(嫌い嫌い嫌い、大嫌い)
コゼットは嫌われ者だが、それでも少なからず慕ってくる者がいた。
そのほとんどが踏んでほしいと乞い願う者ばかりだったのでこれまで関わってこなかったのだが、少し踏むだけで危ない橋を渡ってくれるのならと、ハロルドよりはマシだと自分に言い聞かせて、踏んだ。
歓喜に震える姿にハロルドに対するのとはまた違った嫌悪感を抱いたのだが、コゼットはそれを押し隠し、今日のためにと準備を進めてきた。
「言っただろう? 君に僕は殺せないって。ああ、それとも君が懇意にしている子にやらせるのかな? 自分の手は汚さず、他の人の手を汚させるだなんてずいぶんとひどいことをするんだね」
「アルミラのこと? 私があの子の手を借りるわけがないじゃない。あの子は今、別のことで手一杯でしょうし」
アルミラのしたいことはコゼットも少しは知っている。だからこそ彼女の手が塞がるこの日を選んだ。
これ以上巻き込まないようにと。
「うん、そうだろうね。今頃はフェイの相手をするので忙しいんじゃないかな」
「……あなた、なんてことを」
フェイとアルミラは師弟関係だ。そうでなくとも、アルミラがフェイに勝てる要素はどこにもない。
コゼットが嫌悪感を丸出しにして言うと、ハロルドは若干だが疲れた顔で溜息をついた。
「僕はね、彼女のことが嫌いなんだよ」
ハロルドは杓子定規にしか人の心を測れない人間だ。
一体どこの世界に、邪魔だと言われただけで髪を切るような令嬢がいるだろうか。それからも何度も予想の範疇を飛び越えるアルミラに辟易していたとしても、不思議ではない。
「あ、あら、珍しいこともあるものね」
男装したアルミラを前にして珍しく眉をひそめたことを知っているコゼットとしても、その返答は予想外だった。
人を玩具が駒のようにしか思っていない男が明確に嫌いと言ったのはこれが初めてのことで、とまどうように瞬きを繰り返している。
「彼女のことはもういいよ。どうせ今日で会うことはなくなるだろうし」
アルミラがフェイに勝てる見込みはなく、死にはしないまでもそれなりの大怪我は負うことは間違いなかった
そうなればアルミラがしようとしていることは達成できず、心を折ることができる――はずだったのだが、誰も予想だにしていない乙女心により、すでにその計画は頓挫している。
だがハロルドはそれを知らない。
もちろん、コゼットもだ。
「ならなおさら、ここであなたをどうにかしないといけないわね」
「君に僕を殺す度胸はないと、何度言えばわかるのかな?」
「私にだって、協力してくれる人はいるのよ」
変態だけど、という言葉を隠し小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
そして同時にパチっとなにかが弾けるような音と、焦げるような匂いがしてきた。
「……なにをしたのかな?」
「この部屋を囲うように火を放ってもらったのよ。あなたに人望がなくて助かったわ」
玉座の間に直接火を放つことはできない。
だが城中が慌ただしくなっているときに他の部屋にこっそり忍び込み、火をつけることはできる。
もしも真面目に王を、ひいては城を守ろうとするような者がいればまた違ったのかもしれないが、ハロルドが身近に置いている者にそんな忠誠心はなかったようだ。
「扉も外から開かないようにしてもらったし、逃げ場はないわよ」
ふふんとコゼットが勝ち誇ったように笑うと、ハロルドは口元を手で覆い押し殺すような笑い声を漏らした。
「……なによ」
醜悪なまでに歪んだはしばみ色の瞳にコゼットの足が自然と一歩下がる。
「嬉しいね。君が僕と一緒に死のうと思ってくれるなんて」
扉は閉ざされ、逃げ場はどこにもない。
それはこの部屋の中にいるコゼットにも同じことが言える。
しかもコゼットはアルミラとかとは違って、鍛えたことのない生粋の令嬢だ。気が強くはあるが、それだけにすぎない。
「僕は別にいつ死んでも構わないんだよ。退屈していたし……だけど最後に君で思う存分遊べると思うと、嬉しくてしかたないんだ。君もそう思ってくれたんだろう?」
立ち上がり、ゆっくりと近づいてくるのを見てコゼットは身構えた。玉座の間はそれほど広くはない。
逃げたとしてもすぐに捕まってしまうだろう。
「ようやく認めたわけね。私と遊んでるのではなく、私で遊んでるって」
「それは誤解だよ。だって僕は君自身にはなにもしたことがないだろう?」
「よくもそんなことが言えるわね……」
苦々しく呟くコゼットの脳裏に浮かぶのは、これまで壊されてきた大切なものたちだ。様々なものがハロルドによって奪われ、消えうせた。
「ほら、おいで。君はそのためにここにいるんだろう?」
ハロルドが手を広げ待ち構え、コゼットはそれを身構えた状態で睨みつける。
(……やっぱり、嫌なものは嫌だわ)
火を放ったとはいえ、回りきるまでには時間がかかる。扉を閉ざしたとはいえ、時間をかければ脱出できるかもしれない。
だからその間の時間稼ぎをコゼットは受け持つつもりだった。
コゼットさえいればハロルドは逃げようとはせず、弄ぶことを優先させるとわかっていたからだ。
だがわざわざその胸に飛びこんでやる気は起きず、逆に背を向ける。それを見て、ハロルドはしかたないと言うように広げていた手を下げた。
「君も往生際が悪いね。彼が助けにきてくれるとでも思ってるのかな? でも、僕が彼を置いてきたのは、なにも彼女を嫌ってのことだけじゃないんだよ」
もはやハロルドの口上を聞く義理はコゼットにはない。火が回り、逃げ道が完全に途絶えるまで逃げるつもりだった。
なにしろコゼットにとってハロルドはこの世で一番嫌いな相手だ。その嫌悪感は触れられれば鳥肌が立つほどになっている。
「それに、君に協力者がいるように、僕にも僕のために動く人がいるんだよね」
だが逃げ出そうとした体はあっさりとハロルドに捕まり抱きこまれる。
コゼットは生粋の令嬢で、丈の長いドレスの裾を踏んでつまずくほど運動神経がない。対してハロルドは敵の多い身だ。
世継ぎであるミハイルが産まれてからはより顕著になり、フェイを護衛騎士にするまでは命を狙われることもあった。
コゼットとハロルドでは体格も実戦経験も、あまりにも違いすぎた。
「君はいつも詰めが甘いよね。覚悟も決められず、衝動だけで動いている。ああでも、安心して。僕はそんな君を可愛く思ってるよ」
「あなたにそんなこと言われても嬉しくないわよ!」
「そう? それは残念だな」
ぴりっとした痛みが首筋に走り、コゼットの目が白黒と変わる。
「え、な、なに?」
「ねえコゼット。君が元気になってこそこそ動いているのに、僕が気づかないとでも思ってたの?」
視線を巡らせると、体に回していないほうのハロルドの手にナイフが握られているのを見つけ、コゼットの体が強張った。
「本当に君は可愛いね」
白い肌に赤い雫がぷくりと浮き、生暖かいものがその上を這う。
嫌悪感と痛みでコゼットの顔が苦痛で歪み、体を震わせた。
「君が僕と一緒に死のうと思ってくれたことは嬉しいけど、今回は君の望みを叶えられそうにはないかな。ある程度したら来るように言ってあるんだ」
囁き、楽しそうに笑う声にコゼットは手を強く握りしめる。
コゼットは何度もハロルドを殺そうかと考え、やめてきた。それはどうあがいても気づかれ阻止されるとわかっていたからだ。
(結局私は、こいつに遊ばれることしかできないの)
一度は折れた心が持ち直せたのは、アルミラが行動を起こすと知ったからだ。
元々レオンが幽閉されたと聞いた時点でコゼットの見ていた世界は揺らいでいた。
夜中に聞いたフェイとミハイルの会話で、ミハイルが誰を思っているのかを知り、自分のせいで歪んだ人生を歩むことになった人たちをなんとかしようと、無謀だとわかっていても行動を起こした。
だが結局はこの様だ。
意地でも泣かないように堪え、これから与えられるであろう屈辱に耐えるしかない。
(嫌い嫌い嫌い、大嫌い)
心の中で呪詛を唱えながら、持ち直した心が再度折れようとしていたその瞬間、けたたましい音を立てて扉が壊された。
「コゼット様!」
そして飛びこんできた声にハロルドとコゼットの顔が上がる。
叩き割られた扉と、その向こうで大剣を構えているフェイの姿にハロルドが忌々しそうに舌を打つ。
「時間稼ぎにもならないか。役に立たないな」
アルミラが抵抗も少なく負け、フェイに自責の念一つ与えられなかったと判断したのだろう。
実際には乙女心に突き動かされて割り込んだミハイルによって中断されたのだが、そうと知らないハロルドは吐き捨てるように言った。
「え? フェイ? あなた、どうしてここに」
乙女心はもちろんのこと、どうしてフェイがいるのかもコゼットにはよくわからず、完全に混乱していた。
「……十年以上そばにいて気づいてないなんて、賭けは僕の負けかな」
ハロルドが自嘲しながら言うのと、その頭部に大剣が叩きつけられるのは同時だった。
ハロルドは人でなしというだけで、凡才だ。
当然、人外のようなフェイの動きに反応できるような才能はない。
そしてコゼットを盾にしようと思っても、コゼットとハロルドの体格差がありすぎる。たとえ腕の中に閉じこめていようと、がら空きになっている頭部を狙われれば防ぎようはなかった。
「こちらに!」
コゼットを抱えたまま傾ぐハロルドの腕を無理矢理引き剥がしたフェイの手が、コゼットを掴む。
瞬きをする間に行われた一連の流れについていけず、いまだ困惑していたコゼットだったが、床に倒れたハロルドと自分の手を掴む大きな手を交互に見て、泣きそうな顔で小さく微笑んだ。




