第六章⑥『深淵の森』
やがてエアは、荒野に忽然と佇む深い森へ辿り着いた。
鬱蒼とした森林の深奥に辿り着いた、夕陽は完全に姿を隠していた。
深闇の空に浮かぶ青白い孤月の姿は、薄暗い森の中を独りぼっちで歩むエアと重なった。
天地を黒く塗りつぶしていく夜が、恐るべき自然の本性を剥がす。
青々と生い茂る森林は、生きとし生けるものを呑み込む闇へ染まり、枝葉を不気味にいななかせる。
エアは擦り傷にしみそうな夜風に凍え、心細さを覚える。
真珠色のわずかな月光を頼りに、エアは夜の樹海を彷徨う煙色の夜雲が、真珠の月を覆い隠した瞬間、力尽きたエアはその場で膝を折った。
無我夢中で彷徨い駆けていたため、忘れていたのか、エアは苦しげに呼吸を繰り返す。
柔らかく冷たい芝生に両手をつき、緑の地面を見つめるように俯いた。
ここまでくれば、さすがの暴虐王でも暫くの間、エアを見つけることは不可能だ。
冷酷かつ狡猾な王ですら、人間は誰一人立ち入らないこの森の奥に、エアが身を潜めているとは夢にも思わないはず。
恐らく今も、全てを見渡していると思しき神々に、告げ口されない限りは。
「――私、生きているんだ――っ」
王に捕まったが最後、死かそれに等しい人生と終わりを覚悟していたはずだ。
立ち止まったエアの擦り切れた唇から自然と漏れたのは、信じられないと問いたげな呟き。
九死に一生を得られた状況に、エアの鼓動は原初的な安堵を奏でる。
とにかく生きたい、死にたくない一心で、何とか逃げ切れたのはいい。
しかしエアは、今後自分が何処で如何すればいいのか見当もつかず、途方に暮れた。
自分に抗ったエアに対する憎悪、と不覚にも彼女を逃した屈辱を烈火のごとく燃やしている王は、今頃躍起になってエアを捜索させているに違いない。
それこそ、エアのいた故郷から地の果てまで。
ザハブを中心に座するアルドゥアラーのほぼ全域を支配する絶対的な王に逆らった時点で、エアには何処にも行く宛てがない。
ザハブは当然、他所の都市や村、故郷ですら、エアの居場所はもはや皆無。
王の反逆者として指名手配中であろうエアを匿い、助けようとする人間もいないはず。
仮にエアが、遠路遥々先にある故郷へ奇跡的に帰り、村人が彼女を匿ってくれたとしても迷惑をかけてしまう。
もしも王に発見されてしまえば、エアを匿ってくれた家族や村人共々、故郷そのものは今度こそ抹消されてしまう。
王は、エアと周囲を地獄の淵へ突き落としたうえで、花を毟り裂くかのごとく彼女を蹂躙し、殺害するであろう。
エアを待ち受けるのは厳しい現実に他ならない。
城で出逢った優しく心強い友達のシェレグも幼侍女のティナも、もう傍にはいない。
「――ここってまさか」
エアは、自分が今”最も安全”で”最も危険”な地に身を置いていることに、ようやく気付いた。
エアが踏み入れたこの森林は”深淵の森”――。
人間にとって神聖で不吉な場所。
昔からの言い伝えによると、深淵の最奥で暮らす守護神の力によって、森の野生の動植物は共生し、護られている。
文明の発展に伴う環境破壊や人間達の領土拡大によって、住処を追われた野生動物から、熱く渇いた地では決して育たぬ植物も、数多く生息している。
灼熱の太陽で年中渇き果てた肥沃のアルドゥアラーの内、唯一自然環境が安定し、侵略と蹂躙から守られた聖なる楽園。
清らかな自然を荒らし、野生動物をみだりに狩る外敵が、深淵の森へ踏み入ることは決して許されていない。
踏み入れたが最後、森に棲む野生動物に喰い殺されるか、森の守護神の潜む「深淵の闇」へのみ込まれ、この世に二度と帰ってこられない。
事実、迷信だと一笑し、好奇心で森に立ち入った人間は、二度と帰ってこなかったと聞いた。
神聖な森を侵した者には、自然による聖罰が必ず下るのだ。
静寂の夜に野晒しにされた命を慈しむような月光とぬくもりは、真っ暗な森底に独り残されたエアには届かない。
不気味な虚闇と静寂のみが、樹海に際限なく広がるのみ。
天高くそびえる樹々は、暗影の触手と化した枝木を不気味に揺らし、獣の薄気味悪い唸り声に似た梢を響かせる。
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