第三十六話 『今日は陸が一年前の約束を果たしてくれるんでしょう?』
「お兄さん、ちょっとお時間、よろしいですか?」
莉子との待ち合わせ場所にて。
周りに多くの人がいる中、一人の男が声を掛けてきた。
手にパンフレットらしきものを持っている痩せぎすの若い男である。
「――はい?」
僕は警戒の眼差しを男に向ける。
街中でこんなふうに声を掛けられて、良いことが起こったことなんて僕の人生で一度たりともなかった。
そんな警戒を完全無視して、男は話し始めた。
「私、『ミドリの会』という団体の紹介を行っておりまして――」
即効アウトかな……。
ヒカル様の件もあり、もうこういう団体には関わり合いになりたくないのである。
「いや、興味ないですので……」
僕は当然断るが……。
「今ならなんと新規入会特典がありましてですね~」
こっちの事情などお構いなしに、グイグイ来る男。
無視するなり、きっぱりはっきり断れば良いというのは分かっている。
しかし、それをなかなかできないのが僕なのである。
隣に莉子がいてくれれば、こんなことにはならないのに。
愛すべき人のことを思い出していたときだった。
「陸から、離れなさい!!」
周囲のざわめきをものともしない凛とした声が周囲に響いた。
声とともに、浴衣を着た小さな女の子が僕と男との間に割り込む。
「莉子! あの、待って! …………あれ?」
危険を察知した僕は、即座に莉子を止めようとして…………気付いた。
浴衣姿の莉子は手に小さな巾着しか持っていなかった。
包丁を持っていなかったのだ。
手にある巾着にはいつもの包丁は大きさ的に入らない。
巾着以外の持ち物も特には持っていない。
どうやら、浴衣姿の今日は包丁を持ってきてはいないようだった。
そういえば、去年の花火大会も包丁は持参してなかったはずだ。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
ただし、包丁が無くとも莉子の殺気は健在だった。
「……ひ、ひぃぃぃーー!!」
あんなにしつこかった男は、殺気立つ莉子を見て逃げ出していった。
「――ありがとう、莉子」
「ふふっ」
お礼の言葉に何故か微笑む莉子。
「一年前と同じね」
「あー……」
そう、一年前も今と同じだった。
僕が男に絡まれ、莉子が男を追い払っていた。
そこから僕と莉子の花火大会が始まったのである。
「それじゃあ、行きましょうか」
「莉子。ちょっとだけ、待ってもらえるかな?」
移動を開始しようとする莉子に、僕は待ったをかけた。
「どうしたの?」
「先に伝えることがあるんだ」
そう言って僕は心を静めて、大きく息を吸い込んだ。
「莉子のその浴衣、よく似合っていて、凄く綺麗だよ」
「えっ!? あ、あの……」
「アップした髪も素敵だし、そのかんざしも莉子の艶やかな黒髪に凄く似合ってる」
僕は一語一句をしっかりと莉子に伝えていった。
現在の莉子は、一年前とほとんど同じ格好をしていた。
藍色を基調とした菖蒲の柄の入った浴衣を着て、木製のかんざしを結い上げた髪に刺している。
かんざしには、桜の花びらを模した精巧な細工が彫り込まれていた。
一年前と唯一異なるのは、手にした小さな巾着にマヌルネコのバッジが付いていることだった。
「あ、ありがとう……」
莉子の綺麗な白い肌が朱に染まっていく。
一年前の僕は莉子に目を奪われつつも、きちんと言葉で伝えることができなかった。
浴衣もかんざしも彼女自身も、とても素敵であったのに。
そのことをずっと後悔していた僕は、今日こそは必ずと思っていたのだ。
「やっと、伝えられたよ」
僕はホッとして、莉子に笑顔を向けた。
「あ、あの、陸も……、その浴衣、凄く素敵よ……」
「うん、ありがとう」
一年前、僕は浴衣を着ていなかった。
しかし、今日は浴衣を着ている。
澪に助けてもらって、莉子のためを想って選んだ浴衣である。
莉子に褒められて嬉しくないわけがない。
「澪には本当に感謝しかないな」
今頃は受験勉強を頑張っているんじゃないだろうか。
もしかしたら、花火大会に来ている僕と莉子のことをアオに話しているかもしれない。
そのときのアオは迷惑そうにしているのだろうが……。
それでも、きっと澪に付き合ってあげているのだろう。
「そういえば、澪から『今度三人で水族館へ行くことになったから!!』ってメッセージ来てたわよ?」
どうやら、もうすでに莉子に伝えていたようである。
勉強、アオに話す以外に、もう一つ選択肢があったようだ。
今頃はどこの水族館へ行くか、色々情報を調べているのかもしれない。
「水族館も二人が一緒なら、きっと楽しいでしょうね」
その言葉に、僕は大きく頷いた。
あれだけ動物園が楽しかったのだ。
三人での水族館もきっと楽しいに違いない。
「でも、今日は陸が一年前の約束を果たしてくれるんでしょう?」
「もちろん。一年も前から決めていたことだよ」
そう言うと、僕は差し出された莉子の優しい手を取った。
「それじゃあ、移動しましょうか」
「うん、お願い。莉子」
僕は小さな頃から人混みの中を歩くのが苦手だった。
すぐに人とぶつかってしまうからだ。
いや、人がぶつかってくるからというのが正しいかもしれない。
一年前、そのことに気付いた莉子は言った。
「陸が優しすぎるからよ」
そして、莉子は僕の手を取り、人混みをかき分けて移動した。
そのとき、僕にぶつかってくる人はいなかった。
――莉子のおかげだった。
莉子のオーラが僕を守ってくれたのだった。
「陸はそのままで良いの。私に任せておけば良いのよ」
今日も同じだった。
嬉しそうな莉子は僕の手を引き、人混みをかき分けていく。
いつしかあれだけ苦手だったはずの人混みが、僕は苦手ではなくなっていた。
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