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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

あの日の私の跡をなぞれば

作者: 津籠睦月

 今時、SNSでもアプリでもなく、紙の日記をつけるのが好きだなんて、変わった子だと思われてしまうかな。

 自分でも、こんな趣味を持つことになるなんて、思っていなかった。

 だけど、これはもう、私にとって、無くてはならない行為。

 私の人生にとって重大な意味を持つ――私が“私”を忘れないための、大切な金石文きんせきぶんだ。

 

 きっかけは、他愛たわいもないことだった。

 雑貨屋さんで、とても綺麗な筆記帳ノートを見つけた。

 西洋貴族の城の書庫しょこに眠る古い時代の書物しょもつのような、美しい装飾模様そうしょくもようのついた、ハードカバーの筆記帳ノート

 ちょっと高かったけれど、一目惚(ひとめぼ)れして思わず買ってしまった。

 しばらくは机の上に置いて、時々手に取ってはにやけていたけれど、白紙のままにしておくのも、お金が勿体もったいない気がして、日記帳として使うことにした。

 

 毎日欠かさず……なんて思ったら、三日坊主に終わる気がしたから、書きめたいことがある日にだけ、気まぐれに、とりとめもなく書き散らす。

 美しい筆記帳ノートに、お気に入りのペンで、私の文字を書きつづる……その行為自体に、酔っていた。

 

 だけど、ある日ふと何気なく、過去の日記を読み返してみて……不思議な感覚におそわれた。

 

 そこに在るのは、確かに私のつづった文字。

 なのに、覚えていない事実ことがある。読み返してみて初めて思い出す、忘れてしまった記憶がある。

 

 人間って、こんなにも、自分自身のことすら忘れてしまうものなんだ……そう、思い知らされて、怖いような、かなしいような、はっと胸をかれる感覚に襲われた。

 

 今ここにる私のことを、明日の私は覚えていないかも知れない。

 今こんなにもはっきりと、ここに存在しているのに……。

 今の“私”を忘れた明日の私は、本当に同じ“私”なのかな。

 一年後、五年後、十年後の私の中に、“私”はどれだけ残っているのかな……。

 そんな、奇妙な物思いにとらわれた。

 

 大好きな本の話。お気に入りのお菓子の甘み。学校帰りに偶然(ぐうぜん)見つけたにじの、あわく不思議なグラデーション。

 友達に言われた、ほんのささやかな一言に、何だか心が救われた気がして、とてもうれしかったこと。

 どれもこれも、今の私を構成する、とてもとても大切なものたち。

 あれもこれも、いつか思い出せなくなって、存在自体忘れてしまうのかな。

 ……それが、何だか怖くなった。

 

 忘れたくないことがある。忘れられたくない思いがある。

 だから私は、日記にそれをきざむことにした。

 私の記憶からこぼれ落ちてしまっても、ページをめくれば思い出せるように。

 

 誰にも見せるつもりのない日記だから、何でも書ける。

 勇気が出なくて、結局言いたいことも言えずに終わった、なさけない今日の私のこと。

 親にぶつけられた言葉が、くやしくて、悲しくて、だけど何も言い返せずに我慢がまんしてしまった、行き場の無い心の内。

 妙に気になる気がするけど、好きなのかどうか、自分でもよく分からないクラスメイトのこと……。

 

 思いのままに書きなぐった日記は、後で読み返すと、時々妙にずかしい。

 その時は、恥ずかしいも何も感じずに書いていたのに……ほんの少し時を置いただけで、もう感じることが変わっている。

 過去の自分が、まるで自分じゃないような……別人の心の叫びを読んでいるように感じる時がある。

 

 激情げきじょう渦巻うずまく中にいては、見えないものがある。

 それが、少し後になって、頭の中が冷静になれば、なぜ見えなかったのか不思議に思うほどに、はっきりと見えてくる。

 あの時、こうすれば良かったんじゃないか……なんて、今さら気づいてしまったりする。

 ほんの少し前の自分が、ひどくおろかに思えて『私って、こんなにおばかさんだったかな……』とひそかに(へこ)んだりする。

 

 だけど逆に、すっかり忘れていた過去の自分の言葉に、はっとさせられることもある。

『私って、こんなにすごいことを考えてたんだっけ?』と、自分で自分を信じられなく思う。

 

 人間って、なんて短い間に、くるくる中身が変わるんだろう。

 今の私と過去の私は、もうこんなにもちがっている。

 

 過去の日記の中で、なかなか出来できずに悩んでいたことが、いつのにか、普通に出来るようになっている。

 過去にあんなに苦しんでいたことさえ忘れて、『成長したんだ』ということ自体、日記を読み返して初めて知る。

 人間って、こんなにも、自分の変化に鈍感どんかんなものなんだ……。

 出来るようになった喜びを、気づかないまま素通すどおりして、また別の“出来ない何か”にばかり囚われて、悩んでいる。

 

 日記を読み返すたびに、私はそこに、私の知らなかった“私”を見つける。

 今まで気づきもしなかった、人間ひとの“変化”の不思議を知る。

 

 私はこんなにも、自分自身のことさえ、よく分かっていない。

 私自身の過去さえ、気づけばあっさり忘れている。

 だったら親や友達なんて、なおさら私のことを分かっていないんだろうな、と思う。

 

 うちの親は、私が家にいる間のことしか知らない。学校での私のことを、ほとんど知らない。

 小学校に上がってすぐのころは、何でも夢中で報告したりしたものだけど、今ではそれもなくなった。

 学校の友達は、学校での私しか知らない。私が家で家族にどんな風に接しているのか、私が学校で話した以上の情報ことは知らない。

 誰も、私の“全部”を知ってくれてなどいない。

 私自身さえ、全てをおぼえてはいないのだから……。

 

 日々失われていく“私”を、せめて少しでもとどめておきたくて、日記にしるす。

 全てを書き残すことはできなくても、何も残さずにいるよりはマシだから。

 

 昨日の私は、もうここにはいない。

 だけどページをめくれば、昨日確かに私がいた証――私の刻んだ筆跡ひっせきる。

 時折、そのペンあとれて、過去の私をいとおしむ。

 いつかの私のつらい想いを、切なくなつかしんで、心の中でそっと呼びかける。

頑張(がんば)ったね。つらかったね。今は苦しくても、大丈夫だよ。未来の私は、もう辛くなんてないよ』なんて……そんなことを、語りかける。

 

 日記を読み返せば、過去のあの日がよみがえる。

 忘れていたなんて信じられないほどの、不安や絶望を思い出す。

 部屋のすみちぢこまって、『この夜が明けなければいい』『明日あしたなんて来なければいい』と、ひたすら心の中でり返していたあの日のこと……。

 

 あの日の私には、未来さきなんて見えなかった。

 明日あしたには、怖いこと、嫌なことしか待っていないと思っていた。

 朝が来るのが怖くて、時間ときつのにおびえていた。

 だけど、私は知っている。あの日の、その未来さきを知っている。

 だから、あの日の私に心の中で、そっと語りかける。

『大丈夫だよ。怖くないよ。意外とあっさり乗り越えられるから、そんなにおびえなくていいんだよ』……と。

 

 意味の無いことだと分かっている。

 どんなに語りかけても、私の声は、過去の私に届かない。

 ふるえる指で不安を書きつづった、あの日の私には聞こえない。

 だけど、それでも語りかける。

 あの日の私を、一方的に愛しみ、なぐさめる。

 だって、あの日の私の、あの苦しみを知っているのは、“私”しかいないから。

 

 誰も、私の“全部”を知らない。

 親も、友達も、私の一部しか見えていない。

 私でさえ、全てを覚えているわけではない。だけど……それでもきっと、あの日の私を一番に理解できるのは、“私”だ。

 あの日の私の心の叫びを、すぐに理解できるのは、きっと私だけだ。

 

 いつかの私のペンの跡をなぞって、いつかの心の痛みをたどる。

 あの日は誰からもなぐさめてもらえなかった私に、優しいはげましを、そっとおくる。

 たとえ届かなくても。聞こえなくても。

 

 そんなことを続けていると、時々、感じるのだ。

 嫌なことが待ち受けていて、不安で胸がいっぱいな時……苦しいことがあって、泣きたい気持ちで日記をつづっている時……ふと、私の綴るその文字に、そっと触れてくる、優しい指を感じる。

 今まで私がしてきたように……いつかの未来の私が、この文字に触れて、優しい慰めを贈ってくれている気がする。

 私の苦しみを、誰よりも知っているはずの、その声で。

『心配いらないよ。ちゃんと上手くいくよ。だから、大丈夫だよ』……と。


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