第80話 なお
「これは……」
ポツリと呟くテレシア。
彼女は、空を見上げていた。
青い空で、どこまでも澄んでいる。
少し前までは雲もいくらかあったはずだが、暗黒騎士とテレシアの斬撃の衝突により、一気に吹き飛んだのであった。
「空、最近見ていなかったですね」
そういえば、こうしてゆっくりと空を見上げることはできなかった。
ツァルトに捕らえられてからは地下の窓すらない部屋で薬物を投与され続け、そのあとは洗脳されて自分の意思で身体を動かすことすらできなかった。
洗脳から解放された後は、ただただ暗黒騎士を殺すために疾駆した。
だから、こうして空を見上げるのは、ルーカスとシヴィ。
二人の仲間と共に、旅をしていた時以来だった。
「げほっ、げほっ」
口から血が出るので、顔を背けて地面に吐く。
その際に、自分の身体を見下ろし……苦笑いする。
なにせ、彼女の身体は見事なまでにバッサリと切り捨てられていたのだから。
暗黒騎士の斬撃と、自身の斬撃。
覚えていないが、打ち勝ったのは暗黒騎士の方だったのだろう。
「はぁ……また、勝てませんでしたか」
【ああ、そうだな。私の勝ちだ】
テレシアは目を丸くして驚く。
完全に独り言のつもりだったので、返事が返ってくるとは思っていなかった。
起き上がることのできないテレシアの視界に入ってきたのは、悍ましい黒い騎士……暗黒騎士である。
今の今まで執着し、絶対に殺してやると意気込んでいた相手だったが、どういうわけか怒りも憎悪も沸いてこなかった。
酷く落ち着いた、穏やかな気分だった。
それは、もうじき自分が死ぬと分かっているからだろうか?
「暗黒騎士……。ふっ、私にとどめを刺しに来ましたか?」
【いや、その必要はないだろう。貴様は私が手を下さずとも、じきに死ぬ】
「ええ、その通りですね。でしたら、どうして……」
困惑するテレシア。
自身に手を下しに来たというわけではないのならば、どのような理由があるだろうか?
何も分かっていない彼女に、暗黒騎士は冷たく……しかし、どこか温かい言葉を吐く。
【私をここまでてこずらせた女だ。一人で逝かせるには、惜しい】
「…………」
キョトンと目を丸くするテレシア。
暗黒騎士の言い放った言葉を飲み込み……ふっと笑った。
「まさか、あなたからそんなことを言われる日が来るなんて、思ってもいませんでした。先ほどまで命を取りに来ていた私に、随分と優しいですね」
【…………】
暗黒騎士が答えることはない。
少ししか会話をしていないが、積極的に話してくるような明るい人物でないことは分かっている。
そもそも、今のテレシアにとって、騒がしくにぎやかな人が隣にいればいいというわけではない。
ただ、寄り添ってくれる人がいる。
それだけで、彼女の心は満たされていく。
「でも、そうですか……。私は、最期は一人じゃないんですね……」
ほうっと息を吐く。
どんどんと冷たくなる身体。
しかし、それに反比例して心は温かくなっていく。
それもこれも、隣に暗黒騎士がいてくれるからだ。
ああ……。
「ああ、嬉しいなあ……」
テレシアは笑っていた。
だというのに、ぽろぽろとこぼれる涙。
その熱いものが頬を垂れることが、理解できない。
だが、悪い気分ではなかった。
泣くときは、いつも悲しい時だと思っていた。
しかし、嬉しくても涙は出るのだ。
そんなことに、テレシアは今更気づいた。
「凄く……凄く、嬉しいです。私は、一人じゃなくて……誰かに看取られて、死ぬことができる……。化物と呼ばれ、嫌われ……仲間からも売られた私が……」
身体を張って、傷つきながらも守った人々から石を投げられた。
心を通わせたと思っていた仲間にさえ売られた。
そんな自分にも、たった一人最期を看取ってくれる人がいる。
それが、どれほど嬉しいことか。
人は、最期の時にどれほど周りの人に悲しまれるかで、その人生が決まると聞いたことがある。
自分の周りにいるのは、魔族一人だけだ。
だが、それでも……とてつもなく嬉しかった。
「憎んでいたあなたなのは、不思議な感じですが……」
【不満なら、あそこにいる女騎士を連れてきてやろうか? あれも、一応人間だぞ】
「どうして人間が魔王軍に与しているのかは……聞かないことにしますが……」
遠巻きにこちらを見ている女を見る。
やはり、暗黒騎士は特別だ。
人間を魔王軍に入れているのは、特異である。
確かに、彼女が人間ならば、同族なのだから最期を看取ってくれたら嬉しいかもしれない。
しかし……。
「私は、あなたがいいです。最後に見送ってくれる人は」
【……そうか】
今の自分に必要なのは、人間ではなく暗黒騎士である。
だから、自分の最期は彼に任せよう。
「……寒くなってきました。ぎゅってしてください」
武骨な暗黒騎士に、テレシアが甘える。
血だらけで、ボサボサで、ボロボロ。
正直、見られるのも恥ずかしいのだが、少し甘えたくなった。
甘えるということは、勇者になってからは許されなかった。
だが、まだテレシアは年若い。
愛情を一身に受けたかったし、甘えて自由に生きてみたかった。
【私の身体は鎧だぞ。冷たいままだ】
「いいんです。それでも、してほしいんです」
【…………】
しばらく悩む様子を見せた暗黒騎士。
しかし、結局動けないテレシアの身体を抱きしめてくれた。
傷だらけで、もはや手を動かすことのできない彼女。
そんなテレシアを抱きかかえ、抱きしめてくれた。
「……硬いです。冷たいです」
【だから、言っただろうが】
人肌の温かさなんて、微塵も感じない。
武骨で、冷たくて、硬くて……。
でも……。
「でも、幸せです」
テレシアは、これ以上ないほど幸せそうな笑みを浮かべていた。
彼女が勇者となってから、これほどの笑顔はなかっただろう。
最期の最期に、こんな表情を浮かべることができる。
それが、どれほど幸せなことか。
「……暗黒騎士」
【なんだ?】
「……今度、生まれ変わったら……一緒に、旅をしましょう」
テレシアにとって、それは勇気のいる言葉だった。
素面であれば、決して言うことはできなかっただろう。
この後、すぐに死ぬからこそ、恥ずかしくても伝えることができたのだ。
「いろいろなものを見て……食べて……話して……一緒に……楽しく……」
テレシアの言葉が、とぎれとぎれになっていく。
いつの間にか、目は開いていない。
瞼が重たくて重たくて仕方なかった。
もう、口を開くことすら億劫だ。
だが、まだ伝えられていない。
一番大切な言葉を、伝えられていないのだ。
「……暗黒騎士」
【…………】
声も、かすれにかすれている。
もはや、聞き取ることも難しいだろう。
しかし、暗黒騎士は黙ってテレシアの言葉を待つ。
それがうれしくて、また彼女は笑みを浮かべる。
「私、あなたのこと……」
続く言葉は、ちゃんと発せられたのだろうか?
少なくとも、聞くことができたのは、テレシア本人と彼女を抱きしめる暗黒騎士だけだろう。
こうして、人類の希望である勇者は、静かな眠りにつくのであった。
【(ここまでしてやったんだから、化けて出てくるなよ)】
なお、すぐに再会する模様。




