。
野人は、樹木の太枝を椅子に見立ててエアを座らせると、ここで大人しく待っていてね、と伝えるように唸った。
幼い子どもに言い聞かせる親のように、存外穏やかな音色で。
勇壮に張り切る野人に対し、エアは当然案ずる声をかけた。
仮に野人が戦いによって怪我を負ったりしないか、と。
エアの心配を余所に、野人は柔らかい雑草のような毛に包まれた胸を反らして見せた。
意気揚々とした野人の様子は、自信満々に胸を張る子どものように無邪気で可愛らしくすら映った。
しかし、野人と大熊との苛烈な一騎打ちが開幕した途端――。
「―~!――~!!」
グオオォーーン――!
「(すごい迫力……多分精霊さんは、心配ないよって言っていたけれど……大丈夫かしら。それにしても精霊さんは、あんなにも強いなんて……)」
野人は獅子を彷彿させる気迫で吠え猛り、大木を投げつけるような勢いで大熊へ猛進した。
先で待ち構えていた大熊は、野人の頑強な巨腕を両前足で受け止めた。
双方共に、有り余る力を極限にまで押し合う。
相手をのみこもうとする津波、と何とか津波を堰き止めようと足掻く森林。
そのような凄まじき気迫を、エアも肌で感じることができた。
しかし、やがて野人の強大な剛力が大熊を上回った途端――勝敗は即決した。
岩石のように重いはずの大熊を、野人は軽々と掴み上げると、大熊の巨体を地面へ勢いよく叩きつけた。
砂塵と木の葉が舞い乱れる中、大熊は地面に大の字で仰向けに倒れている。
野人は、大木の両腕を天へ伸ばしながら、猛々しい勝利の歓声を森中へ響き渡らせた。
「精霊さんっ。勝ったから、嬉しいのね?」
「――!――♪」
「そう……でも大丈夫? 精霊さん、どこか怪我とか痛い所とかはない?」
短くも凄まじい一騎打ちが終わると、直ぐに木から降りたエアは、野人のもとへ慌てて駆け寄った。
エアの心配を余所に、野人は勝利に喜び舞うように巨体を揺らし、どこか子熊のように甘えた唸り声でエアに擦り寄った。
さながら褒めて、と強請る幼子だ。
野人には傷一つないことを知ったエアは胸を撫で下ろし、若草色の長毛に包まれた巨顔を、慈しむように抱き寄せた。
「精霊さんが無事ならよかった。でも、無理をしてはだめよ? それに熊さんも大丈夫かしら? かなり強く叩きつけられていたから」
グー……マー……♪
野人に勢いよく薙ぎ倒され、地面に背中を強打したものの、骨一つ折れていない頑健な大熊は、むっくりと起き上がった。
大熊にも致命傷がないことを確認したエアは、蓮華草のような笑顔を咲かせた。
和やかなに語りかけてきたエアに対し、大熊は友好的な鳴き声で応えた。
本来であれば人間への強い警戒から、臨戦態勢に入ってもおかしくはない大熊も、エアに攻撃的に出ることはなかった。
強力な闘技仲間であり、頼りになる森の守護者でもある野人にとってエアは、心を許せる愛護対象であること。
さらにエア自身も純粋無垢で心優しい性質であることも、大熊の態度を優しくさせているのだろう。
大熊と野人は互いに腕を伸ばすと、相手の強さを称賛し合うように、力強い握手を交わしていた。
しかし息つく間もなく、大熊に触発された他の血気盛んな大熊や猪、水牛達までもが訪れた。
森に君臨する最強の王者である野人に、やはり闘技を挑みにきたのだ。
それでも多勢の血気盛んな猛獣を相手に、最後まで勝ち抜いたのは、やはり王者である野人。
もしも、勇壮で強靭な野人が全身全霊で戦えば、その大いなる力は自然災害に匹敵することは、容易に想像できた。
野人の一歩一歩は大地すら慄かせ――無垢なる咆哮は天雲すら裂き――迷いなき猛進は岩すら粉砕し――強固な拳は雷走のごとく――。
人智を凌駕し、神に等しき強大な力を湛える野人に勝てる者が存在するとは思えない。
在るのならばそれは、全知全能の神に他ならない。
名も無き精霊は、天空を、大地を浄化する豪雨や嵐、地震、雷、洪水さながらに凄まじく強大だ。
それでもエアの心には、野人に対する畏怖の感情は起きなかった。
・




