「さすがにやりすぎだよ」
第一王子ミハイル・ハルベルトは今日をいつもと同じ、代わり映えのしない日々の一つだと思っていた。
弟のレオンがしでかしたことを知ってはいたが、それでなにかが変わるわけではない。ミハイルの日常とはなんの関わりもないことだ。
授業が終わり放課後になると、いつものように寮に戻り、自習と予習に励む予定だった。
そのはずが、人気のない教室に連れこまれた。
「ええと、これはどういうことかな?」
有無を言わさず腕を引っ張られ、なにも言われずに連れこまれたため、ミハイルの端正な顔に困惑の色がにじんでいる。
それでも困惑程度ですんだのは、ミハイルを連れこんだのが見知った顔だったからだろう。
「お話がございます」
凛とした佇まいのアルミラに、ミハイルは苦笑を浮かべた。
「それはわかるけど、私と二人きりというのは君の外聞的によろしくないんじゃないかな?」
「今さら醜聞の一つや二つ気にしません」
レオンが婚約を破棄すると宣言したのはつい昨日のことだが、ミハイルの耳にも届いていた。そして、従順に従ってきたアルミラがその場で承諾したことも知れ渡っている。
だが王命である婚約を覆すほどの力は、アルミラにもレオンにもない。
そのためミハイルは今回の騒動を、ままごとのようなものだろうと結論づけていた。
「ミハイル殿下、王になりませんか」
だがアルミラは、本気で婚約を破棄しようと考えている。
それに気づかないほど、ミハイルは愚かではなかった。
「聞かなかったことにするよ」
レオンを玉座に座らせるのは王と正妃の意向だ。アルミラの発言はたとえ学園でのものだとしても、王に対する叛意と取られてもおかしくはない。
臣下ならば、反逆の意思ありと王に進言するべきなのだろう。だが昔から知っている相手を突き出すのには勇気がいるものだ。
ミハイルは聞かなかったことにして、この話はなかったものにしようとした。
「いえ、聞いてください。私がレオン殿下の婚約者でなくなるためには、ミハイル殿下に王になっていただく必要がございます」
「だけど私が王になったとして、私に利はあるのかな?」
「もしも、あなたが王にならずにレオン殿下が王になれば、彼の我儘はあなたにも及ぶことでしょう」
「たとえ愚かな王だろうと、それを支え国を動かすのが臣下の務めだよ」
王になれとあっさりと言ってのけるが、それは簡単なことではない。第一王子と第二王子が争えば、貴族間でもどちらに付くかで諍いが起き、内乱にまでなりかねない。
それならばレオンを飾りの王として添え、影から国を運営するのが一番平和で穏便なやり方だと、ミハイルは考えていた。
「ミハイル殿下が王になると宣言すれば、支持する方は多いでしょう」
「だが父上とレオンを支持する者もいる。私は内乱なんて起こしたくないんだよ」
ミハイルは幼き頃から才能を遺憾なく発揮してきた。それなのに、癇癪を起しやすいレオンが誰からの反対もなく次期王と目されているのは、ミハイルの性格が理由の一つとして挙げられる。
平和主義者を王とするべく動いたとしても、本人にその気がなければ土壇場になって「いや、そういうのいいから」と、呆気なく手を放される危険がともなう。一か八かの賭けに出るくらいなら、レオンのご機嫌をうかがうほうが楽で安全だろう。
「レオン殿下が王になれば、無理な政策を通そうとして反乱が起きるとは思いませんか?」
「そこを調整するのが臣下の務めだよ」
「ではレオン殿下に醜聞が生まれたらどうされますか?」
「王になれないほどの醜聞なんて、そうありはしないよ」
「王命である婚約を破棄しようとしているのに、ですか?」
「ただ口にしただけだ。強制力もなければ影響力もない言葉にはなんの力もないよ。もちろん罰するだけの力もね」
優秀でありながらことなかれ主義のなんと厄介なことだろうか。
温厚なミハイルと過激なレオン。足して二で割れば丁度よいのにとは、誰もが思っていることだ。
ミハイルが苦笑を浮かべながらたしなめるように言うと、アルミラは小さく息を吐いてから指を胸の前で組んだ。
「ミハイル殿下、お慕いしております。私はレオン殿下とではなく、あなたと生涯を共にしたいのです」
熱のこもらない瞳で見上げられ、淡々とした声で愛の言葉が紡がれた。
ミハイルは苦笑を深めながら、お遊びでもそういうことを言うのはよくないとたしなめようとした。
「おい、どういうことだ!」
だが、それを口にするよりも早く、苛立った声がミハイルの耳に飛びこんできた。
視線を巡らせると、教室の入口で腕を組み、憤然と立っているレオンがそこにいた。
「アルミラ、なにをしている」
苛々とした声にアルミラの手がミハイルの胸に添えられる。それから額が肩に押し当てられた。
「さすがにやりすぎだよ」
たしなめながらアルミラの肩を掴み剥がそうとするが、びくともしない。てこでも動きそうにないアルミラに、ミハイルは眉をひそめた。
ミハイルは優秀だが、そのすべてが他者を凌駕しているわけではない。賢人と呼ばれる学者には知識で劣り、国一番と名高い騎士と剣で打ち合えば負ける。ただすべてにおいて高水準を維持できるがゆえに、優秀と呼ばれているだけにすぎない。
対してアルミラは、自己を鍛えるために心血を注いできた。それもこれもレオンの命令を遂行するためだ。
なにせレオンときたら、十分以内に菓子を調達してこいと命令したり、五分以内にくつろげる場を用意しろと命じたりする暴君ぶりだった。
生半可な体力ではその命令を成し遂げることはできない。そのため、体力やら瞬発力、その他もろもろを鍛えるために鍛錬に勤しんでいた。
しかもミハイルでは到底太刀打ちできない国一番の騎士に師事を仰いでのものだ。
(まさか、ここまでとは)
アルミラが王城に来ては、国一番の騎士のもとで鍛錬を積んでいたことはミハイルも知っている。
そしてその結果どうなったのかは、引き剥がせない状況がすべてを物語っていた。
時間を惜しむことなく鍛錬を重ねたアルミラは、ミハイルをも上回る力を手に入れていたようだ。
「もはやこの身はレオン殿下の婚約者ではございません。胸に秘めた想いを口にしても、咎められることはないのです」
アルミラの芝居かかった口調に、ミハイルはレオンの様子をうかがう。苛々と顔をしかめているのを見て、心の中で溜息をついた。
レオンがミハイルを嫌っていることは有名な話で、アルミラも当然知っている。
ここでレオンではなくミハイルに想いを寄せていたなどと言えばどうなるか――答えは簡単だ。レオンの怒りが沸点を振り切れるだけである。
「アルミラ!」
慌てて名を呼ぶが、アルミラはそれに答えるどころかミハイルの肩に顔をすりつけてきた。
縋るその姿は、なにも知らぬ者の目にはか弱き令嬢のように映ることだろう。男装していなければの話だが。
レオンにとってアルミラがどういう存在なのかは、考えるまでもない。なんでも言うことを聞く下僕だろう。
幼少期はそうでなかったとしても、今はそうとしか思えない扱いをしている。
命令さえすればなんでも遂行する。それはとても便利な存在だったことだろう。
そのアルミラが、レオンの命令を無視してミハイルに縋っている。レオンにとってそれは、言い表せないほどの衝撃に違いない。
男装しているのでいささか倒錯的な絵面ではあるが、レオンはそのようなことを気にする性格ではないだろう。
そこまで考え、ミハイルはアルミラからレオンに視線を移した。
「レオン、これはアルミラの悪ふざけだよ」
「ならばどうして彼女を剥がさずそのままにしている」
レオンの咎めるような声に、ミハイルはどうしたものかと考えを巡らせる。
剥がそうにも剥がれない、と言ったところでレオンは聞く耳をもたないだろう。
ミハイルの腕前はレオンも知っている。鍛えている男性が剥がそうとして剥がれない令嬢がいるはずがない――そう考えるのは、深く考えずともわかりきっていた。
ならばどうやってレオンを落ち着かせるか。
「そういえば」
ミハイルの言葉に耳を傾ける気はあるようで、レオンは眉をひそめながらも黙っている。
「レイシア嬢はどうしたのかな? 今は敵が多いだろうし、一人にするとなにをされるかわからないよ」
レイシアの立場が危ういことはレオンもわかっているはずだ。
そう考えて、ミハイルは話と共に怒りの矛先を変えることにした。
「俺の寵を受けている女に手を出す奴はいないだろう」
だがレオンはどこまでも傲岸不遜な男だった。
自分が絶対と信じて疑わない姿に、ミハイルは一瞬眩暈を覚えた。次期王と懇意にしているとはいえ、レイシアはただの子爵令嬢だ。正妃になることもない立場で、一過性の火遊びだと認識している者も多いだろう。
そしてアルミラこそ正妃に相応しいと望み、その火遊びに無理矢理にでも終止符を打たせようと考える者もいるかもしれない。
自分の権力を信じて疑わず、自分に歯向かう者がいるなどと考えもしない姿に、どうしてこうなってしまったのかと、ミハイルは自分に縋りついているアルミラに視線を落とした。
アルミラはこれまで一切反抗することなく命令を完遂し、トラブルを解決してきた。つまり、アルミラはレオンの成長の機会を奪い続けてきたといっても過言ではないだろう。
他者との軋轢に苦しむことなく、敷かれたレールの上を歩くだけのレオン。兄に対する劣等感こそあるが――むしろ劣等感があるからこそ、次期王の立場に必要以上に固執し、それを絶対的なものだと考えてしまったのかもしれない。
つまり、完全に教育を間違えた。
だがそれをアルミラ一人の責任にすることはできない。彼女にレオンを教育する義務はない。そして自分よりも高位な存在に逆らえないのは当たり前のことだ。
本来教育し、注意するべき立場であるレオンの母親は、レオンがどんな騒動を起こしたとしても黙認し、甘やかしてきた。
王である父親は国営にばかりかまけている。
そして兄であるミハイルは、嫌われている自分が言っても聞かないだろうと、なにもしてこなかった。
ミハイルがレオンとこれまで交わしてきたのは、事務的なやり取りばかりだ。臣下となった際にはレオンの命令を調整し、やりくりする予定ではあったが――この調子では命令から少しでも外れていたら背いたとみなしそうだ。
(これは、まいったな)
まさかここまで悪化しているとは思いもしていなかった。学園に入る前はもう少し聞く耳を持っていたはずだ。
一体なにがレオンをここまで変えたのか――ミハイルの頭に浮かんだのは、レオンが懸想しているレイシアの存在だった。