1話
「ねぇ紬ちゃん。この前発表してた論文の≪焼却処理を行わないごみの処理法≫についてのコメントもらいたいんだけど~。どうかなぁ?何かもらえないかなぁ。」
赤いランドセルに長い黒髪の幼女の横を、スーツ姿の女性が歩いている。
女性の言葉をまるっきり無視するように、紬と呼ばれた幼女は歩き続ける。
しばらくして、紬も面倒になってきたのか、足は動かしたまま女性のほうに顔を向けて口を開く。
「そろそろいい加減にして。私から何か言うこともないし、そういう話は私に直接じゃなくて父を通してと言っているでしょう。」
(はぁ、ほんとに頭の悪い人との会話って疲れる。何度同じことを言っても理解してもらえない。)
口に出しながら、頭でこんなことを考えながら女性を振り切ろうとする。
それでも女性はあきらめずについてくる。
しばらく歩いていると、紬の通学路の途中にあるバイク屋につく。
このバイク屋は、中古屋のようで古いバイクが所狭しと並んでいて、だいたい店の前でバイクを整備している人がいる。
「…ちょうどいいわ。」
そう言いながら、紬は整備している人の横に置いてあるバインダーからボールペンを拾う。
それを横目で見ている整備士は、そのままバイクの整備を続けている。あまり気にしていないようだ。
「あなたならこれをどう私に売る?」
「よくある設問ね。私なら績ちゃんがペンを必要な状況を作ってから売るかなぁ。」
「そうね。じゃぁ…。」
紬はペンを持ったまま少し後ろでバイクを整備していた男の前に立って声をかける。
「あなた、ちょっといいかしら。」
「なんだ?おれのペンを返してくれるのか?」
男は整備していたバイクのパーツと工具を地面に置くと、立ち上がってバイクのシートにもたれかかって煙草に火をつける。
「あなた、このペンを私に売って。」
紬はさっき女性にしたのと同じ質問をする。
男は紬の持ったペンを見つめながら、すっと口を開く。
「そのペンを、俺からお前に売ってほしいのか?」
「そうよ。」
「じゃぁ、言い値でいいぞ。毎度あり。」
そういうと、男は煙草をくわえたままバイクの横に座り込んで整備を続ける。
すると、紬と女性は唖然としたように固まる。
「い、いやそうじゃなくて……。」
紬が続けようとする中を男が遮る。
「お前はそのペンを売ってほしいんだろ?俺の持ち物であるペンを、お前の持ち物として譲ってほしいんだろ?だってお前はこのペンをを売ってと言ったんだから。」
確かにその通りだった。
(確かにさっきの言い方だと、ただ売ってほしいという意味になってしまう。これは私のミスね。)
「…わかったわ。じゃぁ、このペンを私に売りつけてみて。」
今度は言い方を変えて整備士にペンを手渡す。
整備士は地面に座り込んだままペンを受け取ると、紬に向いてペンを差し出す。
「要るか?」
「いえ、要りません。」
「じゃぁ帰りな。要らないんならわざわざ買う必要もないだろ。」
そう言い放ち、男は作業に戻った。
「…え?いや売りつけてって。言葉を使ってさ。」
紬はもう一度整備士の男に詰め寄る。
「じゃぁ、お前の名前を教えろ。」
「え?名前?なんで?」
「いいから教えろ。」
「桜屋敷 紬だけど。」
紬が名前を口にすると、整備士の男は少し考えてから白紙の紙を差し出す。
「ちょっと書いてみてくれ。桜屋敷って。あと紬。どの漢字かどうかわかんねぇんだ。」
「なんだわかんないの?」
そういいながら紙を受け取り、ポケットからペンを出す。
紬は広角を上げながら紙に名前を書く。
「こう書くの。桜に屋敷で桜屋敷。紬は絹織物の紬ね。」
紙に書かれた紬の名前をじっくり読みながら、その紙を元の所に戻してもう一度紬の方を向く。
すると、横に置いてあったバインダーを差し出す。
「ちょっとこの用紙に俺が読み上げる数字を書き込んでいってくれないか?これいじるとオイルついちゃって紙汚れちゃうんだ。」
「え?あ、うん。いいよ。ここの欄でいいの?」
「ああ。あ、そうだそれ水性で書かないでくれよ。水かかっちまうとかすれちまうからな。」
「わかった。」
それと同時に、自分のポケットにしまわれたペンが水性か油性かを考える。
紬の記憶では、ポケットにしまったボールペンは、水性だった。
「……。」
少し黙っている紬に、男は声をかける。
「ん?どうしたんだ?使うか?」
そういいながら、男はペンを差し出す。
紬は差し出されるペンを見て銘柄を確認する。そのペンはサラサだ。
(なぁんだ。こっちも水性じゃん。なら問題ない……。いや違う!)
紬はすぐにサラサのインクに付いてを思い出す。それが顔料であることも。
「言い値でいいぜ。」
「…わかったわ。私の負けよ。」
(ここで記入を断ることもできる。でも、一度はいいと言ってしまった以上やっぱりやめるとは言えない。…私の性格まで読んでこの選択肢を出したのね。)
紬は男からペンを受け取って記入を始める。
一通り記入が終わると、バインダーとペンを男の隣に置く。
「…帰るわ。」
くらい表情で立ち去る紬の背中を一瞬眺めた後にすぐにバイクの整備に戻る。
すると、店の中から先輩整備士が出てくる。
「どうしたんだ皐月?絡まれてたのか?小学生に?」
「違いますよ。いや、絡まれたのかなぁ。」
ふと店の前に広がる住宅街の道には、さっきまでいたはずのスーツの女性はいなくなっていた。
そうして、その日はそのまま何事もなく閉店の時間を迎えた。