↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

あの日の私の跡をなぞれば

作者: 津籠睦月
掲載日:2022/02/20

 今時、SNSでもアプリでもなく、紙の日記をつけるのが好きだなんて、変わった子だと思われてしまうかな。

 自分でも、こんな趣味を持つことになるなんて、思っていなかった。

 だけど、これはもう、私にとって、無くてはならない行為。

 私の人生にとって重大な意味を持つ――私が“私”を忘れないための、大切な金石文(きんせきぶん)だ。

 

 きっかけは、他愛(たわい)もないことだった。

 雑貨屋さんで、とても綺麗な筆記帳(ノート)を見つけた。

 西洋貴族の城の書庫(しょこ)に眠る古い時代の書物(しょもつ)のような、美しい装飾模様(そうしょくもよう)のついた、ハードカバーの筆記帳(ノート)。

 ちょっと高かったけれど、一目惚(ひとめぼ)れして思わず買ってしまった。

 しばらくは机の上に置いて、時々手に取ってはにやけていたけれど、白紙のままにしておくのも、お金が勿体(もったい)ない気がして、日記帳として使うことにした。

 

 毎日欠かさず……なんて思ったら、三日坊主に終わる気がしたから、書き留(と)めたいことがある日にだけ、気まぐれに、とりとめもなく書き散らす。

 美しい筆記帳(ノート)に、お気に入りの筆(ペン)で、私の文字を書き綴(つづ)る……その行為自体に、酔っていた。

 

 だけど、ある日ふと何気なく、過去の日記を読み返してみて……不思議な感覚に襲(おそ)われた。

 

 そこに在るのは、確かに私の綴(つづ)った文字。

 なのに、覚えていない事実(こと)がある。読み返してみて初めて思い出す、忘れてしまった記憶がある。

 

 人間って、こんなにも、自分自身のことすら忘れてしまうものなんだ……そう、思い知らされて、怖いような、哀(かな)しいような、はっと胸を衝(つ)かれる感覚に襲われた。

 

 今ここに居(い)る私のことを、明日の私は覚えていないかも知れない。

 今こんなにもはっきりと、ここに存在しているのに……。

 今の“私”を忘れた明日の私は、本当に同じ“私”なのかな。

 一年後、五年後、十年後の私の中に、“私”はどれだけ残っているのかな……。

 そんな、奇妙な物思いに囚(とら)われた。

 

 大好きな本の話。お気に入りのお菓子の甘み。学校帰りに偶然(ぐうぜん)見つけた虹(にじ)の、淡(あわ)く不思議なグラデーション。

 友達に言われた、ほんのささやかな一言に、何だか心が救われた気がして、とても嬉(うれ)しかったこと。

 どれもこれも、今の私を構成する、とてもとても大切なものたち。

 あれもこれも、いつか思い出せなくなって、存在自体忘れてしまうのかな。

 ……それが、何だか怖くなった。

 

 忘れたくないことがある。忘れられたくない思いがある。

 だから私は、日記にそれを刻(きざ)むことにした。

 私の記憶から零(こぼ)れ落ちてしまっても、頁(ページ)をめくれば思い出せるように。

 

 誰にも見せるつもりのない日記だから、何でも書ける。

 勇気が出なくて、結局言いたいことも言えずに終わった、情(なさ)けない今日の私のこと。

 親にぶつけられた言葉が、悔(くや)しくて、悲しくて、だけど何も言い返せずに我慢(がまん)してしまった、行き場の無い心の内。

 妙に気になる気がするけど、好きなのかどうか、自分でもよく分からないクラスメイトのこと……。

 

 思いのままに書き殴(なぐ)った日記は、後で読み返すと、時々妙に恥(は)ずかしい。

 その時は、恥ずかしいも何も感じずに書いていたのに……ほんの少し時を置いただけで、もう感じることが変わっている。

 過去の自分が、まるで自分じゃないような……別人の心の叫びを読んでいるように感じる時がある。

 

 激情(げきじょう)の渦巻(うずま)く中にいては、見えないものがある。

 それが、少し後になって、頭の中が冷静になれば、なぜ見えなかったのか不思議に思うほどに、はっきりと見えてくる。

 あの時、こうすれば良かったんじゃないか……なんて、今さら気づいてしまったりする。

 ほんの少し前の自分が、ひどく愚(おろ)かに思えて『私って、こんなにおばかさんだったかな……』と密(ひそ)かに凹(へこ)んだりする。

 

 だけど逆に、すっかり忘れていた過去の自分の言葉に、はっとさせられることもある。

『私って、こんなにすごいことを考えてたんだっけ?』と、自分で自分を信じられなく思う。

 

 人間って、なんて短い間に、くるくる中身が変わるんだろう。

 今の私と過去の私は、もうこんなにも違(ちが)っている。

 

 過去の日記の中で、なかなか出来(でき)ずに悩んでいたことが、いつの間(ま)にか、普通に出来るようになっている。

 過去にあんなに苦しんでいたことさえ忘れて、『成長したんだ』ということ自体、日記を読み返して初めて知る。

 人間って、こんなにも、自分の変化に鈍感(どんかん)なものなんだ……。

 出来るようになった喜びを、気づかないまま素通(すどお)りして、また別の“出来ない何か”にばかり囚われて、悩んでいる。

 

 日記を読み返すたびに、私はそこに、私の知らなかった“私”を見つける。

 今まで気づきもしなかった、人間(ひと)の“変化”の不思議を知る。

 

 私はこんなにも、自分自身のことさえ、よく分かっていない。

 私自身の過去さえ、気づけばあっさり忘れている。

 だったら親や友達なんて、なおさら私のことを分かっていないんだろうな、と思う。

 

 うちの親は、私が家にいる間のことしか知らない。学校での私のことを、ほとんど知らない。

 小学校に上がってすぐの頃(ころ)は、何でも夢中で報告したりしたものだけど、今ではそれもなくなった。

 学校の友達は、学校での私しか知らない。私が家で家族にどんな風に接しているのか、私が学校で話した以上の情報(こと)は知らない。

 誰も、私の“全部”を知ってくれてなどいない。

 私自身さえ、全てを覚(おぼ)えてはいないのだから……。

 

 日々失われていく“私”を、せめて少しでも留(とど)めておきたくて、日記に記(しる)す。

 全てを書き残すことはできなくても、何も残さずにいるよりはマシだから。

 

 昨日の私は、もうここにはいない。

 だけど頁(ページ)をめくれば、昨日確かに私がいた証――私の刻んだ筆跡(ひっせき)が在(あ)る。

 時折、その筆(ペン)の跡(あと)に触(ふ)れて、過去の私を愛(いとお)しむ。

 いつかの私の辛(つら)い想いを、切なく懐(なつ)かしんで、心の中でそっと呼びかける。

『頑張(がんば)ったね。辛(つら)かったね。今は苦しくても、大丈夫だよ。未来の私は、もう辛くなんてないよ』なんて……そんなことを、語りかける。

 

 日記を読み返せば、過去のあの日が蘇(よみがえ)る。

 忘れていたなんて信じられないほどの、不安や絶望を思い出す。

 部屋の隅(すみ)で縮(ちぢ)こまって、『この夜が明けなければいい』『明日(あした)なんて来なければいい』と、ひたすら心の中で繰(く)り返していたあの日のこと……。

 

 あの日の私には、未来(さき)なんて見えなかった。

 明日(あした)には、怖いこと、嫌なことしか待っていないと思っていた。

 朝が来るのが怖くて、時間(とき)が経(た)つのに怯(おび)えていた。

 だけど、私は知っている。あの日の、その未来(さき)を知っている。

 だから、あの日の私に心の中で、そっと語りかける。

『大丈夫だよ。怖くないよ。意外とあっさり乗り越えられるから、そんなに怯(おび)えなくていいんだよ』……と。

 

 意味の無いことだと分かっている。

 どんなに語りかけても、私の声は、過去の私に届かない。

 震(ふる)える指で不安を書き綴(つづ)った、あの日の私には聞こえない。

 だけど、それでも語りかける。

 あの日の私を、一方的に愛しみ、慰(なぐさ)める。

 だって、あの日の私の、あの苦しみを知っているのは、“私”しかいないから。

 

 誰も、私の“全部”を知らない。

 親も、友達も、私の一部しか見えていない。

 私でさえ、全てを覚えているわけではない。だけど……それでもきっと、あの日の私を一番に理解できるのは、“私”だ。

 あの日の私の心の叫びを、すぐに理解できるのは、きっと私だけだ。

 

 いつかの私の筆(ペン)の跡をなぞって、いつかの心の痛みをたどる。

 あの日は誰からも慰(なぐさ)めてもらえなかった私に、優しい励(はげ)ましを、そっと贈(おく)る。

 たとえ届かなくても。聞こえなくても。

 

 そんなことを続けていると、時々、感じるのだ。

 嫌なことが待ち受けていて、不安で胸がいっぱいな時……苦しいことがあって、泣きたい気持ちで日記を綴(つづ)っている時……ふと、私の綴るその文字に、そっと触れてくる、優しい指を感じる。

 今まで私がしてきたように……いつかの未来の私が、この文字に触れて、優しい慰めを贈ってくれている気がする。

 私の苦しみを、誰よりも知っているはずの、その声で。

『心配いらないよ。ちゃんと上手くいくよ。だから、大丈夫だよ』……と。


Copyright(C) 2022 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。