「はい、おっしゃいました」
女の戦いが今にもはじまりそうになっているとは毛ほども思っていないであろう元凶は、組んだ腕を苛々と指で叩いていた。
「俺の婚約者でありながら兄上に懸想していたとはな。お前の忠義はその程度のものだったか」
実に偉そうな言葉を吐くレオンに、アルミラはぴくりと体を震わせた。怯えから、ではない。
そもそもこの状況を作り出したのはアルミラだ。怯えるはずがない。
今日の昼食時にレオンはアルミラの教室を訪ねてきた。だがアルミラがいないとわかると、不機嫌を隠そうともせず立ち去った。教室に残っていた生徒は怒りの矛先がこちらに向かないかと冷や冷やしていたそうで、立ち去ってしばらくは身動きもとれなかったらしい。
その話を同級生から聞いたアルミラは、どうせ昼食を気にしてのことだろうと当たりをつけた。
昼食の用意もされず、教室に行ってもアルミラはいない。その状況でレオンがどう出るかなど、考えるまでもなくわかりきっていた。
怒りをぶつけるためか、あるいは新しい命令をするためかは定かではないが、レオンは遅かれ早かれアルミラを探すはずである。
だからアルミラは、普段ならば立ち寄ることのない第三学年の教室が並ぶ階に足を踏み入れる際、人目につくように動いた。社交性皆無のレオンでも情報を集めてたどり着けるように。
そうして思惑どおりの状況を作り出したわけだが、それでも文句が出てこないわけではない。
あの横暴ぶりで忠義を抱けると思っている、その馬鹿さ加減に一言物申してやりたくなったのだ。しかしレオンには顔を見たくないと言われている。
そのため、アルミラに取れる手立ては、ミハイルに訴えると見せかけてレオンに嫌味を吐くことだけだった。
「ミハイル殿下、どうかあのような暴君から私を守ってくださいませ」
「暴君だと!? 誰が暴君だと言うつもりだ!」
アルミラはお前以外の誰がいると言いたいのを必死に堪え、前に立つミハイルの胴に腕を回し、縋りつく。ぎりぎりと胴を締め上げられたミハイルが顔をしかめるのもお構いなしだ。
「くっ……レオン、ここは私の顔に免じて引いてはくれないか?」
このままではぽきりと折られてしまうと思ったのか、ミハイルは保身に走ったようだ。
「兄上が俺に命令できる立場だと思っているのか? 俺の臣下になるのだから、そこの無礼な女をひっ捕らえるぐらいのことはしてもらわなくてはな」
「そうしたいのは山々だけどね、でもほら……女の子に乱暴なことはできないだろう? 彼女は今怯えているようだから、また日を改めて、皆が冷静なときに話し合おうじゃないか」
自分が女の子に力で負けていることを伏せて、レオンの説得に精を出している。ミハイルはことなかれ主義の日和見だが、それでもほんの少しだけとはいえ守りたい矜持があったようだ。
優秀だとされている自分が、まさか女の子に脅されているとは口にできないのだろう。そして自分の命も惜しんでいる。
「怯える……? そいつが怯えるほど殊勝なはずがないだろう。本当に怯えているのなら、その滑稽な顔を俺に晒してもらおうか」
「いいえ、それはできません」
顔をミハイルに押しつけたまま首を横に振る。その動きがこそばゆかったのだろう。ミハイルの体がぴくりと動いた。
だがアルミラが完全に拘束しているため、わずかに体を動かしただけで終わった。
漏れそうになる笑い声を必死に堪えるように、頬を引きつかせながらも真剣な表情を保ち続けているミハイルをちらりと見上げてから、アルミラは小さく息を吐いた。
「顔を見たくないとおっしゃったのはレオン殿下でございます。いただいた最後の命令に背くことはできません」
「……言ったか? そんなこと」
聞こえてきた間抜けな声に、思わず胴を抱えている腕に力がこもる。ミハイルの口からわずかに呻き声が漏れたが、それを気にする者はこの場にはいなかった。
忘れてはいけないのは、レオンは癇癪持ちだということだ。ちょっとしたことで苛立っては、怒りをぶつける。そんなことは日常茶飯事で、レオンにとっては些細な出来事にすぎず、頭には残らない。
さすがに婚約破棄を叩きつけたことは覚えているだろうが、その前後までは記憶しない――大概のことを些末だと切り捨てる気まぐれな男、それがアルミラの知るレオンだ。
「はい、おっしゃいました」
「ならば再度命じる。俺にお前の情けない顔を見せろ」
「一度受けた命令に背くことはできません。気分でころころと命じたことを変えるのは、混乱のもとです。ゆえに私は、最初に受けた命令を遵守いたします」
かつかつかつかつと荒い靴音が聞こえてくる。さては力業に出るつもりだなと察したアルミラは、よりいっそう腕に力をこめることにした。
レオンに引き剥がされるほどアルミラは脆弱ではない。だが渾身の力をこめてミハイルを固定していることがばれたら、少し状況が悪くなる。
「あまり、近づかないでくれるかな」
だからここは、自分の命が大切なミハイルを利用するに限る。