序章~花の涙~
ああ、あまりにも無垢で美しくて、とても、哀しい少女。
ああ、どうしてこの少女は、いつも泣いているのだろう。
ああ、何故、悲嘆に澄んだ慟哭が響くたびに、降るはずのない雨が止まないのだろう。
遥か悠久なる太古の時代――永獄の夏熱に囚われた広大無辺の大地において。
大いなる自然と一体化した神々の僕として、人間は神の命を全うする。
敬虔な祈りを胸に己の生死を神に委ね、幾多の受難と痛み、飢渇に絶え凌いで生きている時代の物語――。
神に見放された孤独な荒野に忽然と佇む緑。
聖なる深淵の森にて、一輪の可憐な花のような少女――否、可憐な美しさを身に凍り宿した老女は、緑の海原で孤独に咲く花のように佇んでいる。
雪空ように白い長髪は、細氷さながらに美しい煌めきと共になびく。
天女を彷彿させる純白の外套と長衣から覗く手足も、驚くほど真っ白で艶やかに輝く。
夜を心待ちにするような仄闇と静謐の樹海には、人間らしき気配は不気味なほど存在しない。
しかし、可憐な老女が樹海を歩み進むたびに、寂しげな木漏れ日は足元を照らす希望の光へ、暗澹たる森は慈母のごとく深き緑の聖域へ、生まれ変わる。
それほどまでに清らかで透き通るような美しさに満ちた彼女から、私は刹那も瞳を逸らせなかった。
悠久なる年月を経ても尚、彼女は独りぼっちで深淵の森にいる。
彼女の生きる時間と空間だけは、遥か昔からずっと止まってしまったかのように見える。
まるで誰かの帰りを待ちわびるように――。
「――」
花びらのように甘く柔らかな声が、緑の静寂を撫でる。
しかし、鮮明に響いたにも関わらず彼女が何を呟いたのか、言葉の輪郭を捉えることが叶わない。
「――……」
透明な氷のように澄んだ声が、美しく響き渡る。
ひどく寂しげな音色を奏でた声は、まるで誰かを呼び願うような祈りに満ちていたことから、どことなく理解できた。
「――……っ!」
癒え難い悲嘆を呑み込んだむせび泣きが、仄暗い静寂を引き裂く。
彼女は泣き続ける。
ああ、そうか。彼女も、ずっと待っているんだ。
かけがえのない誰かを。
私と同じ――。
「っ……ぁあぁぁ……――っ――」
魂を焼き裂かれるような慟哭が、虚空を狂おしく彷徨う。
かけがえのない誰かを呼び求めながら、彼女は慟哭し続ける。
母親を求める小さな子どものように。
もしくは、永遠に引き離された魂に恋焦がれるように。
記憶することの叶わぬ名の音は、一体誰のことだろうか。
ねえ、――とは誰なの?
君にとって――は、どれほど大切な存在だったの?
君の口からその名前を聞いていると、何だか私まで、とても温かくて、あるはずのない胸が苦しくなる――。
苦しくて、悲しい、けれど、それ以上に、愛おしくなる――。
すると、ああ、おかしいな。
永久の灼熱に渇いた大地には無縁であるはずの恵みの奇跡――降るはずのない雨がまた降ってくる。
温かく澄んだ滴が、私の花びらから葉、茎をとめどなく濡れ満たしていく。
まるで水を吸い込んで嵩が増えるかのごとく、名も無き哀しみで私の体は重く濡れていく。
雨は一向に止む気配すら見せない。
彼女が涙を零し続けているからだ。
愛しい誰かに恋焦がれて慟哭する彼女を、私は雨に濡らされながら見つめ続ける――。
だが、彼女は決して私に気付かない――虚しくて哀しい――。
それでいてどうしようなく惹かれる景色を幾年も繰り返した末に――。
「――? ――なの……?」
悲嘆を零していた彼女が、誰かに呼ばれたように不意に振り返った。
それから、深淵の森の中央にある場所から離れたことのなかったはずの彼女が、一歩を強く踏み出した。
まるで誰かの呼び声に応えるように。
待って。
どこへ行くの……行かないで――。
気付けば私は呼んでいた。
美しくて、脆い、小さな白い背中を見ると、何だかとても――。
けれど、私の声は彼女には決して届かない。
何かに憑りつかれたように緩慢な足取りで、彼女は聖なる森から離れていく。
瞬く星のように遠ざかっていく後ろ姿に、あるはずのない胸が無性に引き裂かれた。
行かないで。
お願い、行ったら、だめ。
どうか、置いていかないで――。
私はありったけの想いを、衝動を必死に叫ぶ。
あるはずのない声が枯れ果てるまで、彼女の姿が完全に霞み消えるまで。
お願い、行かないで。
私は――私は、ここにいるよ――。
けれど、彼女は決して足を止めてくれない、私を振り返ってはくれない。
代わりに、今までにないほどの凄まじい雨が激しく降り、小さな私の体を打ちつける。
途絶えぬ心を叫び歌うように、天を何となく仰ぐと、声が響き渡った。
――大丈夫だよ、――……
――この命が尽きない限り、君を泣かせるもの、傷つけるもの――
――あらゆる全てから、君を守るから――
無垢で可憐な気配の消え去った森。
哀しいまでの静寂に揺れる緑に埋もれている一輪の野花。
薄く儚い花びらや葉は、温かな水滴で哀しく煌めいていた。
まるで、大粒の涙のように――。
***