第98話 幸せ
王国で最も重要な場所ともいえる、王城。
その廊下を、一仕事終えた女が歩いていた。
サラサラの長い赤髪を揺らしながら歩くのは、ユリアである。
その目には、濃い隈はない。
それゆえに、退廃的な雰囲気はまるでなく、正統派の美人だった。
「ユリアさん!」
「うん? どうかしたかい?」
そんなユリアの背中に声をかけるのは、彼女の研究の助手を務めた女だった。
見知った顔に声をかけられて、ユリアも柔らかい笑みを浮かべながら振り返る。
「今回も、学会で研究成果を発表されたんですよね? どうでしたか?」
一仕事というのは、この王城の一室で行われた発表会でのプレゼンだ。
王国に雇われている公的な研究者であるユリアには、数か月に一度、成果を発表することが求められている。
潤沢な資金と設備、そして人員を配分される代わりに、必ず成果を求められる。
かなりシビアな世界で、多くの者が数年と持たずに入れ替わっていくのだが、ユリアはその中でも最古参と言えるほど長く勤務していた。
それだけ、彼女が研究者として優秀だということを示していた。
「そこそこ反応は良かったよ。君に手伝ってもらったおかげだね。ありがとう」
「いえいえ! 全部ユリアさんのお力ですよ。本当にすごいですよねぇ、ユリアさん。全女宮廷魔導士のあこがれですよ」
宮廷魔導士。
王国に仕える、公の研究者である。
騎士などといった国軍とは違い、ユリアをはじめとした彼らは戦闘を期待されて雇用されているわけではない。
魔法のさらなる発展と研究のために雇われているのが、宮廷魔導士であった。
民間とは比べものにならないバックアップを国から受けられ、また給与も非常に高く、そういった道に進みたい人間からすると、まさにトップレベルの職種である。
「止めてくれ。私一人の力だけだと、ここまでの論文を仕上げることはできなかったよ。君も初め、多くの人の支えと助けをいただけた結果さ」
それじゃあ、と手を上げて去って行くユリア。
残された女は、キラキラとした目を向けていた。
「はぁ、本当に格好いいな、ユリアさん。王国最高の宮廷魔導士なんだもん、格好いいのは当然か」
超エリートの集まりである宮廷魔導士の中でも、さらに高レベルにいるのがユリアである。
いずれは、宮廷魔導士から永続的に勤めることができる何らかの立場を与えられるのではないかと、もっぱらのうわさである。
確かに、彼女を切って別の国に拾われでもしたら、王国にとって損失は計り知れない。
「仕事もバリバリできて、プライベートでも幸せそうで……。私もユリアさんみたいになりたいなぁ」
彼女はそう言って、ユリアを羨望のまなざしで見送るのであった。
◆
「ふう……」
ユリアは自分だけの研究室が与えられている。
超エリートの宮廷魔導士とはいえ、個人研究室を与えられているのは、このユリアだけだ。
他は複数人で一つの研究室を利用している。
それだけ、ユリアに対する期待と信頼が大きいということが分かるだろう。
そして、この空間こそは、彼女だけの完全プライベートルーム。
それゆえに、様々な人間がいる表では出せないことも、外に出すことができる。
このため息も、その一つだ。
ため息一つでも、上げ足を取るようにそのことをしつこく尋ねて突いてくるような者もいるので、気が抜けない。
「慕われるのはいいんだけど、どうにもね……」
思い出すのは、先ほど廊下で出会った少女のこと。
彼女も自分よりはるかに若いというのに、宮廷魔導士に選ばれたエリートである。
性格も良く、純粋に好意を寄せてきてくれているのはとても嬉しいのだが……。
どうにも、その行為を受け取るのが恥ずかしい。
彼女の求めるユリア像というものがあり、それから逸脱しないためにも気を張り続ける必要があるため、気疲れしてしまうのだ。
それゆえに、ユリアが気を抜くことができるのは、この研究室だけだった。
なにせ、ここに入ることが許されるのは、部屋の主たる自分と……。
「やっほー! 元気、ユリア!?」
ガバッ! と後ろからいきなり抱き着かれる。
パニックになっても不思議ではないのだが、これも慣れたものだ。
ユリアは薄く微笑み……それは、外で見せる愛想笑いではなく、本心からのものを浮かべ、彼女を見るのであった。
「ああ、元気だよ。でも、君の元気さには劣るかな。リリー」
自身に頬をこすりつけ、クリクリとした大きな目を向けてくるのは、リリー。
自分と同じく宮廷魔導士で、一番付き合いが長い。
すなわち、ユリアの次に宮廷魔導士としての歴が長く、その分とても優秀だということだ。
「えー、じゃあもっと元気出そうよ。世の中、笑っている人が勝つんだよ!」
「どういう理屈なのか、さっぱり分からないね」
不満そうに頬を膨らませ、なぜか自分の胸をダプダプと揉みしだいてくる。
嫌なことがあるたびに胸を触られるので、もはや慣れたものだが。
男ならば鼻の下を伸ばして見つめる光景も、この研究室には二人しかいないので問題ない。
さすがに、リリーも男の前では自重する。
「それよりも! 発表、うまくいったんだよね?」
「いや、そううまくいったかはまだ……」
コロリと話題を変えてくるリリー。
表情と共に話題もすぐに変わるので、研究気質の宮廷魔導士の中には好ましく思っていない者も多いらしいが、ユリアは彼女のそんな性格が好きだった。
しかし、そんなリリーはユリアの返答をお気に召さなかったようで、頬を膨らませる。
「だって、ユリアの雰囲気が柔らかいもん。あたし、そういうの分かるんだから」
そう言われて、思わず自分の顔を確かめるように触る。
別に無表情を気取っているわけではないが、あまり感情が表に出るというタイプではないことは自覚している。
「……そんなに分かりやすいかな? 鉄仮面とか言われていたけど」
「何言ってんの! ユリアはとっても分かりやすくて、かわいいよ!」
「……後半だけありがたく受け取っておくとするよ」
分かりやすいというのは、誉め言葉ではない。
少なくともユリアはそう思っている。
こういうことをズケズケというところも、リリーに味方が少ない理由なのだろうが……。
ユリアは嫌いではなかった。
「また研究をするの?」
「成果を求められる宮廷魔導士の辛いところだね。手伝ってくれるかい、リリー?」
「もっちろん!」
ユリアの言葉に、リリーは即答する。
宮廷魔導士の中でも、この二人が手を組めば、素晴らしい論文が完成するというのはもっぱらの評判であった。
二人して頭をつけ合い、議論を交わしている時間が嫌いではなかった。
この時、ユリアは確かに幸せだった。
それが、簡単に崩れ落ちてしまうものとも知れず。




