「修道女はやだなぁ」
ミハイル――将来義兄になるかもしれない存在に危険視されているなどとは露ほども思わず、レイシアは自習に勤しんでいた。
学園に併設されている図書館はとても大きく、様々な資料が集まっている。その中から目当ての資料を見つけ出し予習復習を繰り返すのは、レイシアにとって日々の習慣の一つだった。
レオンがいないのだから自室にこもっているべきなのだが、勉強をおろそかにすれば苦労をするのはレイシア自身だ。そのため勉強をおろそかにすることはできなかった。
レイシアは凡才である。遊んでいても成績を維持できるほどの才能はない。そういう意味では、ミハイルもレオンもアルミラも、レイシアにとっては天上の存在にも等しい。
もはや勉強していないのではと思えてしまうほどレイシアと過ごすレオンと、レオンの雑事をこなしているから勉強できているとは思えないアルミラ。
ミハイルはレイシアと関わりがない存在なので、彼女の視界には入っていなかった。
資料である本を広げながら、レイシアは一人溜息を零した。
(もういいじゃん、お似合いじゃん、そっちで勝手にくっついて国を盛り立ててよ)
レイシアは凡人である。一国の王子とその婚約者――しかも男装している令嬢の間に割って入ろうなどと考えていたわけではない。そのような度胸も野心もない、いたって普通の、どこにでもいる子爵家の娘だった。
それがなんの因果か、レオンに気に入られてしまった。
レイシアは子爵家の三女として生を受けた身で、どこをどう間違っても家督を継ぐことはなく、貴族の夫を見つけられなければどこかの貴族家で侍女になるか、商家の嫁になるか、あるいは修道女になるくらいの選択肢しかない。
政略結婚をできるほどの力もないため、学園で恋人を作ってそのまま嫁ごうという、打算の入り交じる恋愛結婚を夢見ていた。
婚約者のいる相手にどうこうしようだとかを考えるほど悪辣ではなく、他人の恋人を奪って悦にひたるほど享楽的でもない。
そんなどこにでもいるような凡人が、レイシアだった。
だが、本当になにを間違えたのか――持って生まれた人との距離感のせいか――学園で男性人気を会得してしまった。
レイシアが末子で、年の離れた兄姉しかいなかったのも関係しているのかもしれない。甘やかされることや子供扱いに慣れきっていたため、なんやらかんやらと世話を焼かれることに違和感を抱かなかった。
それでもレイシア的には、相手のいる人との付き合いには一線を引こうと気をつけていた。若いうちから結ばれている婚約は政略的なものが多い。それを覆すことは難しく、ただの火遊びで終わるかもしれない相手に興味はなかった。
傍から見るとそれでも距離が近かったのだが、レイシアとしてはそのつもりだった。
そのはずが、なにがどうしてこうなってしまったのか、レイシアはレオンのお眼鏡にかなってしまった。
恋仲になるとかならないとか、夫婦になるとかどうとかを考えるような相手ではない。完全な政略結婚を前提にした婚約者がいて、しかも次期王になる相手とどうこうなるなどと、ただの凡人であるレイシアは考えたことすらなかった。
レオンがそばにいるようになってレイシアがまず思ったのは「あ、これ恋愛結婚もう無理なやつだ」だった。
なにせ王子が恋した相手だ。それに声をかけるような勇気や度胸のある者はそう多くない。他国の王族であれば話は別かもしれないが、そんな相手も伝手もなく、そもそも王族の時点でレオンとそう変わらない。
レイシアは凡人で多少夢見がちな女の子だったが、ある程度の度胸も持ち合わせていた。
恋愛結婚は無理だと諦め、こうなってしまってはしかたないと、愛妾か側妃になることを覚悟した。
だが天上の存在にも等しいレオンの思考を読み切ることは、凡才であるレイシアには到底不可能なことだった。
まさか婚約を破棄して、ただの凡人凡才ザ・平凡な自分を王妃に望むなど、想像すらしていなかった。
ノートの上で走らせていたペンを止め、本日何度目になるかわからない溜息をつく。
(正妃? 私が正妃? いや、無理でしょ。無理無理)
凡人なりの度胸はあるレイシアだったが、さすがに正妃になる度胸はない。
(だけど、レオン様に捨てられたら……修道女かぁ)
王子のお手付きだった女性に声をかけ、ましてや妻にと望む者はそういない。
学園にいる間の火遊びを楽しむ者はいるし、それでも結婚できる者はいるが、さすがに王子が相手だったとなれば誰でも尻込みするだろう。
手を繋ぐだけの健全な関係だとしても、それを証明する術は寝所を共にする以外ない。そこまで持っていける手腕があるのならば、レイシアもここまで悩まなかっただろう。
「修道女はやだなぁ」
思わず本音が漏れる。神に仕え規則正しい生活を送るというのは、レイシアの性には合っていない。恋もしたいし、幸せな家庭を築きたい。そんな夢を持つどこまでも平凡な女の子なのだから当たり前だ。
(なんかこう、いい感じに平和に解決しないかな)
離れた場所で危険視されているとも知らず、レイシアは虚しい願いを抱いていた。
凡人凡才で、少々夢見がちなところがあるレイシアだが、力のない子爵家の娘でありながらもなんとか学園でやってこられたのは、これまで培ってきた処世術のおかげだ。
とはいっても、手の平でころころ転がせるようなものではなく、ほんの少しやりすごせる程度のものである。
自習を終え寮に戻るまでの道中で、どこかの令嬢に足を引っかけられて無様に転んでも、レイシアは反抗しなかった。
「ずいぶんと汚らしいものが転がっていますこと」
向けられる蔑むような眼差しに、レイシアは腕に抱いた鞄を抱きしめながら唇を噛んだ。体を震わせながらもなにも言い返さないのは、この手の輩は少しでも反抗すると「生意気だ」と言って、より嗜虐心を燃やすことを知っていたからだ。
だからこそ無力な小動物のごとく震えて、相手の嗜虐心を満たすことによって難を逃れるほうが、傷は浅い。
だがレイシアの取った行動は、令嬢の嗜虐心を満たすだけでは飽き足らなかったようだ。丁度目撃していた令息の庇護欲すらも煽ってしまった。
「君たち! なにをしている!」
颯爽と助けに入る令息に令嬢は怯みながらも、忌々しげにレイシアを睨みつけた。