「俺はお前を気に入った」
学園に入学して間もない頃にはあったやる気は、日を追うごとに失せていった。なにをしても褒められることもなければ、叱られることもない。そんな生活でやる気が出せるはずもない。
そして学園にミハイルがいることも、レオンのやる気をなくさせる要因の一つだった。
――次期王に任命されたんだって? よかったね。
幼少期にそう言われたことがレオンには気に食わなかった。
(なにを言ったんだったか)
柔らかく微笑むその顔が気に入らなくてなにか怒鳴ったのだが、その内容だけはどうしても思い出せない。だがその後にミハイルが引きつった顔をしていたことだけは覚えている。
(思い出せないということは、どうせ些細なことだったんだろう)
思い出せないことは思い出さないほうがいい。無意識にそう判断して、レオンはそのことから意識を外した。
アルミラをこき使いながらやる気の起きない日々を過ごしていたある日、レオンは上から落ちてくるそれに気がついた。
無意識に手を伸ばして、それでも届かなくて、魔法で風を生み出した。
「ふ、え? あれ、私生きてる?」
風によって勢いが殺され、ふわりと地面に着地したそれは茫然と呟いた。
(今度は間に合った)
そうほっと胸を撫で下ろしてから、レオンは首を傾げる。
(今度? 今度とは一体……?)
なにかが頭をよぎりかけたが、情けない叫び声が近くから聞こえレオンの意識がそちらに向く。
「れ、れれれレオン殿下!」
顔面を蒼白にさせて怯えと恐怖が混じる目をこちらに向けてくるそれに、レオンは眉をひそめた。怯えられるのには慣れているとはいえ、さすがに助けた相手に怯えられては気分も悪くなる。
不機嫌そうになるレオンに、落ちてきたそれ――レイシアはよりいっそう顔を青白くさせるとその場に這いつくばった。
「申し訳ございません! レオン殿下のお手をわずらわせるつもりは、まったく、毛頭なく! ですので家族の命ばかりは――」
平伏しながら言い募り続けるレイシアに、レオンの機嫌がさらに悪くなる。舌打ちし、今すぐその場を去ろうとするレオンだったが木に引っかかりゆらめく紙が視界に入った。
それを魔法を使って取ったのは、また取ろうとして落ちては助けた甲斐がないというものだったのかもしれない。ほんの気まぐれでプリントを手元に引き寄せると、いまだ這いつくばって命乞いしているレイシアに押しつけた。
「え? あ、これ」
きょとんと目を丸くしてプリントを受け取ると、レイシアはゆるゆると頬を緩めた。
「ありがとうございます! レオン殿下がお噂よりも優しい方でよかったです」
物言いは失礼極まりなかったが、気の抜けた邪気のない笑顔にレオンはその場から動けなくなった。
こうして、悪意も打算もなく笑いかけられたのはいつ以来だったか、もはやレオン自身ですらわからない。
無論、人に優しくすればいいだけの話なのだが、そのときのレオンは誰かに親切にするほど心が広くなかった。
「……お前、名は」
「わ、私の名前なんてレオン殿下のお耳に入れるほどのものでもなく――」
「答えろ」
ひえっと情けない声を喉の奥から出しながら、レイシアは恐る恐る名乗った。レオンは聞いたばかりの名前を何度か口の中で呟くと、口角を上げる。
「レイシア、俺はお前を気に入った」
このときのレイシアの心境は語るまでもないだろう。
それからレイシアは涙ぐましい努力を続けた。
「レオン殿下には婚約者がいらっしゃるのですから、私など気にかけなくてもよろしいのでは」
そう言って頑張って説得していたのだが、殿下呼びが気に食わないと言われるだけだった。
「レオン様にはアルミラ様がいらっしゃるではありませんか。私では足元にもおよびません」
「アルミラ様とのお時間を大切にされてはいかがでしょうか。私ごときがレオン様の時間を独占するだなんて、畏れ多いです」
頑張って頑張って説得した結果、レオンは婚約破棄を宣言した。
そのときのレイシアの心境も、今さら語る必要はないだろう。
(言うことを聞くやつがいなくなるのは惜しいが、下手なことは言えないし扱いづらかったからな。これでせいせいする)
アルミラに婚約破棄を突きつけたレオンの中に、幼少期に交わしたやり取りは残されていなかった。
些細なことだからと目を背け、忘れてきたレオンだったが、改めてアルミラに婚約破棄を言い渡した日のことだけは忘れられなかった。
迷惑だとはっきりと告げたレイシアの顔が忘れられず、何日も部屋にこもった。いくら休んでも、誰もなにも言わなかった。
報告を受けているはずの父と母も、婚約者だったアルミラも、笑いかけてくれたレイシアからも、誰からも。
「くだらん。王になる俺には、あんなこと些細なことだ」
そう言葉にしてみても、忘れることができなかった。
外に出たのはほんの気まぐれだった。レイシアと過ごしたことがある場所に足が向くのも、気まぐれにすぎない。少なくとも、レオンはそう思っていた。
ただの散歩を終え、これといって得られるものもなく自室に戻ったレオンはそのまま眠ろうと寝台にもぐる。だが目を瞑っても眠りは訪れず、ただ無為な時間を過ごしていた。
日が落ち、消灯時間が過ぎた頃、扉がけたたましく叩かれる。
「なんだ、騒々しい」
苛々と不機嫌に毛布を跳ねのけ扉を開けると、そこには物々しい出で立ちの騎士が立っていた。レオンは眉をひそめ、改めて出直せと命令しようとしたのだがそれよりも早く騎士が口を開いた。
「緊急の用がございます。ご一緒に来ていただけますか?」
「明日にしろ」
「いえ、そうもいかないのです」
物腰低く言う騎士に、レオンは一つ舌を打つ。学園の騎士は王家の管轄だ。王子であるレオンの言葉に従わないということは、王からの命令を受けているということになる。
「すぐに済ませろ」
「かしこまりました」
騎士に連れられ寮を出て少しした頃、レオンは頭部に衝撃を受けその場にうずくまった。
「他の生徒が気づく前に早く――」
「団長はどちらに――」
受けた衝撃からか視界がちらつき、意識がぐらついているのが功を奏した。万全の状態であれば制御できる魔力が、レオンの意識が揺れたことによりその場に渦として巻き上がる。
触れるものを傷つける魔力の渦は壁を抉り、地を抉る。異変にいち早く気づいた兵は慌てて身を引いたので事なきを得たが、これではもう近づけそうにない。
「団長はどこに行った!?」
「さっきまでそこにいたはずなんですが……!」
騎士たちが騒然とする中、レオンは徐々にではあるが持ち直してきていた。そして怒りに満ちた目を騎士たちに向ける。
「貴様ら……! 俺にこんなことしてただで済むと思っているのか!」
怒声が響き、轟と風が鳴った。




