第243話 光明(地図画像あり)
7月3日、日が昇った。焼き魚を食べに川原へ向かいたいが洞窟から出られない。入り口付近に魔物がいるからだ。ブラッドジャガー3体。うち1体は完全に入り口を塞いで動く様子が無い。それどころか時折り岩肌をガリガリと削って中へ入ろうとしている。
どうやら俺の存在をかなりの確度で掴んでいる。もちろん気配消去を行使しているが臭いまでは隠しきれない。俺自身は体の汚れや臭さを気にしなくなったが、魔物に対しては嗅ぎつける好材料を提供してしまったのだ。
ここはクエレブレから1km離れている。縄張りの半径は推定500mなので追い払いを期待は出来ない。さて、どうしたものか。トイレにも行きたいが、この上、尿の匂いを加えるとますます魔物は動いてくれない。せめて洞窟の最奥で済ますか。
100m先の行き止まりで用を足す。ひとまず砂をかけて臭いの拡散を防いだが、魔物の優れた嗅覚にどれほど効果があるのか。うーむ、洞窟付近での遭遇は想定していたが、まさか入り口に張り付くなんて思ってもみなかった。
魔物探知は半径60m、洞窟入り口から50m付近で魔物の動向を見守る。
……。
1時間が経過。魔物は去るどころか他の2頭も入り口付近の岩肌を削り始めた。かなり硬い岩なのでブラッドジャガー程度では崩せないと信じたい。
もし入ってきたらどうする。洞窟の幅は1m、高さ2mだ。ブラッドジャガーの体格ならなんとか進めてしまう。
ガオオオッ
グルルル……
時折り獲物を求める鳴き声が聞こえる。
魔物が来る。怖い。
でも逃げられない。
胸の鼓動が高鳴り、脂汗が滴る。
あの鋭い爪で身体を引き裂き、首筋に噛みつくのか。一発で殺される。絶対に勝てない。
どうする。どうする……。
足元の砂を盛ってバリケードにするか。いや、直ぐに崩される。だったら完全に洞窟を塞ぐほど積み上げるか。……そんなのただの時間稼ぎだ。何も解決しない。
ああ、まさかこんな結末とは。やはりクエレブレの縄張り内に寝床を設けるべきだった。唯一の魔物を排除する手段がない。それどころか自ら穴に入って逃げられなくなった。何とも間抜けな最期だな。
せめて最奥でその時を待つか。
……。
30分ほど経過するが魔物は来ない。もういいや、俺から出向いて決着をつけてやる。せめて一発でも殴ってやろう。
あれ? 地形探知に妙な反応がある。空洞? ここで行き止まりじゃなかったのか!
最奥の壁から2m先に1mほどの空洞を確認した。形状から推測するとその先も同様に洞窟が続いているはず。俺の足元は砂。そうか! 元々は繋がっていたが、ここだけ天井が低いため砂の堆積で分断された。つまり掘れば向こうへ行ける。
その先がどうなっているのか分からない。すぐにまた行き止まりの可能性もある。でもこんなところで死を待つくらいなら動いていた方がマシだ。
足元の砂を一心不乱に掘り続ける。深く掘るほど硬くなったが、レッドベアの手袋のお陰で何とか掘り進められる。30cmほど掘ると石の壁が途切れた。ここから横に掘れるぞ。
2mの横穴を掘り、上に力を込めると砂が抜けた。やった! 空洞に出たぞ!
地形探知によると少なくとも60mは先が続いている。狭くなる部分もあるが何とか通れそうだ。勾配は緩やかに下っているが水の侵入は確認できない。よし、行こう!
暗闇の先がぼんやりと明るい。これは日の光か。
更に進むと白い縦筋が見えた。外だ。外に繋がっているぞ!
高さ1m、幅20cmほどの岩の隙間に到着する。ここから出られそうだ。隙間に身体を捻じ込む。子供の俺でもギリギリだ。
青空の下へ出る。あー、良かった。一時はどうなることかと思ったぞ。
半径60mに魔物はいない。ひとまず洞窟入り口のブラッドジャガーをクエレブレまで引っ張るか。
魔物を引き渡し、縄張り中心付近の大きな岩の陰へ身を隠す。
グオオッ……。
ブラッドジャガーを粉砕したクエレブレは首を振りながら周囲を注意深く観察する。その巨体は岩の反対側まで迫っていた。間違いなく俺の存在に気付いている。
ガアアアッ!
唐突に咆哮を上げると尻尾を岩に叩き付けた。岩の上半分が砕けて、俺の頭上からは飛び散った石が降り注ぐ。クエレブレは苛立ちを増していた。
むっ、マズい!
咄嗟に岩から離れる。クエレブレは残った下半分の岩に長い尻尾を打ち付けた。大量の石が砕け四方へ飛ぶ。うち1つ、拳ほどの石が脇腹に当たった。
「……っ!」
激痛が走る。あばら骨が折れたか。岩影に転がり治癒を施す。
クエレブレは砕いた石片を1つ1つ観察し踏み潰している。魔物の意志からは臭いへの反応が読み取れた。やはり気配消去では隠し切れていない。このままではいずれ見つかる。かと言って身体強化の全力疾走も出来ない。
クエレブレが脚を打ち付ける度、大量の砂ぼこりが舞い上がる。今日は風がほとんどないため、しばらく漂った後に地面に降り積もっていた。もちろん俺の頭上からも降り注ぐ。よし、このまま砂に埋もれて臭いの拡散が和らげば発見されないはず。
あれ? 降って来ない。何故だ。
あー、粉塵結界だ! 訓練のため重ね掛けしていた効果がまだ残っている。くっそう、周りに積もっているだけに余計目立つじゃないか。何てことだ。身を守るスキルが仇となるとは。
結界解除。
えっ、結界がすべて消えた。何だ。任意に解除できるのか。
寒い。保温だけは直ぐに行使だ。
ドオオオン
直ぐ近でクエレブレの脚が地面を揺るがす。辺りは大量の砂ぼこりに包まれた。どうやら臭いの元に接近した手応えを掴んでいるぞ。まだしばらくは探すつもりだ。くっそう、しつこい。
いや兄貴はそんな性格だった。執拗に追いかけて徹底的に破壊する。はは、もうこりゃダメかな。せっかく洞窟の窮地から脱したのに、今まで頼りにしてたクエレブレに踏み潰されるなんて。
クエレブレは頭を低くして鼻を鳴らす。頭上にまでその巨大な影が迫っていた。気配消去の上に頭髪と肌の色を砂に似せている。加えて砂ぼこりも被っているため視覚上は分からないはず。後は臭いだ。臭いさえ消せれば。
臭い漏れ防止結界。
えっ、また何か覚えたぞ。臭い漏れ防止。おおーっ! やった! これで完全に隠れることが出来る。
風が強くなり、辺りを漂う砂ぼこりが晴れた。クエレブレからは困惑が読み取れる。
頼む。見つかるな。
……。
クエレブレは縄張りの中心へ戻った。
ほっ、助かった。
臭い漏れ防止結界の範囲は球体、中心は地面だ。場所に有効なのね。
いや待てよ。まだ何かある。
消臭結界。
範囲は……俺自身だ。おおっ! これは素晴らしい! あれだけ臭いに苦労したのに一気に解決したぞ。
いやしかし結界関連の成長は著しいな。虫よけ、日焼け止め、音漏れ防止、保温、風圧減少、防水、粉塵、臭い漏れ防止、消臭か。9種だぞ。加えて任意の結界解除も習得した。
成長と言えば地形探知にも変化があったな。範囲は半径60mと広がってはいたが対象は変わらず地表と水底だった。つまり空気、或いは水に接している面しか分からなかったのだ。
洞窟の奥では岩の先まで認識できた。つまり効果範囲が物体を通過したのだ。これを使えば地中の洞窟なんかも見つけられるのでは。ああいや、確か岩の厚み含めて3mくらいまでしか分からなかったな。そんな浅いところに空間は無いか。
さーて、移動だ。骨折の完治まで5時間を要するが、こんなところでいつまでも寝そべっているワケにもいかない。臭い関連の結界も覚えたし、身体強化が出来なくても見つからずに動けるだろう。何より口の中まで砂が入って気持ち悪い。腹も減った。
慎重に歩いて川原へ向かう。途中、水の精霊石を拾って口をゆすぐ。いやしかし清潔な水に困らない環境は本当に助かるな。
川魚を捕らえて焼く。この焼ける臭いも魔物を引き寄せるのだろうか。念のため臭い漏れ防止結界を施しておこう。
茂みに身を寄せて焼き魚と木苺を食べる。あー、落ち着いた。
ここまでそれなりに考えて危険を回避してきたが、完全に穴は塞げないし、変則的な事態なんかは備えられない。そのそも魔物に囲まれた山奥だ。安心できる環境なんて構築できるはずがない。出来る限りのことはやって、後はその時、その時だ。
うーむ、立て続けに命の危険に晒され感覚が麻痺してきたか。高所からの転落、急激な体温低下、魔物が洞窟侵入の恐怖、クエレブレの接近。次は何だろうね。
寝床の洞窟へ戻る。入り口の岩には多数の引っ掻き傷が残っていた。ただ表面上に過ぎず、強固な岩が崩れる気配はない。はは、心配し過ぎたか。やはりブラッドジャガー程度の力では洞窟内に侵入は出来ない。
でもレッドベアくらいの腕力なら分からないな。もちろんあの巨体では洞窟に入れないけど。
臭い漏れ防止結界を洞窟入り口から入念に施す。あれ? これってよく考えたら入り口だけでもいいのでは。球体の効果範囲で半径2m30cm。つまり入り口はすっぽり入る。
うーん、どうだろう。ちょっと検証してみるか。
洞窟内に1個所臭い漏れ防止結界を施す。その結界範囲外でキノコを炙り、風の精霊石で匂いを流した。結界内に入ると匂いを感じる。うん、これは分かる。問題は反対側の結界範囲外だ。
そこでもキノコの香ばしい香りを感じた。あらら、結界を抜けても匂いが漏れているじゃないか。どういうこと?
試しに洞窟の奥で臭い漏れ防止結界を施し、結界内でキノコを炙る。そして結界外へ風を送り移動して確かめた。匂いはしない。少しずつ顔を移動すると匂いを感じた。おお、機能している。目には見えないがちゃんと結界の境界は存在するぞ。
試しに結界外でキノコを炙り、反対側へ匂いを送るとそれは感じた。そうか、分かったぞ。匂いが最初に触れる面で結界の有効無効が決まるのだ。つまり内側なら匂いは消えて、外側なら消えない。そして一度結界に触れた匂いは再び内側に触れても何の影響もないのだ。
エナンデル劇場のアブソーブ合素の扉を思い出す。あれは吸音効果があるので劇場内の音は廊下に一切漏れていなかった。ならば音漏れ防止結界を扉に施せば同じ効果が得られそうだが、恐らく消せるのは扉周辺の音に限り、劇場内の音には効果が無い。
うん、間違いない。音でも臭いでも結界の外側に一度でも触れたら結界が無効になるのだ。じゃないとわざわざ吸音材の設備なんか作る必要無いもんね。
ひとまず洞窟内では普段俺が活動する範囲に結界を施しておこう。これできっと入り口に魔物が居座ることも無いはず。万一、塞がれても奥には脱出路がある。あっちはまず行かないから臭いも付かない。出口を塞がれることは無いだろう。
まあひとまずは安心できる環境になったか。何か見落としている気もするが、事が起きた時でいいや。さーて、骨折が完治するまでは魔力を抑えて訓練に勤しむか。まずは魔物素材の定着でもしよう。
『テラーコヨーテの牙
定着:26日7時間26分
成分:F03 L03 R01
G04 A01 W01
H17 D15 М18』
それにしても鑑定結果が暗闇でも見えるのは面白い。まあ元々鑑定者にしか見えないから可視光線は関係ないとは思っていたけどね。恐らくは魔素的な何かが作用して、直接脳内に映し出しているのだろう。
◇
翌日、7月4日。気づけば神の魔物襲来まであまり猶予が無い。もちろん戦闘準備なんか整っておらず、1日2日で劇的な進歩も見込めない。やはり逃げて隠れてをより確実なものにするしかないな。
川原で浮遊を訓練する。移動速度は時速4kmほどとなった。人が普通に歩く速さだね。まあ全力疾走にはほど遠い。しかし効果時間は30秒ほどなので計算上は幅20mの川を渡れる。
行くか。でも落ちれば冷たい水の中だ。低体温は避けれない。
……。
怖いなぁ。それにもし魔物が襲ってきたら終わりじゃないか。
うん、もうちょっと余裕が出来てからにしよう。
……。
いやダメだ。神の魔物はいつ来るか分からない。川を渡らなければ行動範囲が限られてしまう。
よしやるぞ。
意を決して水面に右足を伸ばす。空間の感触を確かめて左足を上げる。水面から10cm。確実に浮いている。次は移動だ。秒速1m少しのゆっくりとした速度で対岸へ向かう。半径60mに魔物はいない。上空にも影は無い。大丈夫、行ける。
川の中心付近は流れが速く水面も波打っている。その波に合わせて体が揺れる。うう、怖い。でも大丈夫。絶対に落ちない。対岸まで集中しろ。
ふー、渡り切った。何だか妙な汗をかいたぞ。
それでも大きな自信に繋がった。何事もまずはやってみることだね。
……ちょっと引き返してみるか。
一度目よりも余裕を持って対岸へ渡れた。波の影響で体は揺れるが、対応するコツを掴んだかもしれない。もう一度渡る。ああもう全然余裕だ。それにちょっと速度が増した気がするぞ。
それからひたすら川を往復し、寝転んで渡れるまで上達した。昼食の魚は川の中央で浮遊しながら獲ったものだ。本当に慣れると成長が早い。これが英雄の力か。
午後からは対岸の先まで足を伸ばし探索する。幅50mの川もあるが、浮遊時間と移動速度の上達により何とか渡り切る。もう軽いジョギングくらいまで速度が出ているな。時間も40秒ほど持つぞ。
◇
翌日、7月5日。神の魔物は6月25日にクレスリンに襲来した。そこから今日が10日目である。もちろんスケジュール通りに来る保証は無い。とにかくいつ接近を感知しても逃げられるように、不要な怪我負わないように意識しよう。
とは言え、臭い漏れ防止結界と消臭結界の力は大きい。森の中で魔物に遭遇しても、音漏れ防止結界と気配消去を施し、尚且つ頭髪と肌の色を変えて座り込めばまず発見されない。
視覚を紛らわし、聴覚と嗅覚は意味を成さない。加えて空気を伝播する魔素まで遮断しているのだ。自分で動かない限り、発見される要素は見当たらない。もちろん魔物探知の存在も大きい。半径60mならこちらが先に発見するのだ。
もうこれだけ能力があれば直ぐにでも安全に下山ができそうだ。ただ1日以上かかる距離ならそうもいかない。まずは寝床へ引き返せる距離まで探索して、周辺の地形把握に専念しよう。
日が暮れて寝床へ入る。今日は沢山歩いた。
◇
翌日、7月6日。その日も周辺の探索に力を入れた。
北東方面には思ったより森が広がっていた。少し高い丘から見渡した限り、東に向かうほど森の密度は増している。勾配も合わせて下がっているため、人里を目指すなら東方面で間違いないな。
洞窟の寝床で夜を迎える。今日も神の魔物は来なかった。
明日は12日目だ。そろそろ来るか。もし来ても隠密と結界を駆使すれば、案外やり過ごせるのではないか。5時間くらい森の中で逃げ回っても何のことは無い。そう思えるほど広範囲の探索は魔物に対する絶対的な自信を得た。
よーし、明日は更に東へ探索範囲を広げよう。




