《前編》
扉前で立ち止まり、中を伺う。
入ったことはない。
だけど利用するしかもう手がない。
一年付き合った男は、いつも金欠だった。営業は出費が多くて辛いんだとぼやきながら、デートのときは常に高級なレストランやホテルを予約して、支払いはしない。
私の給料は家賃と光熱費に必要な分以外は、すべてデート代に消えていった。
日々の食事もギリギリで、当然貯金なんてない。
それでも。バカな私はすぐに彼の可愛い妻になれるんだと信じて疑わなかった。
私がその日病院で撮ってもらったエコー写真を差し出すと、彼は一瞬フリーズした後に、やったね!と満面の笑みを見せた。
翌日、連絡すれば返事が来た。
3日後、どの手段の連絡もとれなくなった。
5日後、彼の部屋を尋ねたら引っ越し済みだった。
念のために勤務先に電話をしたら、海外に転勤になったと言われた。
それを信じるほどバカじゃない。
彼は私の前から姿を消した。
エコー写真を泣きながら見ていても、なんの解決にもならない。
処置を受けようにも貯金はないし、親に打ち明けるのも嫌だ。
どうしたらお金を工面できるのか考えてたどり着いたのは、消費者金融だけだった。
よし。
意を決して入ろうとしたところで
「先生」
と聞き覚えのある声がした。振り返ると思った通り、5年も家庭教師をやった教え子の少年だ。
「何してんの?お金ないの?」
この春大学に入ったのだから、もう少年ではないか。
「うん。ちょっと入り用でね」
私が大学1年生の秋に、中2だった彼の家庭教師になった。当初は高校受験が終わるまでの契約だった。けれども私の教え方が彼に合ったらしい。成績が大幅にアップしたことで本人にもご両親にも信頼を得て、契約は更新となった。
さすがに社会人になっては教えられないと、大学卒業に合わせて辞めようとしたのだけど、頼むから後一年、大学受験が終わるまでなんとか勉強を見てほしいと泣きつかれた。
結局派遣協会を辞め、個人的に勉強をみるボランティアとして通った。会社に副業がばれないよう、給与ではなく薄謝をもらい、時折、私の好きな高級フルーツやバッグをもらった。
そんな師弟関係も、彼の大学合格と共に終了した。会うのは合格祝いのプレゼントを渡した日以来、半年ぶりだ。
「こんなとこでいつも借りてるの?」と少年。
「まさか、初めてだよ。ちょっと、ね」
「なんで?リストラ?」
思わず吹き出した。なんだか久しぶりに笑った気がする。
「違うよ。どうしても入り用なんだけど、貯金もなくてね」
「彼氏は助けてくんないの?」
そういえば、一度デート中にばったり会ったことがあったっけ。
「もう別れたよ」
「そうなんだ。じゃあ俺が貸す。幾ら必要なんだよ」
「いやいや、生徒には借りないよ」
「生徒じゃない。元生徒。さっさと言って。幾ら?」
ため息をつく。
彼は頑固なところがある。ここは真実を言って、額の大きさに引いてもらおう。
「三十万」
「…へえ」
「ね、引いたでしょ。じゃあ、またね。ダメ先生でごめん」
なんとなく彼の前では店に入りづらくて、駅方面に向かって歩きだした。
すぐに彼が追いついてくる。
「俺もこっち」
しまった。反対方向へ行けばよかったか。
とりあえず学校の話をふって会話をつなげる。
と、コンビニ前に差し掛かった。
「そうだ先生。ちょい、買い物。ここで待っててよ。男子の身だしなみ品だから」
「ああ、そう」
苦笑して、店内に背を向けて待つ。中2の頃は可愛かったのに。コンビニで私に見られたくないような物を買うようになったのか。
なんだか複雑な気分だ。世の中の男の子を持つお母さんたちは、こんな気分になるのかな。
そっとお腹に手をやる。
私はいつか、お母さんになれるのだろうか。
「お待たせ」
戻ってきた彼の手には小さな白いビニール袋。はい、と差し出された。
「先生の好きなチョコ」
「ありがと」と手を伸ばす。
「と、三十万」
え?と袋の中を見ると、確かに紙幣が大量に入っている。
慌てて彼に返そうとするが、受け取ってくれない。
「入学してからさ、彼女と夏に旅行に行くつもりで必死にバイトしてたんだよ。けど、不思議なんだよな。肝心の彼女が出来なかった。だから貸してやるよ」
「だめだよ、こんな大金」
「次の目標は春休みに彼女と旅行なんだ。だからその前に返して。それまでには絶対彼女がいるはずだから」
「借りられないって!」
「そうだな、返す日は2月13日ね。14日、俺の誕生日なの、覚えてる?」
「そりゃ5年の付き合いだもの」
「じゃ、そういうことで。18で稼いだ金は18の内に回収する」
仕方なしに、何のために必要かを話した。そんなことのために、彼が一生懸命働いて稼いだお金を借りることはできない。
残念だけれど、これで彼との縁もおしまいだろう。
だけど彼は硬い表情になったものの、断固として貸すと言って聞かなかった。
「…わかった。ちょっと待ってて」
コンビニに入り、目当ての品を買って出る。
彼の元に戻ると、買ったばかりの袋を開けて取り出したマジックペンを彼に渡した。
「書いてくれる?君が今日、私に三十万貸した、返却は2月13日って」
三十万とチョコの入ったビニール袋を指差す。
「そこに?」
うなずいて、袋を彼に渡した。
代わりに自分はバッグの中から手帳とペンを取り出して、借用書を書いた。
お互いに書いたものを交換する。
「ありがと。本当はすごく助かる」
「ああ。返すときは、誕生日プレゼントもつけてよ」
「もちろん」
「…その日、一人で大丈夫か?」
「大丈夫。君もすっかり大人だね」
そうして駅までくだらないことを話ながら一緒に歩き、別々の電車に乗った。
帰宅すると、ビニール袋からお金とチョコを取り出し、書かれた文字が見えるように冷蔵庫に貼った。
処置が終わったら。返すお金を入れていくのだ。ここに貼ってあれば、一日に何度も目にする。
自分の愚かさの確認にちょうどよい。
◇◇
結論から言うと、私は袋に一万円しか入れられなかった。
処置で医療ミスがあり、翌日に死んだのだ。
私は私のお葬式を空から見ていた。
死亡の知らせを聞いて上京した両親が、私の部屋で見つけて渡したのだろう。少年が、あのビニール袋を握りしめ、私の棺にすがって号泣していた。
貸さなきゃよかった、と何度も何度も繰り返し言っていた。




